現パロ/ファンブックネタバレ有
良い夫婦の日/離婚ネタ







「おかえりなさい、杢太郎さん」
「ああ、ただいま」
 冷たい外気を帯びた彼が帰ってきた。去年プレゼントしたネイビーのマフラーを品良く巻いている。
 彼がお風呂を済ませている間に食卓を彩った。量販店のスウェットも見慣れているはずなのに未だに彼が着ていると良いものに見えるのはなぜだろう。2人並んで食器を洗って片付けた。
「コーヒーを淹れるけど飲むか?」
「ありがとう。いただくわ」
 リビングのソファに2人座った。
「明日、何時だっけ」
「14時の新幹線だよ」
「そうか」
 彼は姿勢を前に崩した。肘を膝に置き、猫背になる。普段高いところにある彼の頸がよく見える。まだ黒々としているが、あと何年かすれば白いものが混ざり始めるのだろうか。その姿をわたしは知る事がないと思うと胸がきゅうっと苦しくなった。
「覚えているか」
 姿勢を戻した彼を見る。わたしは彼の横顔がすきなのだ。そのうつくしい輪郭をなぞる。彼は話し始めた。付き合い始めた時のこと。職場で初めて会った時はまさか半身になるなんて思っていなかったこと。結婚式でのこと。わたしとカーテンの色で揉めたこと。わたしたちの数年をまるで昨日のことのようにつらつらと話した。わたしのすきな低い声が鼓膜をゆらす。
 この部屋には彼との生活が染みついている。2人を乗せているこのソファを買うとき、わたしはお掃除が楽なもの、彼は質の良いものが良いと何度も話した。靴でも車でも、手入れをするのがすきだから。食器棚は年々ものが増えた。このマグカップは付き合いが長い。なんてことはない量産品だが、この部屋に根を張った時に買い揃えたもののひとつだ。
「にがい」
「砂糖入れなかったのか?飲めないのに」
「良いじゃない。最後くらい貴方と同じ味が知りたかったのよ」
 彼はそうか、とだけ返した。付き合い始めた頃、わたしがまだ彼を「菊田さん」と呼んでいた頃の事だ。彼の部屋に初めて行った時、コーヒーを淹れるのが得意だと言っていた。まだ緊張しているわたしに、今と同じやわらかな笑顔でカップを差し出してきた。緊張して曖昧に笑ったわたしはコーヒーが飲めないことも言い出せなかったのを思い出した。あれから数年、お砂糖があれば口は付けられるように進歩した。
 諦めてぽちゃりぽちゃりと2つ砂糖を落とした。黒い水面を揺らす。
「わたし、アクション映画もスパイ映画も観ないひとだったのに」
「そうなのか?」
「そうよ。知らなかったの?なのに、貴方と一緒になってどれだけ観たのかなぁ。血がね、駄目だったのよ。もう平気になっちゃったけど」
 彼の隣にいてじわじわと彼の嗜好がわたしを浸食していった。それは嬉しくもあり、もうすぐ離れると思うと惨めにもなる。
 シンクにマグカップを置き水を張った。薄暗い寝室は静かだ。
 眠れず目が慣れてきた頃、わたしはまた彼の横顔をなぞった。彫りの深い目元、高い鼻。耳の形もすきだ。彼の頬が冷たいことを知っている。とじられた目蓋にはやさしい眼差しが隠れている。目尻に少しシワができた。これは一緒になる前はなかったものだ。わたしとの生活でできたもの。色々な表情の痕跡。
 彼を起こさないように、そっと目尻に触れた。
 わたしは左側のぬくもりに背を向けて目蓋を閉じた。健やかな寝息が静寂を支配していた。

「おはよう」
「おはよう。起こしてよ」
「いや、疲れてるだろう」
 今日を迎えるにあたり荷物を片付けたり挨拶をしたりとバタバタとしていたのは事実だ。でも、貴方の近くを最後まで享受したかったなんて思ったら惨めかしら。
 出て行く選択をしたのはわたし自身である。実家に帰らねばならなくなった。貴方はわたしの実家も受け止めるなんて言ってくれたけど、そんな事はわたしには耐えられないのだ。最後に「そうか」と言って抱きしめてくれた事がとても嬉しかった。
