牛山と木蓮

 学生の頃、放課後はキャンバスや画用紙に向き合っていることが多かった。ペインティングオイルの匂いは、決して良い香りとは言えなかったがそれらに向き合っていれば気にならなくなった。学校指定のジャージは所々油彩やアクリルガッシュが撥ねて部室以外では少し浮いていたのを覚えている。たしか、2年生の頃だろうか。通学路に見事な木蓮があった。青い空に向かって、白い花を開いている。雲よりは少し花の根元が黄色がかっていたような気がする。2年生の終わりから3年生の序盤はその花を大きなキャンバスに描いていた。伸びやかに、力強く。ローアンバー、カドミウムイエロー、パーマネントホワイト、たくさんの色を重ねて忍耐強くそれを描いていった。

 持ち帰った書類のことを考えると、どうもお腹の奥がずしりと重くなる。思わずため息をついてしまった。
 社内の人間は、この1年で随分と変わったように感じる。異動するひと、退職するひと、副業を精を出して勤務日数を減らすひと、様々だ。テレワークが定着するなんて、考えてもみなかった。ひとが減っても補充されず、その結果は個人の業務過多である。いつも、というわけでなくても年度末、流石に疲れた。
「どうした?疲れた顔をしているな」
「ああ、こんばんは。牛山さん」
 こんばんは、と返す彼は同じアパートの住人である。お仕事帰りだろうか。駅で会うのは珍しい。
「ため息、めずらしいな。ついているところなんて初めて見たぞ」
 そう指摘されると、嫌なところを見られたなぁと少し落ち込む。つま先を見れば、ローファーの先が少し削れていた。わたしになんだか似ている。それに比べて牛山さんの革靴はぴかぴかとしている。彼は身だしなみが小綺麗なのだ。
「ちょっと仕事が立て込んでまして」
 小さく笑う。ふと、小さな疑問を持った。マスクをしているとため息だったりもわかりにくくなるものだ。そんなにわかりやすかったのだろうか。
「お前さん、いつも笑顔で挨拶してくれるだろう。そりゃあ様子が違えば気がつく」
「そうですか」
 帰路が同じ2人は、自然と並んで歩く事になった。牛山さんの顔も、わたしと同じように半分は白いマスクに覆われているが目元が穏やかだ。19時前の住宅街は薄暗いけれど、彼と歩くのは心強かった。

 信号で立ち止まると白いものに気がついた。街灯が、牛山さんとそれから白い花を照らしている。枝はいくつにも分かれて、その先に白くて大きな花を空に向けて咲かせる。夜の帳が下りてきて、まるでその花たちだけが白く輝いているように見えた。
 白い花弁が重なる様は美しい。その花を上へ上へと持ち上げる枝の、幹の影もまた力強くて魅力的だった。牛山さんと、その花たちはなんだか妙にマッチしている。わたしに向けるやさしい目元がなんだか似ているのかもしれない。
「知ってるか?駅の反対側の公園になんだったか黄色い花が咲いている。池の周りをわぁっとだ」
 思わずほうと見惚れてしまった。そんなわたしに彼が声をかける。輪郭の陰影がはっきりとしている。
「花が好きなんだろう」
「そうかもしれないです」
 あのとき描いた花も、この花も、それから駅ビルの花屋で見かける色とりどりの季節も、好ましい気がする。生け方がわからないし、枯らしてしまう気すらしてしまうから部屋を彩ったことはなかった。
 牛山さんは、そういう顔をしている。と言った。彼は、わたしをよく見ているらしい。
「公園近くに新しくパン屋ができたらしいが、どうだ?息抜きも大事だろう」
 きっと、わたしの目元は弧を描いている。
「じゃあ、明日の朝、わたしとデートをしてください」
 牛山さんは穏やかに目元を緩めてから喜んで、と返した。アパートの前ではソメイヨシノが蕾を膨らませている。




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