斎藤さんと臆病
名の無いもの/notマスター
我が物顔でわたしの部屋のシャワーを浴びていた男は最近めっきりここを訪れなくなった。薄暗い部屋で歯磨きなんて、まるで人間みたいなことをしていた。わたしの部屋に、わたし以外の歯ブラシなんて置いていかないでほしい。消耗品であるそれをダストボックスに無造作に捨てた。
彼はリツカくんのサーヴァントだ。カルデアの電力で動いている、影である。わたしが日本人だからということもあって、新撰組と聞いて思わず召喚されたばかりの彼を目で追ってしまっていたのがきっかけだ。ばちりと視線が噛み合って、よく僕のこと見てるよね。なんて、あの食えない笑みで言われればこくこくと頷くことしかできなかった。
斎藤さんはゆるい雰囲気でわたしとの距離を詰めていった。2人でおうどんを食べた。ブルーライトカットのメガネを掛けながら目を細め、モニターに向き合うわたしにお茶を差し入れてくれた。働きすぎるなよ〜なんて、肩を叩いてくれた。
それから、セックスをした。
サーヴァントと関係を持ってしまった。彼らは、リツカくんと世界を救う役割でわたしはただのスタッフでしかないのに、だ。
斎藤さんの掴み所のない、あのいなすような声に少し色が滲む。わたしは、それが嬉しくて仕方がなかった。いつも、わたしの名を呼ぶ声が、セックスをするときだけお前、と呼ぶのだ。どこかにのらりくらりと行ってしまうような口調なんて捨てて、わたしに荒々しい物言いをする。わたしをここに縛りつけるように、苦しげな声で、お前と呼ぶ。まるで、ただの人間の男のようだった。
彼と肌を重ねたのは両の手を超えていたと思う。週に数回、ふらりと現れて、猫のようにわたしに口付けた。耳に甘く歯を立てて、わたしを呼ぶのだ。しかし彼は、ただ、なんの前触れもなく、わたしの部屋を訪れなくなった。
ああ、こんなつまならい人間は飽きられたのだと思った。それも、仕方のないことだった。
斎藤さんは変わらずリツカくんと一緒に戦っていて、カルデアで生活している。廊下で他のサーヴァントとお話しているのを見かけることもあるし、食堂で麺を啜っていることもある。素材を集めに行ったり、シュミレーターで訓練している様子も窺える。ただ、彼は自分からわたしに声をかけて来ることはなかった。あの声でわたしを呼ばない。ただの技術者のわたしは、用もなく彼の声に触れることもできなくなってしまった。
わたし以外に話しかける、彼の声からあの湿度は感じられない。苦しそうで、気持ちよさそうなあの声も、わたしへ触れる温度も、いったいどんなものだったのかしら。もう、あの夜は朧げになってしまった。彼を思い出して自らを慰めるなんて、惨めなことすらできないのだ。
同僚にため息が増えた、と言われた。ちょっと疲れているだけよ。と返した。
リツカくんの姿を探さないようになった。きっと、隣に彼がいるから。
ある影が言った。
「そんなに寂しそうにしていると、部屋で食っちまうぞ」
わたしは笑って誤魔化した。そんなわけないでしょう。気のせいよ。なんて。白々しい照明で無駄に明るい廊下にはわたしと、その影の姿しかなかった。影は眉をハの字にして笑っていた。髪が綺麗な影は、ちょっとズルいところがあるが優しい男だった。玉のような肌を彩る花が美しい。どうも人間の機微に聡いようで、わたしが落ち込むと声をかけてくれる。滑らかな濡れ羽色の絹は、彼が首を傾げるととろりと揺れた。
「心配くらいさせてくれよ」と、彼はわたしの頭に数度ぽんぽんと触れて廊下の向こうに消えて行った。
その晩、部屋に戻ると斎藤さんの姿があった。電気くらい点けていて欲しい。急に現れたこともだけれど、顔色が良いとは言えない彼が暗い部屋にいるなんて驚いてしまう。
「なぁ、なんとも思わないのか」
ベッドに腰掛ける斎藤さんは言った。視線は乳白色の床を見ている。表情はわからないが、すこうし、わらっているようだった。
「……そんなわけ、ないじゃないですか」
天井の照明を点ける。彼の前に立った。
全く、どの口が言っているのか。急に、わたしから離れたのは貴方だというのに。
「飽きてしまったのでしょう。わたし、仕事しかできませんもんね。楽しくは、ないでしょうし」
思っていたより、棘の多い言葉が並んでしまった。それに驚き、感情的になっていることを自覚してしまう。眉間に力が入る。喉の奥が熱い。泣くな、泣くな、泣くな、泣くな。このひとにみっともない姿を見せたくない。面倒な女のレッテルなんて貼られるくらいなら、ただの技術者で良い。
わたしは自身のつま先を見た。少し、靴の先が汚れている。斎藤さんの足元が視界に入る。ダークカラーの革靴はわたしのものに比べて幾分も大きい。彼が立ち上がった。
「なんだ。僕のことをそんなに想ってくれてたのか」
「うるさいです」
斎藤さんはわしわしとわたしの髪を撫でる。傷んだ黒髪はすぐにぼさぼさになる。それを撫でつけると、そのままわたしの背中に腕を回した。
「俺はただの、マスターの一介のサーヴァントでしかないんだよ。やめとけ。そんなもんに情を持つな」
斎藤さんはそう言っているけれどわたしの背中を包む腕を退けてくれることはなかった。「手遅れになる」と小さな声で言った。ぎゅうと、言葉とは逆の意味を持っているかのように彼はわたしを抱きしめる。どこか、縋り付いているようにさえ見える。
「いいんですよ。もう、とっくに手遅れなので」
「……そうか」
斎藤さんは吐息だけでそう頷いた。背中を数回、彼の手が滑り解放される。真っ黒い彼の服からゆっくり視線を上げれば、視線が噛み合う。口元が少し緩んでいて、なんとも穏やかな顔をしている。
わたしたちの関係に、誰も名前をつける事はできない。わたしも、そして彼も。ずっと隣にいることも、きっと、できない。わたしは目元を腫らすことになるだろうし、わたしを置いていく彼が何も思わないはずがない。
それでも、名前がなくても、この影を人間のように求めてしまうのだ。
洗面台に並んだ歯ブラシも、きっといつかは、また一本だけになる。