ノボリさんは社会人、私はどこにでもいる一般的な大学生である。私みたいなのが彼の恋愛対象になれるのなら今頃大半の女性がノボリさんにアタックしてるに決まってる。まあ、元々人気なノボリさんはそうでなくともファンにアタックされているんだろうけど。
「おや、今日はいつもより小振りのキャンバスですね」
切符を買っていると聞き慣れた声が耳に届く。振り向くといつものように口角を下げて綺麗な姿勢で立っている彼がいた。
「ノボリさん!あ、そうなんです。これくらいのサイズだったら歩いて帰ろうかと思ったんですけど昼過ぎから急に雨が降ってきたので…」
「なるほど、そうでございましたか。たしかに、梅雨入りしてから急に降ってくることが多くなりました」
「ですね…だから私梅雨ってあんまり好きじゃないなあ」
「わたくしは好きですよ、雨の音は落ち着きます。それに、雨のおかげでいろんなお客様とお会いすることができる。まあ、ナマエ様の作品が濡れてしまう可能性がありますので少々嫌いではありますがね」
そう言っていつも下がりっぱなしの口角が少しだけ上がるその姿が、ずるい。
いつもなら持ち帰れないサイズのキャンバスに思いっきり絵を描く私は今日のように30号のキャンバスに絵を描くことはあまりない。30号といっても背の小さい私が持っていれば多少大きく見えるかもしれないが。このサイズを使うときは課題やドローイングなんかが専ら多い。
初めてノボリさんに会ったときも雨だったか、キャンバスのサイズは40号か50号だった気がする。それでもまだ持ち運べるサイズだったから人が少ない時間を見計らって電車に乗ろうと思い、駅の隅にある椅子で座って待っていた。人が多いと私のキャンバスは邪魔になるだろうし、何より油画独特のにおいがきついせいで周囲の人から嫌な目で見られるのでは、と思ったからだ。
「独特なにおいですが…油画、か何かでしょうか?」
「え」
「ああ、大変失礼しました。わたくし、サブウェイマスターのノボリと申します」
突然話しかけられ驚いて顔を上げれば、口角は下がっているものの整った顔が目の前にあって、どきり、とした。サブウェイマスターと聞いて驚きはしたが彼も一、駅員。見回りか何かをしていたんだろう。
「あ、え、っと、ナマエと申します」
「…ナマエ様、油画か何かを描かれていらっしゃるのですか?」
ノボリさんにつられて名乗れば、彼は私の名前を確認するかのように反復してそれから先程の質問に似た質問を投げかけてきた。
「そう、です。すみません…においがきつかったですよね」
「いえ、そんなことはありません。むしろお客様に気を使わせてしまうとは…あってはならないことでございます」
わっ、頭を上げてください!全然気にしてませんから!いいえ、サブウェイマスターたるもの、お客様に気を使わせてしまっては――。
何だ何だと周囲の人に見られてるのが恥ずかしくてそんな会話を繰り返したな、と今でもちょっと笑ってしまう。その時の私がノボリさんを見て、真面目な人だなあ、感心したのと同時に呆れたのを覚えている。
それから度々会う様になって軽く会話する程度の仲になったが、あくまで知り合いで友人とは程遠いものだろうと私もよく理解していた。そもそも会うのも会話するのも私が地下鉄を利用するときのみなのだから知り合いからランクが上がらないのは当然と言えば当然なんだろうけど。
乾いた下地と向き合いながら、今回はどうしよう、ベースは暗い色にしようか、なんて考えながらインジゴ、プルシャンブルー、ビリジャンヒュー、クリムソンレーキ、と次々に手に取りながら悩む。どうせなら透明色の強いものがいい。箱の中で転がる絵具の中から三つほど選びパレットに出した。横に置いていたテレピンとペンティングオイルのキャップを外すと部屋いっぱいに広がっていたオイルのにおいを助長させた。
色をのせていくにつれてキャンバスはどんどん暗い色になっていく。まるでノボリさんのイメージカラーの黒のようにも見えるが、彼を色で表すならこんな色ではないだろう。キャンバスが見せる色も黒ではない。よく見ればいろんな色が重なり合って、でも下の色を消すわけでもなくそこでしっかりと生きて仕事をしている。まるで仕事に真面目な彼のようだと思い、先程のノボリさんの色ではないなと考えた自分に少し否定した。
明日は作業も何もしないで息抜きに街をぶらぶらしようかな。筆を動かしながらそんなことを考える。頭の中は今描いている絵の構成と明日どこに行こう、なんてことでいっぱいだから、片隅でノボリさんが出てきたのは、たぶん、気のせいだ。
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