現パロ
わたしの木曜日はいつもより少しだけ早起きである。右側の髪が今日も跳ねていて少しムッとした。時計を見て髪を全部濡らす時間は無いなと思いヘアアイロンで格闘する。
アルバイト先の喫茶店指定である白いブラウスを着て上着を羽織り部屋を出た。
早番の日はオープン前に店主がドリンクを一杯淹れてくれる。ゆっくりしている時間は無いのだが、この時間で目が覚める。今日はカフェラテを淹れてもらった。
さて、木曜の早番の日はいつもより背筋が伸びる。大学の授業より早い時間からの労働だが、気怠さを感じないのには理由がある。
高い音のドアベルが静かな店内に響いた。モーニングの時間帯に訪れるお客様はまばらである。今日はまだ2組。タマゴサンドをゆっくり食べている散歩帰りであろう老夫婦と、コーヒーとトーストを口に含みながらタブレットから視線を外さないサラリーマンだ。
「いらっしゃいませ」
ドアを潜ったのはいつもの紳士だった。木曜日の大抵この時間にご来店される。ブラックのスーツを着た白髪のお客様はいつもよく磨かれた靴で店内に入る。機嫌良さげな表情で決まって通り沿いの窓の席に座られて、わたしを手招くのだ。
「コーヒーとサンドウィッチのセットを!」
お客様はとてもお声が大きい。それこそ、最初のうちは、肩をキュッと上げてしまったり、動悸がしたりと大変だったが、今は慣れたものだ。笑顔で、そしてお腹に力を入れながら「かしこまりました!少々お待ちください」そう言うとお客様は優しげに頷きキッチンの方を眺めながらテーブルが彩られるのを待っているのだ。
お客様のお声が大きいのは、歳ではなくお仕事の影響だと店主から聞いた。なんでも有名な大学教授で研究の過程で耳が遠くなってしまったのだそうだ。
あの方の注文したサンドウィッチとブラックコーヒーを曇りのない銀の盆に乗せる。サンドウィッチだったり(その具も様々だ)、オムレツだったり、ホットサンドだったり、フードはその時の気分で決めているようだが、ドリンクは決まってブラックコーヒーだ。うちの店は店主がこだわって選び、淹れているのでとても評判が良い。20年と少ししか生きていないわたしはまだ、コーヒーの味もわからないし、どばどばとミルクを入れてしまいたいのだが、きっとお客様はあの苦くて黒い液体に旨味を見つけているのだ。わたしはあとどれくらい口にすればわかるようになるのだろうか。
ホワイトアッシュのテーブルに音を立てないようにそっと食器を並べる。
お客様はよく咀嚼してサンドウィッチを食し、それが終わってからコーヒーに手をつける。お声はあんなに元気なのに、その所作はとても静かで、なるほど良いものを食べてきた方なのかと妙に納得をするのだ。静かな彼を窓から入る午前の光が縁取る。それが絵になっていて、わたしはこっそりと眺めてしまう。おじさん相手にこんな風に思うなんて。
「キミはいつも頑張ってるね!」
「ありがとうございます!」
「ハキハキしていてとても良いよ!元気なことは良いことだ!」
お客様は鞄をごそごそと漁った。
「いつも良い接客をしてくれるからね!おかげで木曜日がすきなんだ!これを使ってくれたまえ」
「えっ」
ほい、とわたしに渡したのは手のひらより少し大きいくらいの平袋だった。見たことのあるブランドロゴの箔押しがきらりとしている。
「じゃあまた木曜日に来るよ!」とお客様は片目を閉じ、くるりと回ってさっさと退店されてしまった。驚いたわたしは数拍遅れて「ありがとうございましたー!」と背中に叫ぶ。こんな事は初めてだ。困ってしまったわたしは、店主の方を見る。もらっておきなさいと、目尻を柔らかくした。
夜、自室でテープを慎重に剥がした。袋の中身はハンカチだった。品の良いデザインでなんとなく肌触りも良い気がする。素敵なものをもらった。嬉しくなって、スマートフォンのカメラを立ち上げ、やめた。その日はベッドサイドにハンカチを置いて眠った。
数日後、朝のワイドショーで見知ったハリのある声を聞いた。なにか、大きな賞を受賞したそうだ。そうか、彼は有坂先生というのか。