NO LDK(武蔵)

2021.2.14.たが夢で無配ネットプリントだったものです。印刷してくださった方、ありがとうございました!



 最初は些細なことだった。
 一緒に観ようと言っていた映画を一人で観ていたとか、仕事との優先順位とか、そういう良くある違和感だ。彼女の「厳くん」と俺を呼ぶ、五月のような声が少し擽ったくてすきだった。それを聞く頻度も減ったように感じる。
 本当に、取るに足らないような事だ。ただ、その積み重ねが、距離を物語っているような気がした。

 彼女は幾つか俺より年上で俺の知らないことを知っていた。
 出会ったのは俺も彼女も社会に出たての頃だ。まだ緊張したような面持ちの固めの女が若い男に絡まれていた。たまたま、そこに通りがかっただけだ。「おい」と声をかければ男はどこかに消えていった。ガタイが良くて、老け顔の自覚はあるが、こうやって役に立つ事は珍しい。礼をしたいと彼女は言っていたが、俺は適当に流して帰宅した。その週のことだ。
「どれですか」
 仕事帰りにコンビニで飲み物を選んでいた時のことだ。横から声がすると思えば、先日の女が隣で俺に声をかけていた。
「先日はお世話になりました。アイスもいりますか?これ美味しいですよ」
 あれよあれよとペットボトルとアイスバーを持ってレジで会計を済まされた。
「お会いできて良かったです。お礼、させてくれないから」
「大したことしてねぇだろ」
「わたしにとっては大したことだったので」
 春が近づき、桜の芽が膨らんでいる。夕暮れは肌寒い。公園のベンチで二人体を冷やしながら、アイスを齧っていた。冷菓を食べること自体が少ないうえに、屋外でなんて学生の頃にでも戻ったような気すらする。
「お名前を伺っても」
 妙に強情なところのある彼女との関係はそんな始まりだった。

 バターはしあわせの味がする。だから、沢山使って良いのだと、俺に教えてきたのは彼女だった。昨夜は二人並んでテレビ画面をぼんやり見ていた。眺めていた、の方が正しいのかもしれない。どうせ二人とも頭に内容など入っていなかったのだ。狭いワンルームで、ベッドに腰掛けて、画面を眺めていた。バラエティ番組が終わり、古い映画を正面に、横目で彼女をなぞっていた。
 化粧っ気のない肌を知っている男は自分だけだった。それこそ、この先もそうだと思っていた。つるりとしたそれは、俺とは違う成分でできているのだろうか。触れたい、と何度も思っては指先同士をすり合わせて、やめた。そんな風に無為に時間を浪費しているうちに眠りについてしまったらしい。
 しあわせの香り、というのだろうか。柄にもない事を考えてしまうのは彼女の影響だろう。
 起き上がると、彼女は朝食の準備をしていた。
「おはよう。もう準備できるから、顔を洗ってきな」
「おはよう」
 朝にふさわしい笑顔で俺に挨拶をくれる。
 ふんわりとしたオムレツはバターが効いていた。鮮やかなグリーンが横に添えられていて、いつもよりブランチらしいブランチだ。彼女はいつも通り、グラスにオレンジジュースを注ぐ。やたら黄色い食卓だ。
「やっぱりうまいな」
「そう?うれしい。久しぶりじゃない、そういうふうに言ってくれるの」
「そうか?」
 彼女の言葉に、そういえばそうだったかもしれないと思い返した。
 この部屋に根を張り始めた頃は皿の上には少し焦げたスクランブルエッグが乗っていた。それがふわふわのオムレツになったのである。
「うまくなったな」
「そりゃ、食べる相手がいるからね」
「ありがとな」
 嬉しそうにわらう彼女。そのやさしげなまあるい笑みがすきだった。
「厳くんは美味しいって表情に出るよね」
「そうか?」
「そうよ。貴方、表情がわかりにくいって言われてるだろうけど、口元がやわらかくなるからわかるわ」
「そういうもんか」
 まるでこれからも穏やかな二人の生活が続いていくのではないか、と錯覚してしまう。ふんわりと焼かれたオムレツが似合う、そういう暮らしはもう終わってしまうのだ。
 食器を下げる無機質な音が、虚無感を募らせた。

 彼女の部屋が羨ましい。俺はたった二年しか許されなかった。
 なんだったか、窓際にある観葉植物は俺より長く彼女に寄り添っている。玄関に揃えられたパンプスは、毎日彼女を支えて、身を削っている。そんなものに感情を抱くだけ無駄だと、それも別れる女の未練を持つなんて無駄だとわかっているのに、だ。
 使い古したスニーカーを履く。左肩に荷物を背負う。荷物の軽さに、この部屋にあった痕跡などこの程度だったのだと思い知らされたような気がする。
「なぁ」
「ん」
「俺は……」
 玄関に立ち、彼女を見る。左側に流れがちな前髪の隙間から、黒い瞳が俺を見ている。視線が絡み合うと、左手を、右手を衝動的に彼女の背に回した。少し低い体温が、俺の腕のなかに納まる。やわらかくって、ちいさい。
 何を言えば良いかもわからない。唇を開閉して、やめた。
 彼女は静かに俺を押し返した。俺は何を期待していたのだろうか。抱きしめ返してくれれば満足だったのだろうか。それとも、やっぱり、と引き止めてくれるとでも思ったのか……。
 寒色の玄関マットの上に彼女のつま先が見える。あたたかい、やたら肌触りの良い甘い色のルームソックスを履いている。そのまま、顔も見ずに後ろを向いた。
「じゃあね、厳くん」
 玄関ドアの閉まる音を背に、俺は歩き出すしかなかった。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -