彼女の皮膚の下には青白い水脈がある。
それは色の白い女の子や病気がちなリーマスの手首にもあるのだけれど、リリーの皮膚の下にあるあの青色とはどこか違って、彼女たちのそれに気を惹かれたことはない。
ふとした拍子にもしかして、と思い、人混みの中から手首を拾い上げたりするけれど、恥ずかしそうに目を伏せる女の子のそれはやはり日に当たらなかったために透けて見えるだけの血管でしかなく、僕の目利きが当たった試しは一度だってなかった。

リリーの手首。リリーの喉元。リリーのまぶた。
リリーの体ならどの場所だって淡く透ける血管を眺め、撫で、口づけしたくなるのに、どうしてだろう。
それだけが不思議でならないんだ。


「なんで、こんなときに来るのよ。」

「リリーが困っているならいつだって僕は馳せ参じるよ。」

「そんなことじゃない!」

彼女は僕に背を向け語調を強めるけれど、声の震えと季節はずれの長袖から垂れる水滴はまるで隠し切れていなかった。
賢く気の強い彼女がそんなことにさえ気を使えないほど傷ついているなんて。眉を嫌悪の形にゆがめ、リリーにこんな真似をした奴らへの怒りと侮蔑を露わにする。彼女がここでこんな声を出しさえしていなければ、僕は真っ先にスリザリンへと乗り込んで思いつく限りのひどい魔法を振りまいていただろう。その様を想像しただけで歪んだ歓喜に背中が震えた。
僕は彼女のことになると無意識の内にとても残酷になってしまうことがある。

「ポッター、ここは女子トイレよ!」

「そうだね。女子トイレだね。でも僕はリリーが困っているならいつ何時例えそれがドラキュラ伯爵の住むおどろおどろしい屋敷の百年は掃除されていないごうごうと火を噴く暖炉の中であろうと一目散に助けに行くよ。」

「困ってなんかないわ!」

ひきつった声がタイル張りの高い天井にヒステリックに響く。閉じた窓からは逃げることもできず、薄暗いそこに何度となく反響する。その音の波に乗って塩素の香りが鼻を掠めた。
リリーはどこの水を掛けられたのだろう。ふつり、肺の内側が熱くなる。怒りが喉のあたりにこみ上げてそれを堪えるように唾を飲み込んだ。
復讐のイメージが頭の中でスライドのように現れては消える。たくさん、いろんな、魔法で。肉体を。もしくは精神を。けれどリリーはそれらすべてを実行した所で喜びはしないだろう。だから僕はお利口な犬みたいにずっと彼女のそばにいて真っ赤な感情に蓋をする。

「リリー、怖がらないでほしいんだ。」

「……ポッター、お願いだから早くどこかへ行ってちょうだい。」

今にも卒倒してしまうんじゃないかというか細い彼女の声は、僕の心にまで冷たい空気を伝染させる。彼女を癒す、元気づける、笑わせる言葉を言わなくては。怒りで熱くなった頭を懸命に落ち着かせて考えるけれど、思いついたそのどれもにリリーを疲弊させるイメージが付きまとって口に出す勇気が湧かない。
握った手のひらに短く切った爪が食い込んでいる。痛痒いけれど、彼女の辛さに比べたらきっと何ともない。拳を一層強く握りしめ、ひょろひょろ突っ立っているだけで何もできないでいる自分を奮い立たせた。

「風邪をひいてしまう。僕が乾かしてあげるよ。」

「……」

「杖でもなくしたの?こんな簡単な魔法、君なら他人の杖でもできるだろう。」

「……」

答えず、彼女は僕に背を向けたまま同じ所から動こうともしなかった。
僕もそんな彼女に近づくことをためらって、同じ位置から杖を取り出す。囁くように呪文を唱えると、蛍のように光るものが飛んでいき、それが分散して彼女を包み込んだ。包み込んだけれど。

「……リリー、これって。」

「……そういう水なのよ。」

長袖から落ちた水滴が音を立ててタイルにはじける。乾燥の魔法でも乾かない特別な水が、さっきと変わらぬテンポで床に水たまりを作っている。

陰湿だ。
また内側で感情が沸騰する。眩暈のような震えが全身に走って、世界と自分とが切り離されたような気さえした。わざわざそんなものを作ってまで。どうして。
どうして、なんて、その理由くらい見当はついているんだ。リリーがマグル生まれで勉強ができ、容姿がうつくしいから嫉妬しているのだ。自分たちにはひとつだってないものを、人間生まれの彼女が持っているから。
けれど僕にはここまで彼女を苦しめることに執着する心の働きがどうしても理解できなかった。いや、そんな醜いものなんか理解できなくていい。ただただ軽蔑し、強く睨みつけて徹底的に許しはしないだけなんだから。
怒りにまかせて立ち尽くすリリーの腕を掴んだ。強い感情のせいで頭が熱く目がカラカラする。

