髪を乾かしてくれる友だちのオガタ

 傷んだ髪を丁寧に手入れしたのは、貴方のためだった。貴方は知らないでしょう。髪に触れるたびに、今までどんな女にこうしてきたのかって、どんよりとした錆色の何かが腹の中で渦巻いていることを。きっと、こうすれば女性は喜ぶって、簡単だって思っているのではないかと勘繰ってしまう。
「なんだ、風呂は終わっているのか」
「いらっしゃい」
 今日こそ、最後にしようと思った。オガタはネクタイを緩めて勝手を知ったように上り込んでくる。脱いだジャケットに桜の花びらがついていた。ひらりと床に落ちる。
 この猫のような男はふらりと部屋を訪れる。週に2回来ることもあれば、2週間間が開くことだってある。
 出会ったのは映画館だ。夕方に入ったにも関わらず、座席はぽつり、ぽつりととしか埋まっていなかった。お陰で、真ん中の方に座れたが、そこから2時間近く苦痛が待っていた。映画館を出ると、お手洗いを済ませ、喫煙所へ向かった。紫煙を燻らせる。首を持ち上げ、そして下げて大きなため息をついた。
「クソみたいな内容だったな」
 斜め前でだるそうにタバコを吸っている男が言った。わたしに言ったのか、と理解するまで数秒を要した。喫煙所にはわたしたちしか居なかったが、彼とは初対面だったのだ。
「後ろに座っていた」
「なるほど」
 特徴的な髭の彼は、オガタと名乗った。
 彼が言うように、クソみたいな内容だった。つまらなかった。ハズレを引いたなぁと、彼には曖昧に笑っておいた。
「ああいうのが好きなのか?」
「いや、なんか観たくて……たまたま入ったら失敗だったって感じです。そちらは」
「チケットをもらって絶対観てこい、感想を寄越せ……なんて言われてな」
 今度は彼がため息をついた。
「このままだとクソつまんなかった、で終わってしまう。もし時間があるなら、振り返りに付き合ってくれないか?」
 せっかく出かけたのに、このまま帰るのはなんだか損した気分だと思っていたせいだろう。普段は乗らないだろうその誘いに乗ってしまった。
 チェーンの居酒屋で焼き鳥とハイボールを胃に入れながらだらだらと話すと、意外と趣味が合った。わたしも彼も、今日観た映画は退屈だが、サスペンスなんかは楽しむタイプだった。楽しくお酒を飲んで、気づけば終電を逃していた。駄目な社会人である。駄目な社会人らしく、その日出会ったばかりの人間に抱かれることになった。
 それが、数ヶ月前の話だ。
 ワンナイトで終わらず、一緒にご飯を食べたり、また映画を観たり、セックスをした。だけど、わたしたちは交際しているわけではないし、彼の映画の趣味と食の好みを少し、あと、どういったセックスをするか、しかわたしは知らなかった。
 オガタはわたしと夜を過ごす時、わたしの髪を触ることが多かった。ドライヤーをわたしより丁寧にかけたり、恋人でもないのに一緒にシャワーを浴びた日にはシャンプーまでしてくれた。わたしより大きな手で、長い指で、頭皮を髪を優しく触れた。
「わたし、今年28になるのよ」
 そう漏らしたのはいつだったか。友人の結婚式の次の日だった気がする。たった数ヶ月の間にわたしは彼に惹かれてしまったらしい。そんなぼやきに対して、彼は「そうか」と一言こぼしただけだった。もしかしたら聞いていなかったのかもしれない。それとも、面倒な展開を考えてそっけなく返したのかもしれない。ただの友だちに漏らす感情としては些か重すぎる気配がしただろう。そう思うと、臆病なわたしは、彼に踏み込むことはできなかった。
 ダラダラと過ごすわたしたちは、セックスもする友人である。たぶん、遊んだついでにセックスは、する。くらいの関係だ。
 きっと、彼がわたしの髪に触れる意味なんて大してないのだ。勝手に勘繰った予想なんて、わたしが勝手に惨めになっているだけである。
 彼の指に、これ以上溶かされて時間を使いたくない。そんなふうに思ったのに、毎回、今日で終わりにしようと告げようと思っているのに、彼がわたしの髪に触れるとたまらなく心地よくて伝えることができずに終わるのだ。

