現パロ/しあわせではない


「今日、泊まるだろう」
 彼とこうして夜を過ごすようになって半年が経った。別の部署の彼と距離が近づいたのはたまたまランチで使ったカフェで隣の席に着いたり、飲み会の席でお話する事があったりと嬉しい偶然が続いた結果だろう。
 本日は華金である。
 一軒目は彼のおすすめ店で淡いピンク色のお酒を呷った。薄暗い照明の中でそっと手を触れられる。なんでもないように会話を続ける彼の横顔は、職場の青白い照明とは違い、作る影がセクシーに演出している。
 彼の言葉にこくこくと頷くと、菊田さんは軽く笑った。わたしはこの力の抜けた笑みがすきだ。どんな彼もすきだけれど、気取ってない顔を見ると懐に入れてもらえたようで嬉しくなってしまう。
 菊田さんの部屋に行く前にコンビニに寄った。缶チューハイと軽くおつまみ、そして隅に置いてある数字の入ったパッケージ。アルコールが入ったのを良いことにわたしは彼にいつもよりくっついて歩く。
「弱いのに飲むから」なんて、咎めるけれど、彼はわたしがカゴに入れたチューハイも一緒にお会計をしてくれた。本当は真っ直ぐ歩けるけど、かわいいふりをさせてほしい。
「すきだよな。それ」
「それ?」
 彼はわたしの口にするアルミ缶を指さした。中央に桃のイラストが描かれた淡いカラーリングの缶はアルコール度数3%のかわいらしい飲み物である。たしかに、菊田さんの前でかわいこぶっている時はこのパッケージを選ぶ事が多い気もする。
「あまくて美味しいので」
 そう答えはしたが、かわいこぶる以外にも理由がある。
 菊田さんの部屋に初めてお泊まりした日のことだ。彼の部屋で飲み直すか、とそんな流れだった。コンビニでやっぱり猫を被ろうとすると、彼はそれなら家にあると言った。実際彼の家には数本のピンク色の缶が冷蔵庫に鎮座していた。
 わたしは甘い物がそんなに得意ではない。けれど、わたしが甘いものを飲み食いすると、菊田さんは「やっぱり女の子は甘いものが好きだよな、」とどこか懐かしそうに目尻にシワをよせるのだ。
 その真意から目を逸らし、わたしは彼の前で甘い缶チューハイやフルーティな軽いカクテルを飲み、クリームで着飾ったケーキを食するのである。

 彼とお付き合いを始めて、三ヶ月ほど経った頃だろうか。あるカミングアウトをされた。
 わたしは終始物分かりの良い女の子を演じて彼の言葉に眉を下げたり、唇を噛んでみたりした。たっぷり感情を乗せた声を震わせて、それでも隣に居たいと縋ったのだ。
「前の奥さんの事は忘れなくても良いんです」
「こんな男寡におまえはもったいないぞ」
「わたしは菊田さんが良いの」
 どこか申し訳なさそうにする姿は、職場の頼り甲斐のある姿からは想像がつかないくらい弱々しく見えた。そんな彼をわたしだけが支えていけたら、それはなんて素敵なことだろうと、わたしの独占欲は息巻いた。
 彼の背中を抱きしめて、しっかりと生を感じた。この日は彼の部屋に泊まったが、2人並んで瞼を閉じるだけだった。情熱的な口づけも、獰猛的なセックスもない、穏やかな夜を過ごした。
 次の日の朝、彼はカフェオレを淹れてくれた。砂糖とミルクがたっぷりなそれは、相変わらずわたしの舌に纏わり付き嫌悪感を残した。
 わたしは甘いものがすきだと思っているのも、ピンク色を好むと思っているのも、朝が弱いと思っているのも、脇腹に噛みつかれるのがすきだと思っているのも全部、きっと全部前の奥さんの影なのだろう。
 冷蔵庫にストックされていた缶も、きっと奥さんを思い出すためのものだったんだと、わたしは理解している。
 髪型が似ているのか、それとも声が似ているのか、どこがリンクしているのかもわからないけれど菊田さんの隣に居れるならそれで良いと思った。きっと、いつかはわたしにすげ替える事ができると、わたしは菊田さんを愛した。
 
 ふと、肌寒さを感じて目を覚ました。季節の変わり目というのは衣類も寝具も判断が難しいものだ。夢中の情事の最中は触れている部分から心地良い熱が移り、わたしの中で大きく弾けて寒さなんて気にならなかったのに。
 数時間前の彼の表情を思い出して心拍数が上がってしまった。わたしの全てを剥ぎ取る彼は、捕食者のような顔をしていた。シーツの上では取り繕う事もできない。こんなことを思い出して、寝られるだろうか。
 わたしの右側には彼が健やかに寝息をたてている。仰向けで眠る彼の輪郭を視線でなぞった。一定のリズムで上下する胸が愛おしい。


 起きている彼の髪に触れた事はない。硬くて、綺麗に揃えられている髪に指を通した。墨のように黒々としたその色は、優しく光を反射する。するり、するりと撫でていれば、彼が身動ぎをした。
「×××」
 息が止まる。彼の呼気がやけに大きく聞こえる。壁掛けの時計の音がリビングから聞こえてくる。わたしの体は泥にでも詰められたようだ。体も、空気も重たい。頭がぐわんとする。
 初めて聞く名前だった。
 たかだか寝言だ。
 わたしは菊田さんの気の緩んだ笑みがすきだった。職場でのパリッとした姿にも憧れた。彼を支えられるなら、それで良いと思ったのに。
 心が冷えていくのを感じる。
 あんなにすきだった彼の薄い唇が、色を失い、どこか遠いものに感じられる。

 始発はまだだけれど、わたしは彼の部屋を出た。ポストに合鍵を突っ込んだ。たぶん、もう猫も被れない。甘い声を演じることもできないのだろう。
 あの低いカサついた声でわたしを呼んで欲しかった。それだけで良かったのに、こんなに簡単に心は折れてしまうのか。
 かなわないとわかって近づいたのに、思っていた以上にみっともない。
 秋の冷たい風がわたしをくすぐった。
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