側溝の記憶(菊田)

 ぴりりとした緊張感のある会議は、淀んだ空気の入れ替えとともに終わった。後片付けをして、それぞれの椅子をしまいながらわたしも大きくため息をついた。腕、肩を上に伸ばせば関節が音を立てる。しっかりと凝り固まってしまっていたようだ。
 今日はもう就業だし、会議は長引いたから人も少ないだろう。ましてや、金曜日である。誰だって早く帰えりたい。
 デスクからポーチを持ち出して、喫煙ルームに入った。
「お疲れ様」
「お疲れ様です。菊田次長」
 窓際の壁に背を預けて、ワイシャツ姿の上司がいた。少し疲れたような顔をして、紫煙を燻らせている。
 彼が煙草を吸っているのを見かけるのは、いつぶりだろうか。
「久しぶりに見ました。お煙草、辞めたのかと」
「ああ、ムスメが生まれてからは辞めてたな」
 当たり前の事実が、ちくりと胸を刺した。次長は長く息を吐く。その白い煙は分煙機に吸い込まれていった。わたしはポーチから煙草とライターを取り出した。安っぽいピンクのライターを乳白色の爪で弾けば、小さな花が咲く。
 彼は首に手を当てながら、さも家に帰りたくねぇな、という顔をしていた。
「何かありました」
「いや、大丈夫だ」
 大丈夫ならそんな憂い顔を見せないでほしい。大丈夫だと突き放すなら、声をかけたくなるような顔をしないでほしい。
「娘さん、かわいいですか?」
「そりゃあもう、かわいいよ。小さくて、やわらかくて、俺が守らねばってな」
「ふふふ」
 次長は見るか?と言ってわたしの隣にきてスマートフォンを操作した。画面いっぱいに笑顔を向ける小さな女の子は目元が彼によく似ていた。甘いすみれ色のベビー服を着て小さな指でピースをつくっている。くりくりとした瞳には星がたくさん光っていた。
「かわいいですね」
「そうだろう」
「将来、美人になりそうですね」
 小さな唇を綺麗に持ち上げて笑う様がもうそれを物語っていた。次長は表情を緩めて愛おしそうに画面を見ている。
「愛するムスメが待ってるからな。帰るわ」

 あの日、目を覚ますと朝の光を背中に受けながら煙を燻らせている彼がいた。白いシーツの中からゆっくりと彼を見ていた。締まった広い背中、30代半ばにしては衰えていない肌。少し傷んだ寝起きの髪は乱雑に後ろに掻き上げられている。普段のきちっとした姿とのギャップを初めて見た時、わたしの胸になにか刺さってしまった。彼が姿勢悪くベッドに腰掛けて煙草を吸っている。この部屋は昨夜の行為と彼のそれの匂いで充満していてどこか現実味がなかった。彼の肩甲骨が皮膚の下で動いているのが見える。
 臆病で狡いわたしは、彼の肩に、背に、爪痕すら残せなかった。
 結婚をするから、これで最後だと、わかりきっていた終わりはこんなに穏やかだとは思わなかった。
 菊田さんがラブホの安っぽい灰皿に煙草を揉み消すのを眺めて、わたしはこっそりと瞼を閉じた。最後に、彼に起こして欲しかったのだ。狸寝入りをするわたしに彼は気づいていたのか、気づかなかったのか、それはもうわからない。聞く勇気なんて、昔も今も持ち合わせていないのだ。わたしの髪をゆっくりと彼が撫ぜる。さっきまで煙草を持っていたその手で、昨夜わたしをたまらなくした手で、わたしにやさしく触れる。なぜか、たまらなく泣きたくなったのを思い出した。もう降参とばかりに、早々に目を覚ましたふりをして、おはようございますなんて言ってのけたのだ。
 菊田さんとそうなったきっかけは、わたしは酷くみっともなく惨めで、雨の日の吹き溜まりみたいな心持ちの日のことだった。枯れた枝葉と捨てられた吸殻やゴミたちが絡まり合い、追い討ちをかけるように冷たい雨に打たれた。彼はただの部下のわたしの頭を撫でて、忘れさせてやろうか?とおかしな事を言ったのだ。
 彼は文字通り、忘れさせてはくれた。たった数度の逢瀬が今度は胸にこびりついている。いい加減風化してほしい。人間の駄目なところは、思い出を美化してしまうところだ。わたしを含め。

「金曜だ。お前も早く帰れよ」
 そう言って片手を上げひらひらとさせる。彼が扉を閉め、見えなくなったところでため息をついた。
 知っていますか。貴方のせいで、あの時よりもっとみっともない感情がたまに顔を出すんです。貴方が教えた紫煙を、未練がましく燻らせて、自己嫌悪に浸るのです。乳白色の爪にはもうすっかりヤニ臭さが馴染んでしまっている。
 疲れた顔をしながら、貴方の大切な家族のもとに帰るのでしょう。知らないでしょう。臆病なわたしは今日もなにも言えないのですから。




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