浮気する阿含くんがどうにもならない

欲して泣け/『阿含、浮気ばれるけど最後は上手く収まるちょっと切ないやつ』1周年フリリク、ありがとうございます!ブログに返信をしています!



 ああ、またか。落胆することに慣れてしまったようで、そんな言葉が心にふと浮かんで消えた。視界に入った派手なドレッドと、その彼に腰を抱かれるワンピースに対してこんなにも心が動かなくなった。錆び付いてしまったのだろうか。その割には、目の前のサラリーマンが指示する番号のタバコを正確に取り出して受け渡す。
 隣のレジで缶のお酒を支払う女は、わたしとは似ても似つかない。どうして、彼はわざわざこの店で買い物をするのだろうか。

 阿含くんとわたしの関係が幼なじみから変化したのは、わたしが高校を卒業するタイミングだった。もう、2年半ほど前のことだ。1つ下の彼ら双子は、一応幼なじみというものだった。一応というのは、彼らが男子校への進学を選んだからである。わたしたちの接点はすぐに消滅した。
 卒業式の日のことである。桜が咲くにはまだ少し肌寒い。日差しだけは、確かな春を感じさせる。学校に並び植えられたソメイヨシノはまだグレーの空を透けさせていた。
「よぉ」
 わたしはあんぐりと口を開けた。スーツや着物、品の良い服、そして見慣れた制服が並ぶ中、彼は現れた。テカテカとした生地のジャンパーを羽織ったドレッドヘアーは平凡な高校ではそれはそれは浮いて見えた。
「えっ、なんでいるの?」
「かわいい幼なじみのお祝いに来ちゃ悪いかよ」
 にや、と笑う彼は絶対そんなことを思っていない。
 その日は何故か、そのまま彼の部屋を訪れた。渡したいものがある、とかなんとか言われたような気がする。
 子供の頃ぶりに阿含くんの部屋へ入ると、締め切ったカーテンが目に入った。しかし、それは一瞬だった。大きな口が、わたしの口をがばりと食べる。信じたくはなかったが、これがわたしのファーストキスだった。でろりと舐められ、唇をこじ開けられた。驚いて抵抗もろくにできず、呼吸の仕方もわからなかった。合わさった唇から訪れる刺激に目を白黒させるので精一杯だ。
「お前、かわいいな」
 わたしにとっては随分とそうされていたような気がする。まともに酸素を吸えた頃には、わたしは壁に背を引きずり座り込んでしまっていた。阿含くんは呼吸ひとつ乱さずにわたしを見下ろしていた。部屋が暗かったからか、わたしが酸欠気味だったからか、彼の表情は見えなかった。
 その数週間後には阿含くんはわたしの処女を奪ってこう言った。
「お前のハジメテを他の奴にやるつもりはねぇよ」
 彼は妙に機嫌良さげにわらった。この年下の男は、わたしの頭をぐりぐりと掻き回した。そして、わたしは彼のものになった。
 阿含くんの口から交際関係を結ぶような言葉が出るわけはない。わたしだって、それに期待はしていないのだ。ただ、阿含くんがそう言うのなら、そうなのだろう。

 2年半、というのはそこそこ長い時間のような気もするし、短い気もする。わたしは専門学校を卒業した。憧れていた業種に就いたが、理不尽なことがあり早々に辞めてしまった。あの嫌味な上司は、これだから最近のワカモノは……、せめて3年続けてみろよ、とかなんとか言っていたが、最後までねちっこいという印象にしかならなかった。
「いらっしゃいませぇ」
 とりあえず、働かなければならない。家は出てしまっていたので近場でアルバイトを始めた。また就活をやる気になれなかったのもある。

 一人暮らしのワンルームは正直広くはない。阿含くんは狭いと言う。わたしがひとりで生活する分には充分な広さに感じるが、彼が訪れると途端に窮屈に感じる。
「なんか食わせろ」
 そんなことを言いながら、今夜、我が部屋にやって来た。阿含くんはこうして気まぐれにわたしの元を訪れる。我が物顔でテレビの前に座り、チャンネルを回す。つまんねぇなと舌打ちをして、電源を切りスマートフォンを弄り始めた。
 急に来られても大したものは作れないと言っているのにやめてくれる気はないようだった。
「もう少しかかるけどシャワー、浴びてくれば?」
 わたしは生姜焼きで良いかな?と続けようとした。
「あー、浴びてきたからいいわ」
 阿含くんはそのまま、わたしのベッドに横になった。視線はスマートフォンから逸れない。
 どこで、なんて聞けない。
 阿含くんがこうなったのは、ここ数ヶ月のことだ。わたしが退職したあたりの頃だろうか。アルバイト先が決まってから、彼にそれを伝えると「はぁ?」と機嫌が悪くなりその日はそのまま帰ってしまった。それからだ。彼が女性のにおいをさせるようになったのは。これだけ一緒にいて、好きだと言われたこともなく、それを期待できるとも思っていない。今までわたしの前でそんな影を仄めかさなかったのがおかしいのだ。きっと、そろそろわたしは彼に必要なくなる。どうしようもない感情をぐっと我慢して、豚肉を取り出した。
 下味をしっかりつける時間もなかったが、まぁ、許してはくれるだろう。急に来たのは阿含くんなのだから。お皿によそっていると阿含くんは慣れたように冷蔵庫を漁った。
「珍しいな。酒あんじゃん」
 我が物顔でアルコールの缶を数本、冷蔵庫から攫っていく。それは友人が先日置いて行ったものだ。どうせ肉を漬けるくらいにしか使われないので、まぁいいかと見送った。
 夕飯を食べながら彼は缶を開けた。食後、食器を下げ、洗おうとキッチンに立つと彼はこっちへ来いと絡んでくる。泡を落として、引っ張られるまま先ほどまで食事をしていた部屋に連れ戻される。
 テーブルの上にはお酒が数本並んでいる。たぶん、全部飲む気だ。阿含くんはわたしを床に座らせるとそこに覆い被さるようにキスをしてきた。醤油とお酒の香りがする。そんななかでも、ちらりと脳裏に彼と一緒にいた女が浮かんだ。嫌な気分だ。
 捕食者の瞳がわたしを捉えた。目を細める。
 彼はおもむろに机上の缶を手に取り呷った。そのまま、また彼の顔が近づく。
 阿含くんの口から移されるお酒は、ぽたぽたと顎をつたって溢れていく。あまくてにがくて、舌が痺れるようだ。ああ、カーペットにシミができてしまう。
 お酒は苦手だ。具合が悪くなる。空きっ腹で飲めば吐いてしまうし周りに迷惑をかける。気持ち良く酔えたことなんてない。次の日だって、顔はパンパンに浮腫んで、頭は重くて最低の気分になる。
 口が離れて、息継ぎをする。
 また、彼の唇が降ってきた。
 思わず彼のシャツをぎゅ、と握り押し返すが彼はわたしの鼻を摘んだ。口を開いてしまう。ああ、また流れていく。きっと、こんなもの、大した量ではないのだ。
「やめて」
 次に唇が離れたとき、わたしは確かにそう言った。シャツを握りしめたまま。派手なそれは、わたしとは対極にあるようなものだった。シワがよってしまっただろうか。ぐしぐしと、みっともない体液が瞳から溢れてくる。いやだ。
 俯くわたしの額を阿含くんは手のひらで押し上げた。そのまま、そこを掴まれて無理矢理視線を合わされる。痛く、はない。
「やめて」
 もう一度、わたしは空気を震わせた。小さな声だった。大きな獣のような、彼に耐えられなくなって視線だけでも逃げようとする。
「逸らすな」
 彼はそれすら許さない。
 阿含くんに見つめられると、いつもこうだ。心臓はきゅうと縮こまる。触れられると大きく反応して、マラソンの後かというくらいポンプするのに。
「お酒、苦手なの知ってるでしょ」
「ああ……」
 阿含くんの目元は弧を描く。
「シャワーもうちで浴びれば良いし」
「知らない女のひとを抱いた後にわたしに触らないで」
「触らないで」
「離れないで」
 酔ったわけでもないのに、口からはぼろぼろと言葉が転げだす。待って、やめて。阿含くんに捨てられてしまうのは嫌だ。幼なじみの殻を破ったのは彼なのに、わたしの方がとっくにずぶずぶなのだ。口からも目元はからもみっともない想いが溢れてくる。苦しい。自分の欲に溺死してしまいそうだ。
 汚い顔を逸らすことも許されない。
 窓の外から車の走行音がする。壁にかけた時計の秒針の音。たまに吹く風のごうごうとした音。それから、わたしの嗚咽。
 阿含くんはその大きな手でわたしの目元を拭った。そのあと、自身の袖口でわたし
の涙の跡をなぞる。ひりひりする。眉間に皺を寄せて、それでいて、なんだか居心地の悪そうな顔をしていた。
「お前はもっと欲しがれよ」
 彼の言った言葉がわからなくて、瞬きをすることしかできない。今度は阿含くんの方から視線を逸らした。彼は壁に向かってため息をつき、それからいつかと同じように彼は妙に機嫌良さげにわらった。
 アルコールの缶は汗をかいていて、テーブルを濡らしている。彼はもうそれを口に含むこともなく、わたしに唇を押し当てた。
「お前はもう少し面倒くさくなれよ」
 阿含くんは視線を合わせてくれない。どこか安心したような雰囲気の彼と、わたしは穏やかな夜を過ごすのだった。




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