そんな男の元へなんか行くな(ウツシ)

「おにいちゃん」
 無邪気な顔で俺に手を伸ばす幼子は気づけば涙が引っ込んでいた。
「もう泣き止んだのかい。君は強いなぁ」
「本当?」
 大きなまなこに星を沢山浮かべて嬉しそうな顔をする。両脇に手を差し込んで抱き上げれば幾分か重くなったような気がした。本当に、子供の成長というのは早い。そう思ったのは、この子だけではなかった。のどかなオトモ広場、午前の日差しはまだやわらかく気持ちが良い。自宅からここへ、この子は拗ねて走ってきたのだ。
「お母さんに行ってらっしゃいできるかい?」
 彼が頷く様は遠き日の彼女の姿に良く似ていた。溢れんばかりの瞳。口角の上がる下唇が少し厚い唇。辿々しいが、幼いながらに良く考えるところも瓜二つだ。
 ただ、細長いような爪の形は彼女のものではないし、赤みがかった癖っ毛も彼女は持っていない。もう少し育てばもっと出てくるのだろう。彼女以外の遺伝子が。

 あの日の彼女はそれはそれは美しかった。この時のためにその言葉が作られたのではないか、なんて錯覚するほどだ。タマミツネの衣は俺の手で命を刈り取ったものだ。一等しなやかで、鱗は美しく光をやわらかに七色に反射する。硬い紫のそれも体液にしっかりと浸しやわらかな肌触りに変貌を遂げた。嫁入り衣裳を纏って、彼の竜の宝玉を砕いて散らしたようにまばゆい笑顔を携えていた。血も、埃も纏わず、背筋を伸ばして少し緊張しているような彼女の顔を良く覚えている。
 里一番のつわものは、あの日確かに人妻になったのである。
「本当に、お世話になりました」
 そう言う彼女に、堪えていたものが溢れてしまった。きっと、君は父親が娘を嫁に出すときのような、そんな感情を俺の表情に読んだのだろう。家を出る娘への感情など、俺にはわからないというのに。流れる透明のそれを言い訳に数年ぶりに彼女の肩を掻き抱いた。この美しき娘は俺が大事にしてきた。妙な手がつかないように守ってきたのは俺だ。生き方を教えたのは俺だ。この美しき衣も俺が用意した。だから、そんな男の元になんか行くなと、そう言えれば良かった。喉の奥に引っかかった言葉を深呼吸で押し戻して、努めて目尻を下げて声を発した。
「しあわせになるんだよ」
 君はあたたかな笑顔に少しの寂しさと涙を滲ませて元気に返事をしたね。
 きっと気づかれずに済んだ、俺の執着はその笑顔に息の根を止められてゆっくりと彼女から離れた。
 彼女と結ばれた男のことはよく知らない。優しすぎるきらいがあると言っていたのは、彼女の部屋から去る前のフカシギだったか。里の外へと嫁入りをした彼女は数年後、再びこの地へ戻ってきた。なんでも、男が死んだらしい。死んだ男の母親とうまく家族をやることができなかったのだと、彼女は語った。己は本当に役に立てない人間だと、静かに頬を濡らした。あの男の大切なひとをわたしは諦めてしまったと言った。里に戻って数日はひとりで寂しく笑うことも多かったが、しばらくすれば彼女は狩場に復帰した。あの一等強いハンターだ。ギルドは歓迎した。
「今日もここで待っていてね」
 俺やゴコク様のいる集会所に、この子はよく預けられた。そのうち、おにいちゃん、おじいちゃん、なんて呼称で懐く。まだ可愛らしい乳歯の覗く小さな口で母のことを知りたいと言う。小さな耳を俺たちの声に傾ける。瞳をきらきらとさせて、お母さんのようになりたいと笑みを溢す。その表情に、ああ、この子はあの子の遺伝子なのだと突きつけられる。俺の唯一が生んだ愛し子。やもめとなって帰ってきた彼女の心の在りどころ。この、澄んだ瞳が時々、どうしても憎くなる。
 しあわせになると約束したじゃないか。
 あの男の子供なんてこさえてきて、どういうつもりだい。知らない誰かの影を見るたびに奥歯を噛み締めてしまう。君の輪郭を見つけるたびに抱きしめたくなる。こんな矛盾を俺に抱えさせて苦しめるなんて、本当に君はよくできた弟子だよ。

 頬の涙の跡をなぞる。緑のにおいのする、やさしい風が、もうそれを乾かしていた。集会所へクエストに向かう彼女を見送りに行く。今日は自分も着いて行くなんて駄々をこねたらしい。幼い頃の彼女そっくりで微笑ましい。
 この里の人間は、みんな家族なのだ。ただ、その事実が憎い。その距離感にいても彼女の唯一にはなれない事実が今も腸で重たく渦巻いている。この先、これ以上の関係になることもないのだ。まあるい頬に口づけをひとつ落とせば、愛し子は不思議そうに顔を傾げた。




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