キイコキイコ。
北都ちゃんの、漫画の世界から飛び出て来たような大きなスニーカーが、ゆったりと自転車のペダルを回転させ始めてからもう一時間近く経っていた。
左腕に巻きつけた腕時計でそのことを確認してから、鉄の椅子の上で少しだけ身じろぎして、東京にもこんなところがあるんだなぁ、と、収穫後の殺風景な麦畑の空気を吸った。
辺り一面に敷き詰められた麦のなびくことのない畑はなんだか少しさみしげで、それを打ち消すように北都ちゃんは鼻歌ばかり歌っている。

「うーふふんふんピークニック〜♪」

「もうそろそろかなあ。自転車で30分くらいなんでしょ?」

「ああ、あれねえ、『自動車で』30分だったみたい。」

まったくわたしったらほんとドジよね〜。
そう、悪びれるどころか楽しそうに言い放つ彼女の背中にひっそりと落胆しながら、前にも後ろにも果てしなく続く、ほとんど車なんて走らないにもかかわらず舗装された道路に向けて、暇でもつぶすように両足を振った。

しっかり者の彼女は時々珍しくこんな失敗をするのだけれど、十六年の付き合いで慣れっこになった僕は、一度だって怒鳴ったりすねたりしたことはない。というか、僕は他の人に比べると、ほとんど怒りという感情を感じないらしいから、彼女以外の人間にだって怒りを露わにしたことなど数えるくらいしかない。
どんな目にあっても怒らず怒鳴らずただ笑っているだけの僕に、双子の北都ちゃんはよく憤慨した。自分が怒られるのが道理なのに、六歳の彼女はブランコから飛び降りて僕の上にのしかかった姿勢のまま、「どおしてすばるはおねえちゃんをおこらないのっ!」と大きな瞳をぎらぎらさせて怒鳴ったのだ。
そんな風に僕の代わりに彼女が怒ってくれるので、たぶん僕には怒りの感情が無くても今まで平気で生きてこられたのだと思う。専門家じゃないから、正しいことはわからないけれど。

そんなことを考えていると、彼女が漕ぐ自転車のスピードが急に遅くなった。車体がぐらぐらしていて、不安になった僕は顔をあげて前方を確認する。
運転手である北都ちゃんはというと、前かごへ無造作に入れられた古くて大きなラジカセの、いつ録音されたものかわからないテープを巻き戻して、えい、と掛け声を上げてから再生ボタンを押した。片手走行のためにスピードが落ちたのか、僕は一人納得する。
彼女の掛け声から少し遅れて、古い機械の働く、カチッ、という大きな音がした。聞き覚えのあるフレーズが、前方から北都ちゃんの体を通り抜けるようにして聞こえ始める。

「これ、ビートルズだね。」

「あら、昴流知ってたの?」

だって、北都ちゃんキッチンに立つといつも歌うんだもん。そう口にしようと思ったけれど、 かなりの大音量を上げるラジカセに合わせて、北都ちゃんがlife is very short〜と、こちらも大音量で歌うので、僕は言葉を飲み込んでしまった。
こんな大きな音を出したら誰かに怒られてしまうのではないか、ひやひやしながら辺りを見渡してみたけれど、刈り入れ後の哀愁漂う畑が僕たちの周りを取り囲んでいるだけで、追い抜く車も、向かいから歩いてくる人も、農作業に従事する人も、一人だっていなかった。
雑木林を抜けてこの麦畑が取り囲むぴかぴかの道路に入ってから、くうくうという鳴き声を上げる鳥以外、僕たちは何にも出会っていない。

キイコキイコ、メンテナンスを怠った自転車の後輪が上げる悲鳴と、北都ちゃんの調子っぱずれな歌声と、テープの中の脳の奥にじわじわくるような歌声が変に心地よくて、体をかがめるようにして北都ちゃんの背中にもたれかかった。
頬に冷たいシャツの感触と、思い出したように僕の髪の毛をさらっていく風の感触だけがした。

そういえば、僕は自転車にもバイクにも乗れないので、車よりも遅いスピードで、歩く以上の風を感じることは初めてかもしれない。北都ちゃんはずっと一人で僕を乗せたまま走っているけれど、足は疲れないのだろうか。
ねえ、北都ちゃん、僕を乗せていてしんどくないの、尋ねようと口を開いた時、彼女のお腹に回した自分の手が一瞬膨らんで、それから北都ちゃんが「ねえ昴流。」と強い口調で僕の名を呼んだ。
僕は彼女が「ねえ昴流。」の一言のためにこんなにも息を深く吸い込んだことが少しだけおかしくて、北都ちゃんの話が終わったらそのことを教えよう、と笑いながら、音楽に負けない大きな声で「なに?」と返事をした。

「。よょしっいとっずちたしたわ」

「え?」

北都ちゃんの前方から流れてくる音楽があまりに大きな音を立てたので、僕には彼女が何を言ったのか聞き取れなかった。
こちらを振り向くことなくじっとどこまでも続く一本道を眺める彼女に何かいつもと違う雰囲気を感じ取ったけれど、少しの間をおいて「絶対約束よ。」と彼女が明るく笑って振り返ったので、どうしても聞き返せなくなった僕は、嘘をつくときに似た気持ちで「うん、」と答えた。
北都ちゃんはとても満足したように、ドラマのセットみたいなスニーカーに力を込めて自転車を加速させながら、らいふ いず べりーしょー、と高校を休みがちな僕でもわかるくらい上手じゃない英語で歌い始める。

僕は加速する自転車から落っこちてしまわないよう彼女の背中に必死でつかまりながら、きっとその約束を叶えることができるだろう、なんにも聞こえなかったのになにかを理解した気になって、彼女が自転車でここまで来た本当の理由さえ考えないまま、ただ初めて浴びる風の感覚に頬を緩めていた。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -