傘、夜を巡る
金カ夢24ライ/忘れ物/牛山
現パロ


 「こんばんは、牛山さん」
 「こんばんは、お嬢さん」
 お嬢さん、なんて歳ではないのだが素敵な紳士に言われると嬉しいものだ。じめっとした空気とぬるい温度がまとわりつく夕方の駅前でわたし達は待ち合わせた。
 「お待たせしてしまいましたか?」
 「そんなことはない」
 牛山さんは優しくわたしの左手をとってくれた。わたしとは違う硬い指先が絡まる。今日は素敵な夜を過ごせそうだ。

 30歳を目前に、わたしの周りは婚活、結婚、子育て、とみんな忙しそうだった。わたしといえば、前の彼氏は1年以上前に別れたっきり男っ気がない。そんなわたしを友人が合コンに連れ出した夜、わたしは牛山さんと出会った。しっくりこない合コンが終わり、改札をくぐる直前でお気に入りの傘が手元にない事に気が付いた。慌ててお店に戻ろうとしたのだ。
 「傘をお忘れか?」
 「あら、そうです。わざわざ?すみません。ありがとうございます」
 「…合コンだったんじゃないのか?」
 初対面にしては少し不躾な気がする。先程のお店にいたのならアルコールが入っているのだらう。
 「合う男性がいらっしゃらなかったので。これから帰って飲みなおします」
 飲み放題だったが、控えめにグラスを傾けていたのだ。金曜日なのに、がっつり飲めないなんて。
 「結構飲めるクチか?」
 「結構かはわかりませんけど、ちょっと飲んだらもっと飲みたくなるものです」
 彼は機嫌良さそうに笑い、その日は2人で美味しいお酒を求めて夜を彷徨った。

 牛山さんと素敵な夜を越える日々は、わたしの生活でとても大切な時間になっていった。月に何度かの週末を共にし、いろいろなアルコールに触れた。
 牛山さんはもっぱらビールを飲んでいたが、わたしはその横で夕陽のようなものだったり、爽やかな春のようなもの、月をイメージしたもの、キャンディーでフチを賑やかにしたもの、コロンと梅の実が静かに転がっているもの、様々なグラスを飲み干した。
 牛山さんは上のやつが、会社のが、なんて大衆居酒屋からシックなバーまで色々な店を味合わせてくれた。1人じゃ勇気のいるようなお店も、牛山さんとなら楽しむことができた。

 彼とは何度も夜を共に歩いているが、キスすらしたことがなかった。
 初めて会った日に、じとわたしの顔を見てきたことがあったが「駄目です」と年甲斐もなく彼の唇に指を当てれば、アルコールで赤く上気した顔で目を丸くした後またジョッキに向かった。当初は置いておいて、彼のことは好意的に思っているし、でもこのアルコールを巡り歩くだけの関係もなかなか心地よいものだ。それに、あの時、やんわりと拒否したわたしに彼がまたそう迫ってくる事も、わたしと同じ感情を抱いていることも果たしてあるのだろうか。

 「焼き鳥がうまいらしい」
 「わたし、焼き鳥大好きです」
 「ああ、知ってる」
 駅からしばらく歩いた今日のお店は、ひっそりと路地裏に提灯を出していた。ジジイのお墨付き、なんて彼が漏らしたのでこれは期待してしまう。牛山さんと行くお店はいつも美味しいけれど、彼がジジイと称する方から紹介してもらったお店は格別なのだ。
 「わたし、モモとカワ、あと砂肝食べたいです。塩で!」
 落ち着いているが気取ってなくて緊張しない店内。美味しいお酒と焼き鳥。
 「今日もまた牛山さんにしあわせにしてもらってしまった」
 「なんだ、そりゃあ」
 「こうやって牛山さんとお酒を飲むのが今、一等しあわせを感じるんですよ。もうこのために働いてる」
 「そりゃあ良かった」
 牛山さんと過ごす日がご褒美なのだ。彼はわたしと違う視野を持っていて退屈しないし、わたしが悩んでいると話も聞いてくれる。アドバイスもくれるけど、解決策がない時は一緒に悩んでくれるし、押し付けがましいことも言わない。
 串入れに身が抜かれていった串が増えていく。
 「そういえば、良いのか俺と飲んでて」
 「どうしてですか」
 「いや、合コン行ってただろ」
 「あぁ、初めて会った時のことですね。わたし、もうアラサーなんですけど恋人もいないんで連れて行かれたんですよ。その後は行ってないですよ。こっちが楽しいので、」
 「そうか」
 「牛山さんこそ良いんですか、」
 「独り身だし、嫌だったら来ないぞ。俺は」
 「えへへ、そっかぁ」
 その後、金曜日という事もあってしばらくしてお店を出た。
 軒先に出ると小雨が降っていた。天気予報を見ていたわたしは傘を広げる。
 「牛山さん、傘持ってますか」
 「いや」
 牛山さんが傘を持ち、身を寄せ合い駅に向かって歩く。体格の良い彼は肩ががっつり濡れてしまっている。申し訳ない、と伝えれば、彼は家が近いから問題ないと言ってきた。
 普段なら二軒目を検討するのだが、この様子じゃあ駅で解散だろうな。傘、どうしよう。わたしが持って帰ればそれこそ牛山さんが濡れてしまう。
 「なぁ、うちで宅飲みしないか」
 願ってもない提案だった。それならまだ一緒にいられるし、牛山さんも濡れずに済む。ただ、彼はどういうつもりでそれを提案しているのだろう。
 「そういう、つもりで誘っている」
 牛山さんが立ち止まる。わたしは彼に爪先を突き合わせた。
 「傘を届けた時から俺はそのつもりだ」
 このまま帰るか、俺の家で飲むか選んでくれ。熱っぽい目で見られれば、もう、顔を伏せて手を握ることしか出来なかった。
 くらくらするのはアルコールのせいではなさそうだ。
 彼の欲を甘く見ていたわたしは、週末、彼の部屋から出ることができないのをまだ知らない。
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