 浴室から出たオガタは、青白い肌が少しピンク色になっていた。わたしは、どうも落ち着かなくて、金曜夜定番の音楽番組を流している。ぜんぜん、情報は頭に入ってこなかった。
「ねぇ」
「なんだ」
 ベッドの淵に座って画面を眺めるわたしの横に腰掛ける。ベッドは彼の体重でギィと鳴った。わたしが直ぐに口を開かないため、流行りのJPOPだけが部屋に響いた。
「今日で最後にしましょう」
 良かった。思ったよりちゃんと、言葉が発せた。わたしは意味もなく画面を眺めている。彼の方は見ない。
「そうか」
 オガタはいつかと同じように一言こぼした。そうして、冷蔵庫に向かい、勝手を知ったように麦茶を飲んだ。

「じゃあ、これが最後のセックスか?」
 シーツにわたしを押し倒したオガタが改まってそう確認するから、わたしはおかしくてわらってしまった。

 息苦しさで目を覚ました。薄く、ゆっくりと瞼を開ければオガタがわたしのことを抱きしめていた。こんなことは初めてで少し混乱する。
「起きたか?」
「……おはよう」
「ああ、おはよう」
 なんとも甘ったるい笑顔を彼は作っていた。真っ黒な瞳はいつもと同じようだが、どこか蜜を煮詰めたような粘度を持っている。
 もう彼が隣にいる朝も最後だと思うと、名残惜しく感じてしまいそうだった。さっさとご飯を食べて、本当に終わろう。そう思って立ちあがろうとした。
「なんだよ。まだ寝てろよ。昨日は無理しただろう」
 腰に鈍い痛みを感じて起き上がれない。そういえば、最後のセックスはいつ眠りに落ちたかもわからない。オガタはいつもよりゆっくり、わたしのからだを溶かし奥へ奥へと攻め立てた。いつもより少し激しくて、少し乱暴で、甘やかで、悲しくて、そして何故か懐かしかった。
 オガタはわたしの髪を撫で回す。
「何がほしいんだ?」
「どういうこと?」
「何か足りないから、終わらせたいんだろう。お前は何が欲しいんだ」
 何が欲しい。その答えは簡潔だ。オガタが欲しい。そう、伝えられれば楽なのだろう。わたしは曖昧にわらった。
「お前は、肝心なことは口にしないな」
「オガタだって、なにも教えてくれないじゃない。わたし、貴方のこと、あんまり知らないのよ」
 甘い雰囲気に、すっと水を差した。わたしの言葉にオガタは黙り込んだ。だって、わたしは何もわからないのだ。
「俺はわからないんだよ。どうすればお前がしあわせか。逃す気もなく近づいたのに、結局気持ちを理解することはできない。どんなに物語を観ても、心の機微というやつは、お前に対する触れ方はちっともわからなかった」
 真っ黒な瞳を彼は揺らしている。初めて、彼の柔らかい部分を見せられた気がした。残雪のようにもの寂しい声だった。
「それでも、今度こそ離したくないと思ってしまう」
 このひとは、いつもひとりでも平気な顔をして、わたしを求めることもなかったのに……。彼が吐露した感情はとてもすぐには咀嚼しきれない。のらりくらりとした猫ではない。ひとりでどうしようもない感情を抱えていただけだったのだ。
「オガタは馬鹿だね」
 わたしがわらうと、彼はきょとんとした。瞬きを数回する。
「そう言ってくれれば良かったんだよ。わたしが欲しいって。それだけで良いんだよ。わたしだって臆病だから、これ以上、貴方にハマりたくないって思ったのよ」
 オガタはそうか、と一言だけこぼした。欲しがっていたのは貴方の方だったのか。わたしは彼の乱れた前髪を手櫛でかきあげた。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -