副流煙致死量
朝のやわらかい日差しの中、ぼんやりとした頭の中で口から煙を吐き出す。苦いこの味に慣れてしまってどれくらいが経ったのだろう。
爽やかな明るさに目が焼かれそうになりながら、よれよれのTシャツでまだ起きそうにない低血圧の男の事を考える。
彼には内緒だが、わたしは彼と付き合う前、好きで好きで欲しくてたまらない男がいた。結局、わたしは触れることもできなかったけれど、せめて同じものを感じたいと手を出したのが煙草である。
ネズくんは愛情深いひとだった。不器用な言葉や出で立ちで誤解されることもあるが、わたしに触れる指はいつもやさしい。
彼が絡めるこの指先はあの男の匂いが染みついているのだ。それをネズくんは知らない。
「ーー、ー、ーーー」
ネズくんのうたは、かなしくて、やさしくて、くるしい。こんなに愛情深いひとが、くるしい曲をうたっているなんて。
ネズくんのあの声がすき。ネズくんの白くて曲がった背骨がセクシーですき。
「あきら」
「おはようネズくん」
「珍しいですね。こんな時間に起きるなんて」
「なぁんか、目が覚めちゃて」
そうですか、と色のない声でわたしの頭を撫でた。
彼は隣に腰を下ろす。
「ねぇ、ネズくん」
「なんですか?」
「ネズくんはわたしの事すきじゃん?」
「あんたねぇ…まぁそうですが、」
じろりと色素の薄い瞳を向けられる。
「ネズくん、わたしたち、あと何ヶ月かしたら2年だねぇ」
「そうですね」
「すきだよ」
先ほどとは変わって大きく見開く。
わたしから愛の言葉を告げることはほとんどないのだ。
ベランダのプランターには、小さな目が精一杯葉を広げている。
「どうしたんですか、別れ話とか言わねぇですよね?趣味が悪い」
「別れ話に、ならないといいな」
靴下嫌いのわたしたちは春を待つ今も裸足だ。今日は少し暖かいと言ってもつま先は冷える。わたしのためには黒い色が乗っている。
「今日ね、命日なの」
「は?」
「ネズくんと出会う前にすきだったひとの命日。しんじゃったひ」
何も言わずにわたしを見ている。
アイスブルーの瞳にわたしがうつっている。
「別にお付き合いもしてないのだけど、やっぱりすきだったひと。わたしね、彼と話がしたくて煙草をはじめたの。そしたら、もう辞められなくなっちゃった。ニコチンないと駄目、」
持っていたライターに目を落とす。明るい水色。
「ネズくんがはじめ嫌がったこれも、彼の影響で始めたわけだし、わたし、だいぶ女々しいから、こうやって思い出して駄目になっちゃう」
「そうですか、」
ネズくんは変わらずわたしを見ている。
「ネズくん、わたし、生きてる人間の中であなたが一等すきよ。あいしてる。
ネズくん、わたし、こんな女だけどネズくんと一緒にいていいかな…。彼を思い出して感情を乱すなんて、嫌でしょう、」
よれよれのTシャツの裾を掴む。
ネズくんの服を掴む可愛げもないのだ。
「あきら、」
体を引き寄せられる。ネズくんのにおいがする。あたたかい。
「冷えてんじゃねぇですか」
ぎゅむぎゅむわたしを抱きしめる。
彼の声が真上から降ってくる。
わたし、この声がすきだ。
「忘れられないものはしょうがないでしょう。あきらが感情を揺らすのはオレがいいって思うのもしょうがない。でもオレはオマエがすきですよ」
「こんなしょうもない女…」
「しょうもなくても、おまえがいい。それに、」
ネズくんはわたしと目線を合わせる。
「死人じゃ手を出しようがないわけですし、これからもゆっくりオレのことばかり考えるようになって貰えばいい」
ほら、とわたしを立たせて、リビングに戻る。エアコンをつけて、やかんを火にかける。
こういうのすきでしたよね、と言って用意してくれた甘い香りの紅茶を淹れてくれる。
やさしい。
ブランケットをかけてくれる。
「ネズくん、」
「なんですか」
「すきだよ」
「知ってますよ」
ネズくん、はやくわたしのこと、心ごと持っていって。
窓から明るい光が入ってくる。