現パロ/元カノシリーズ

 「鶴見さん、」
 「どうしたんだ。改まって」
 今日も1日彼はわたしを甘やかしてくれた。素敵な乗り物で迎えに来てくれて、彩りが良いランチを食べ、わたしをブティックの試着室に送り込んだり、映画を観たりした。今はやわらかい香りの良い紅茶に俯きげなわたしの顔をうつしている。ベロアのソファはしっかりとわたしの体重を受け止めていて、この底のないような感情から現実を思い出させてくれる。
 「今日もとても楽しかったです」
 「それは良かった」
 「鶴見さん、わたし、鶴見さんと恋人関係を辞めたいです」
 にこやかだった彼から色が失われる。これは、顔を見て伝えなければ、これまで大切にしていただいたことに対して失礼だ。彼の真っ黒な瞳を見ながら、ありがとうございましたと伝える。鶴見さんがかわいいと言ってくれたワンピースを指先で握る。シフォン生地のざらりとした嫌な感触がする。
 「そうか」
 彼は一言、それだけだった。そのあとはしっかりわたしをアパートまで送ってくれた。いつもどおりである。どこかで引き止めてもらえるなんて自惚れがあった事が恥ずかしい。でも、関係を解消すると決めたのも、伝えたのも、わたしである。肌触りの良いワンピースを脱いだ。明日の出勤前にクリーニングに出そう。

 ベタだけれど、髪型を変えた。大人しめ色のセミロングから、顎くらいの高さまでがっつり切り落とした。ふわふわのパーマをかけて、セットが楽になった。
 鶴見さんはわたしの髪を褒めて、撫でて、口付けて、愛してくれたから、彼がすきな色で艶を失わないように毎晩丁寧に乾かしとかし、たっぷりと潤いとお金、時間を与えた。
 クリーニングに出したワンピースが帰ってきた。甘めのカラーを似合うね、と言ってくれた。苦手意識の強い色だったけれど、彼が背中を押してくれたから身に纏う事ができた。ひらりと揺れる裾が上品で、甘い色でも子供っぽくならないそれは、わたしが彼の隣に立つためのお守りでもあった。
 鶴見さんはずっとやさしかった。いつもわたしの話を穏やかや眼差しで聞いてくれる。彼の連れて行ってくれるお店は味も雰囲気もハズレがない。ショッピングも映画館も観劇もいつもわたしを楽しませてくれた。彼はわたしがギリギリ緊張しすぎないラインを見抜くのがうまかったのだと思う。わたしが少し慣れてきたと思うと、また少しグレードを上げたりしていた。よく、わたしを見ていた。わたしが行くような大衆向けの居酒屋やモールだって楽しんでくれていたように思う。ただ、やっぱり、彼の隣にいるにはいつも踵を上げて背筋を伸ばしていなければならないとわたしは思っていた。
 正直、簡単に、疲れてしまったのだ。
 アイスクリームを分けっこするときの表情も、少しカサついた骨張った指先も、湿度のある目線すら愛しいと思うのに、あの素晴らしい彼に、疲れてしまった。
 たくさん愛して、大事にして、やさしくして、時間をかけてもらったのに申し訳ないと思う。わたしが振っていいような相手ではない。しかし、わたしが隣に立っていていいような相手でもなかったのだ。

