そう告げて以降、ナマエはわたくしの家へ訪れることがありませんでした。とはいってもわたくしはサブウェイマスターで彼女は駅員。何もしなくとも仕事場で顔を合わせることになります。あんな顔で出て行ったのだから、ナマエはわたくしのことを嫌がるのでは?無理にでもわたくしを避けようとするのでは?そんな不安が胸の内をぐるぐると渦巻いていたのに、そういったことは一切ございませんでした。それどころか、まるで捩れてしまったわたくしたちの関係がなかったかのように、今まで通り嫌な顔ひとつせずに接してくるのです。
「ナマエ、ちょっといいですか?」
「はい、なんでしょうボス」
この時わたくしは思い出しました。彼女は元より真面目な性格で、仕事はそつなくこなす方だということを。仕事場で私情は一切持ち込まず、ここでは他の駅員と同じようにわたくしのことを“ボス”という呼び方でしか呼ばない。そして気付きました。あの日以来、わたくしの家へ訪れなくなったナマエが一度も“ノボリ”と呼んでくれていないことに。
「……何が捩れてしまったのですか」
ぽつり、思わず呟いてしまった言葉。まさか声に出るとは思ってもいませんでした。聞かれてはいないだろうかとナマエへ視線を移せば、彼女はわたくしが好きなきれいな瞳をこちらに向けて、大きく見開いていました。それから浮かべる表情は困惑そのもの。違う、こんなことを言いたかったわけではない。彼女を困らせたかったわけではない。ただ、今日の運行状況を確認したくてあなたを呼び止めたのです。そう思ってはいるものの、何故かその言葉は喉の奥で詰まり、出てきてはくれませんでした。嫌な動機と、締め付けるようななにか。息が苦しくも感じました。でもそれがなにかはわかりません。可笑しな話です。わたくしの身体だというのに。
「なにを言ってるんですか、ボスってば」
まるで冗談を流すかのように困るように笑って眉尻が下がっていく彼女が一瞬悲しそうな顔をしたのをわたくしは見逃しませんでした。そんな表情を見るのは今日この瞬間が初めてな気がしたのに、ナマエがわたくしの家を出て行ったあの日と重なりました。背を向けて走って消えたあの日の彼女は、どんな顔をして言ったのでしょうか。しかしわたくしにはそれを聞く権利も、勇気も、なにひとつ持ち合わせてはいませんでした。
「……ここのところ忙しいですから、少し、疲れているのかもしれません。それより今日の運行状況を確認したいのですが」
そう言ってわたくしは、また逃げるのです。
不和の林檎は見つからない