 彼が卵を溶いている横でわたしは白いケトルのスイッチを入れた。銀のボウルの中で牛乳とお砂糖が鮮やかな黄色と混ざり合っていく。穏やかな色に混ざり切った頃、半分にカットされた5枚切りの食パンが投入された。
「昔さ、よく作ってくれたよな」
「だって、朝楽だったし」
 フライパンの上でバターが滑り踊る。スケートでもしているかのようだ。幸福の香りがする。ケトルがカチリと鳴った。ティーバックを取り出した。マグカップをあたためる。
「なんだっけ、映画。親子がフレンチトースト作るやつ」
「クレイマー、クレイマー?」
 バターの上にパンが並んだ。卵液をしっかり吸った重たそうなそれらは少し歪だ。
「それだ。フレンチトーストを作るたびに思い出す」
「……わたしは、これから貴方を思い出しそう」
「そうか」
 フレンチトーストを食べても、観葉植物にお水をあげても、コーヒーを飲んでも、スーツの男性を見かけても貴方を思い出してしまいそうだ。ただ、それがいつまでなのかはわからない。ずっとなら良いと思うし、すぐに忘れてしまえば良いとも思う。
「俺もそうだろうな」
 カップの中のお湯を捨てて、ティーバックを垂らす。ゆっくりとお湯を注いだ。
「あっ」
「あら」
「やっちまったなぁ」
「お砂糖が入ってるのは気をつけなきゃ」
 狐色になるはずだったそれは、黒い模様が入ってしまっていた。クスクスと笑っているとおでこを小突かれた。その視線のやさしいこと。
 反対を慎重に焼いている彼を横目で見ながらわたしは食器棚から白いお皿を2枚出した。ダイニングテーブルにフォークとナイフ、先ほど淹れた紅茶を並べる。
「こっちはうまくいった」
 少し得意気にわたしに見せびらかしてくる。かわいいひとだ。
 わたしは紅茶派ではあるが、彼のようにこだわりが強いことはない。市販のティーバックで満足する。自販機の午後の紅茶も紅茶花伝もテイスティーニューヨークもリプトンもなんでも飲む。
 わたしの正面に座った彼にいただきますと手を合わせると、彼も同じように手を合わせた。
 最後の朝食を終えると2人で片付けた。体の大きな彼とキッチンで並んで窮屈に思う事ももうない。いつものように身支度を整えた。繁忙期の彼は午後から出勤だ。でも、だらだら縋らなくて済むのは良いことかもしれない。
「冷えるから手袋もしろよ」
「うん」
 2人で役所に行った。本当にこれが2人で行う最後のことである。
 書類を出して、駅までの道を2人で歩いた。冷たい風がびゅうと吹いて足元の落ち葉を攫って行った。わたしよりも長い影あと数分。わたしに合わせてゆっくり歩いてくれる歩幅に愛しさを感じられるのも、あと少し。鼻の奥がつんとするような気がした。
「なぁ、」
「なぁに」
「新幹線用に文庫本買ってただろう。あれ、くれないか」
「良いけど、」
 歩道の真ん中で鞄を漁る。まだ書店のブックカバーを被っている。自分の分は乗り換え駅で見繕えば良いか。
 彼はその表紙をひと撫でして仕事鞄に仕舞った。
 いつもの駅。いつもはもっと乗降者数の多い時間に訪れるから、少し静かで変な感じがする。彼とホームに降りた。わたしは上り、彼は下り。思わず爪先を見てしまう。ここでお別れだ。
 わたしは今度こそ最後だと、彼の横顔を盗み見た。すると彼もまた同じタイミングでわたしを見ていた。2人して少し吹き出した。下り電車のアナウンスが聞こえる。わたしは彼に向き合った。
「行ってらっしゃい。杢太郎さん」
 いつものように、広い背中を見送った。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -