「ねぇ、ちょっと愚痴聞いてもらってもいいかな?」
「珍しいね、あきらが愚痴なんて。良いよ」
ゆるやかな音楽が流れる。ナックルシティの夜は大人のための時間だ。
あきらはグラスを手で弄ぶ。
高い天井に落ち着いた光度の照明。シックな深いカラーのソファはベロア生地で高級感があった。21時台といえど平日夜のバーの客数はこんなものだろう。賑わいすぎるわけでもなく、ひっそり過ごすには都合が良い。
「この前ね、彼の部屋の掃除に行ったんだけどさ、」
ゆるく巻いた明るい髪と、上向きのまつ毛が彼女の性格をあらわしているようだった。
彼の部屋の掃除に行った際の話だ。
彼はちょっと顔が知れているので素性は友人にも伝えられていない。今まで聞いた話からあきらに見合った素敵な男性だと、話の節々から汲み取れた。
彼は一緒に暮らしているポケモンの関係で広い浴室と脱衣所を備えた部屋に1人と数匹で暮らしているそうだ。
忙しい彼のために定期的に掃除をしに行く彼女は、その日浴室と脱衣所を中心に行う予定だったそうだ。
浴槽を漂白して、排水口を綺麗にして、鏡をピカピカに磨き上げる。ポケモンが落としたであろう細かい砂も取り除いて、あとは細かい隙間だけ、というときのことだ。洗面台と棚の間に掃除用ワイパーを差し込めば奥でコツリと何かに当たった。埃に塗れさせるのも良くないと奥に手を伸ばせば出てきたそうだ。
「小さいね、小さいパックのクレンジングオイル」
確かに彼はメディア露出もある人間だから、メイクすることはあるけど、化粧水ブランドを揃えて収納してあった。シュートシティに直営店を構える黒を基調としたパッケージのそれが彼の御用達なのだ。
あんなトラベルサイズのピンク色の小瓶、彼が持っているわけないのだ。
「わたし、魅力ないのかなぁ。キープだったのかなぁ。こんなにすきなのに、」
「あきらは魅力的だよ!いつもきれいにしてるし、背筋も伸びてるし、髪や爪の先までピカピカじゃない!それに、まだ浮気って決まったわけじゃないよ!」
「そうかなぁ」
「そうだよ。ちゃんと話し合った方が良いよ。あきら以上の女の子にその人も出会えないって」
力説するとありがとう、とだけこぼした。
その日はそれで解散する流れとなった。
駅まであきらを送り届けると、彼からメッセージが届いていた。
迎えに行く。
目立つからいいのに、と普段は言っているのに、でも、やっぱり嬉しい。彼がわたしのために時間を使ってくれることが嬉しい。
「待ったか?」
「ぜんぜん、ありがとう」
ふふふ、と笑みが漏れてしまう。
彼、キバナは彼女に大きな手を差し出した。
「今日は誰とデートだったんだ?」
「デートって、キバナと付き合ってるのに他にいないよ。あきらと飲んでたの。ほら、前に話した同級生の」
キバナは思い出したように、あーと声をあげた。
「すっごくきれいな子なんだけど、なんか、彼氏とうまくいってないみたいで」
「へぇ」
「彼氏が浮気してるかも、って話だったの。わたしだったら、あんなにきれいな子絶対手放さないのになぁ」
街頭の照らす古い街並みは、1人で歩くには不安を煽る要素が多い。彼の大きな手に捕まえられて、歩幅を合わせた彼女にはその要素など今日は感じられなかった。
◆
ナックルシティで大事な用を忘れてしまった。あきらは乗ってきた反対方面の電車に慌てて乗り換える。スマートフォンの充電はまだ十分である。あるマップを開くと、そのフラッグはナックルシティの駅に向かって動いていた。
これは、今夜会えるのでは!
あぁ、なんで良い夜だろうと胸が膨らむ。
車窓を流れゆく街並みに心が躍る。小さい鏡を取り出してメイクを確認する。ああ、夜だし、ちょっと強めのメイクでも良いかもしれない。リップだけ濃い赤を塗り直した。
ナックルシティに着いたとき、そのフラッグは元来た方角に進んでいた。はしたなくない程度の速度で足を運ぶ。しばらくすると、人影が2つ並んでいた。あぁ、彼と、彼女は、
「よく、のうのうと歩けるわね、」
先程彼女はわたし以上の女の子はいないと言っておきながら、彼の隣を歩いていた。
2人は話に夢中なのか、わたしには全く気がつかない。
心が冷えていく感じがする。
スマートフォンを取り出し、2人に向ける。
わたしだったら彼みたいな人気者に迎えに来て欲しいなんて図々しい事言えないわ。
ピロン、なんて間抜けな音がこだまする事にも気づかない2人は夜道に溶けていく。
あっちはわたしがクレンジングを拾った部屋がある。
◆
オレは彼女に合鍵を渡していない。
別に信用していないわけでも、遊びなわけでもないのだ。
「そろそろ次の部屋探すか」
「引っ越すの?」
「ポケモンの風呂、入れやすくて気に入ってだんだけどな」
また、厄介なものが湧いているようだ。
粘着質なファンもアンチもネットではうまく受け流せるようになった。しかし、私生活となると対応も変わってくる。いつもオレが1人な訳でもなければ、彼女がいる場合もある。
ここ数日、勝手に掃除された形跡があり、頭を抱える。
まぁ、1番は我が身、周りの安全なのだ。
次の部屋にはどのくらいいれるのだろうか。