「このままじゃいけない。寮に戻って着替えよう。」

「……いや、」

「今は授業が始まっているから誰もいないよ。恥ずかしがらないで。」

「や、いやよ!」

強く僕の手を振りほどく彼女の長袖から水が飛ぶ。こちらを向かない彼女の髪に隠された横顔からは表情が読み取れない。肩や吐息が震えて、それが濡れた制服の冷たさから来るものか、何か別の、恐怖や怒りや悲しみから来るものなのか、判断がつかなかい。
まるで目の前の女の子がリリーじゃない誰かみたいだった。だって、彼女はこんなにビクビク震えて何かから隠れようとするような人間じゃない。赤い髪に隠された顔は気まぐれで手首を拾いあげただけの女の子なのではないか。そんな錯覚が頭に浸みていく。
さっき掴んでいた腕は、手首は、青白いあの血管は、確かにリリーの。でも目の前の頼りない肩は。内向きの足は。小さく漏れる弱々しい吐息は。

目の中や頭や脳が揺れる。水滴の規則正しい音の中で、自分の鼓動がうるさい。それが冷静さを奪ってますます妄想を加速させる。
リリーじゃない、名前も知らないその他大勢の女の子を扱うように、強く彼女の腕を引いていた。

「あっ……!」

人形のように引きずられた少女は、大きく目を見開いてやっとこちらを見上げる。ああやっぱり。この子はリリー・エバンズだ。世界中どの時代を探したって一人しかいない女の子。大きなアーモンド型の瞳を確認して、さっきまでがちがちにこわばらせていた表情を弛緩させて安堵する。しかしそんな僕とは対照的に、彼女の表情は見る見るうちに凍りついて、瞬きさえ一度たりともしなかった。

「……リリー、これ、どうしたの。」

僕の掴んだ手首の、あの青い血管の上。赤い字が書かれている。汚れた血、なんて細いペンで書かれている。
違う。ペンじゃない。これは、この赤色は、彼女の。
悪寒が駆け上がると同時に鼓動にあわせて頭が鳴った。リリーが今にも泣き出しそうな顔をして、きっとひどく驚いた顔をしている僕に言う。

「べ、べつに、こんなこと、よ、よくあるのよ。こわ、こわくなんか、ないわ。大丈夫。大丈夫なのよ。」

ぐしゃぐしゃで真っ青の顔がふるえるくちびるで嘘をつく。喉の中を何かが下っていった。ひどく熱くて、痛い。
こわいくせに。大丈夫じゃないくせに。
大嫌いな僕の前で泣いてしまうほど傷ついたくせに。

リリーはそれから、くちびるを数回噛んで忙しなく視線を泳がせた後、お辞儀をするように深くうつむいた。赤い髪の毛で顔を隠して泣き声を押し殺している。
僕はショックで、ただただショックで、彼女の細い手首を握りしめたまま、タイルの中を反響する胸が裂けてしまいそうに痛々しい嗚咽を聞いていた。

「……僕は、悲しいよ。」

精一杯の感情をこめてつぶやく。リリーの嗚咽はひどくなって、僕は世界中から音なんてものが消え去ってくれればいいのに、そう思った。そうすれば彼女が僕に気を使って泣き声を押し殺さなくてもいいのに。それができないなら今すぐ霧になってこの空間から消えてしまいたかった。霧なんてきれいなものじゃなくても、彼女の服から滴った水の一部になって排水溝から流れていきたかった。リリーがこれ以上傷つかないために。

「あ、あなたに、わたし、の、きも、きもちなんか、わから、ないん、だわっ!」

うん、そうだね。そうだねリリー。僕の手の中に収まった蝋のように白い手は、かすかに震えて氷のように冷たい。
青白い血管。マグルや魔法使い、そんなものと関係ない、世界にただ一つのうつくしい血脈。鼓動が速くなる。喉がカラカラ乾いて痛いほどなのに、目の中に水の膜が張って、手首の赤い文字を揺らす。

「怖かったね、痛かったね、辛かったね、リリー。」

あれほど焦がれてやまなかった青白い血管へとくちびるを落とす。嬉しくなんかない。彼女の震えがくちびるから伝わって一層悲しくなるだけだった。
彼女は腕の力を抜いて、抵抗することもせずもう片方の腕でとめどなく流れる涙を擦り続けている。

ああそうだ。マグルや魔法使い、そんなものと関係なく、僕はどうしようもなくこの子が好きなんだ。神様から自分の運命を知らされたように、強く悟った。

「ねえリリー、」

「きっとさ、」

「僕らの子供が杖を持つ頃にはマグルの魔法使いもたくさんいて、」

「優秀なそういう人達がもっと素晴らしい世界を作っているに違いないって僕は思うよ。」

リリーは震える手首に力を込めて、重なった僕の手にすがるように握りしめる。
きっとそうさ。君を苦しめるものを世界から消し去りたいって思っている僕がいるんだから、きっとそうなるんだよ。
それはずっとずっと先のことになると思うけど、そのとき僕のそばで笑っている君は、赤い髪によく似合う半袖のワンピースなんかを着て、誰かが汚れた血だと言うその青白い血管をアクセサリーみたいにしてさ。






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