 土曜日に晴れたのは久々だった。花金の昨夜は夜更かししてしまったから、きっと顔は浮腫んでいるだろう。顔を洗い、汗を吸った寝巻きから部屋用のゆるいライブTシャツに着替えた。くたくたになるまで着倒した、わたしの一軍である。午前中のうちに家事を進めてしまおう。夕方から録り溜めたドラマを消化しよう。旬の役者、名前は誰だったっけ、おだやかな目元に好感が持てる。洗濯を干し、掃除機をかけ、窓を拭いた。なんだか気持ちも整頓されていくような気すらする。
 その時だ、高い音が鳴る。チャイムが鳴るような予定はなかった。通販もしていないし、実家からも配送の連絡はない。友人とも約束していなかった。宗教勧誘でないと良いのだけれど。
 モニターを確認して、わたしはゴクリと喉を鳴らした。安いアパートには似合わない。何の用だ。
 整頓されたように思えていた気持ちなど、この一瞬でがらがらと崩れ落ち、ただ瓦礫に一つ一つに様々な感情を映しているようだった。何をしに。来てくれた。会いたくなかった。会いたかった。申し訳ない。緊張する。やめて。だめ。まだすき。まとまりのない感情が目の前を通り過ぎていくような気がした。
 「いるんだろう。開けてくれないか」
 安アパートに、品の良い白いシャツとパンツで現れた彼は静かにそう言った。鶴見さんの事だ、確信を持ってわたしにそう言っているに違いない。
 「、」
 「君に会いに来たんだが、」
 「わたしは、会いたくありません、」
 声が震える。やっと絞り出したそれは、嘘であったし、本当でもあった。
 モニター上の鶴見さんは肩をくすめた。
 「どうしても、」
 「どうしても、です」
 鶴見さんはため息をつき、何やらポケットから小物を取り出した。そして、わたしは自分の迂闊さを呪ったのだ。鍵が回る音がして、もう逃げられない。回収し忘れた合鍵が初めて使われるのが別れてからなんて、そんな事思いもしなかった。
 「やあ、元気かな」
 「つるみ、さん」
 待ってほしい。鶴見さん、後で会う約束をするからとりあえずわたしを見ないでほしい。だってわたしはダボダボのロックシャツにジャージの短パンを履いて、前髪はくちばしクリップで止めているだけだ。そして、すっぴんなのだ。眉毛も描いていない。
 先ほどまでとは違う焦りで背中に嫌な汗をかきはじめた。
 「随分とさっぱりしたね」
 「そうですね、」
 鶴見さんにこんな姿を見られた。彼がすきと囁いてくれた姿ではないのだ。わたしはここでわかってしまった。鶴見さんの隣に疲れたのではない。いつか、わたしをすきでなくなってしまうかもしれない彼に怯えていたのだ。だから、飽きられてしまう前に自ら別れを切り出したのだ。そんな事、このタイミングで気が付くなんて、
 「触れてもいいかな」
 鶴見さんはわたしの知っている鶴見さんのままだった。ゆっくりとわたしの髪の輪郭を数度なぞり、パーマのかかったそれに指を通した。
 「君はこういう髪型も似合うのか。知らなかったな」
 真っ黒な瞳は慈しみを携えているように思えてしまう。やや膝を屈めて、わたしの視線に合わせる彼に懐かしさを覚える。まだ、一月も経っていないというのに。
 そのままゆっくりと頭を撫でられる。わたしは彼にそうしてもらうのがすきだった。彼は少しカサついた指をわたしの頭に滑らせていた。思わず彼の白いシャツに額をつけてしまう。鶴見さんのにおいがする。品の良い香水と彼自身の落ち着くにおいだ。
 「なんだ、君は私の事、大好きなんだな」
 「嫌いなわけないじゃないですか、」
 「でも、君は恋人関係を解消しようなんて、酷い事をいったじゃないか」
 「それは、」
 「あれは傷ついたよ」
 黒い瞳がわたしの顔じと見る。落ち着くにおいのはずが、その視線に酷く緊張してしまった。彼のシャツをぎゅと握る。ああ、シワになってしまったらごめんなさい。
 「怯えさせたいわけではない。君と話がしたいんだ」
 別れた相手に縋り付くなんて、なんて滑稽なのだろう。
 ゆっくりと2人立ち上がり、彼をリビングに通した。安い紙パックの紅茶をグラスに注ぐ。鶴見さんとわたしの前にそれぞれ置いて座った。
 「狭い部屋に、すみません」
 「いや、いきなり押しかけたんだ。気にしないでくれ」
 交際時、彼を部屋に招いたことはなかった。いつもアパートの前で送迎をしてもらって、わたしが部屋に入るとメッセージを送る。鶴見さんはそれを確認すると車を出していたのだ。1年ほど付き合った頃だろうか。彼になにか欲しいものは無いかと聞いたことがある。いつもわたしに贈り物をしてくれる彼にそう問うたのだ。そしたら合鍵が欲しいと言って渡すことになった。わたし自身が彼に生活を見られたくなかったがため、使われることはついぞなかった合鍵はわたしに忘れ去られたまま、鶴見さんの強行を許す事に加担した。
 「君とね、ずっと話がしたかったんだ」
 「鶴見さん」
 「話をしにきたのだが、少し浮かれているよ。だって初めて君の生活に触れることができたんだ。それに、君は私を嫌っていたわけではなかった」
 「それは、」
 手元のグラスを弄ぶことしかできない。あの時と同じように、その水面には俯いたわたしがうつっている。
 視線を上げないわたしに、鶴見さんが口を開いた。
 「おおよそわかっているよ。君は自信が持てなかったのだろう」
 「ごめんなさい、大切にしてくれたのに」
 「謝らないでくれ。でも、私は君の提案に同意していない」
 それはどういう意味だ。視線を上げれば彼は微笑んでいた。グラスごと、わたしの手を包み込む。
 「私は君の事がすきだよ。愛している。それは信じられるか」
 「はい、」
 「君は、私の事をどう思っているんだ」
 彼の瞳から目が離せなくなる。冷えたわたしの手を彼の体温が包み込むこの温もりが心地よい。
 「大好きです。なによりも」
 「そうか」
 あの時とは違い、微笑みを携えてわたしに返した。
 「私も恋人関係じゃ満足できなくなってね、ふふ、涙を止めなさい。君をつなぎ止めたいんだよ」
 目頭が熱くなる。彼は持ってきていた鞄の中から小箱を取り出した。
 「結婚しようか」
 「、はい」
 こんな素敵な人に、わたしの安いアパートの一室でプロポーズを受ける事になるなんて、想像できなかった。
 あの時の決心は彼の温度でいとも簡単に覆されてしまった。
 嬉しくってわたしは益々涙が止まらない。鶴見さんはやさしく笑んでわたしの頬を撫でる。
 わたしはずっと、わたしという人間で生きてきた。きっと、わたしはまた不安に思って膝を抱えるのだ。それでも彼は離してくれないし、その上から抱きしめてくれるような気がした。
 「君は私に愛されているという自覚が足りないようだ。これからの人生、しっかり味わってもらわなければ」
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