ちちっ、という、銀でできた笛のような音がする。
小太郎は薄黄色や桃色の花が咲く木々を見上げると、その隙間の小さな音の正体を黙視した。目白だ。思った矢先、薄緑の羽が飛び立つ。栴檀、欅と移動し、緑が増えつつある桜の奥へ回ると、再び栴檀に止まった。仲間を呼ぶようにちちっ、と鳴く。

「燕か、雀か。」

鳴き声を追うようにして出された氏政の声は、木々にまで届くことなくすぐさま沈黙に吸い込まれていく。小太郎は声が出ないと噂されるほど口数が少ないのだから、彼からの返答を求めて言ったのではないだろう。実際、氏政はじっと木々の間に視線をやって、小太郎がいつものように黙りこくっていることに不満な素振りは見せなかった。

栴檀から小さく飛び立つものがある。翼は緑がかっており、やはりあの鳴き声は目白に違いなかった。
燕でも雀でもない。そう伝えるため、小太郎は腕を上げて緑の羽へ指を指す。
主が目白と燕を見間違えていようとなにも困りはしないのだから、些末な疑問にわざわざ答える必要などはない。氏政も、小太郎の口数が極端に少ないことや、交流や疎通を欲しないことを理解している。口を結び身構えて起こりうる全ての危地を警戒する、普段通りのそんな行動をとっておけばよいのだ。だが小太郎は、わざわざ胸の前で組んだ腕を解き、肩を斜めに持ち上げてまっすぐ鳥の居所を指し示した。簡単な動作だが、小太郎の人形のような寡黙さを知るものならば、何かあったのだろうかと目を見開いて彼を眺め回すか、鳥の位置を示さなくてはならない理由について考え出すに違いない。それほど任務以外での他者との交流を絶っている小太郎の気まぐれなその動作は珍しかった。

氏政は腰が痛まぬようそっと縁台から身を乗り出すと、目をゆるゆる見開いて小太郎の指す栴檀の中を検分した。ちっちっ、と石が擦れ合ったような高い鳴き声が桜の中から聞こえる。今度こそ、雀だ。

「どこぢゃ。」

じれたような声が生い茂る様々な色の中をまさぐりながら掛けられた。
確かに、緑の羽は少々見えにくいかもしれない。けれど目白は毛づくろいのために絶えず動いているし、風もないため葉や枝は揺れていないのだから、見つからない方が無理があるだろう。
小太郎は億劫に思うことなく伸ばした腕をさらにピンと張り、栴檀の中の小刻みにふるえる薄緑の一点を指した。一度見つけてしまえばもう間違うことはない。それほど小太郎の目にははっきりと目白の形が捉えられている。

「どれぢゃ。」

「……」

「どこぢゃ。」

「……」

老人は一層腰を伸ばす。支えにした杖は地面に食い込むほどの力が掛かり、氏政は中腰のまま不安定な前のめりの姿勢をとった。小太郎の眉庇で覆われた眼は、指し示す目白ではなく、氏政の体重の大部分を預けられた杖に向けられた。京都で作られた名のある職人の一級品だと氏政が慢じるそれは、確かに一級品らしい頑丈な黒檀で作られている。突然掛けられた重さに耐えきれなくなった杖が折れ、氏政が転んで怪我をする、そんなことはないだろう。もとより氏政の体重などそこらの若い娘より軽いに決まっているのだから、杖が折れる心配は皆無だ。不穏な想像を払拭する為のその言葉は、肺の中がすっと透明になる冷たさを持っていた。
氏政の体が傾く度に杖を握る手には力が入り、骨やら血管やらが甲の皺に紛れてくっきりと浮き出た。杖を掴む己の力でぺきんと折れてしまいそうな指と手首は、小太郎の足下に胸騒ぎする冷たい風を送る。
杖が折れずとも体勢を崩してしまったら。
主が転ぶ。筋を痛める。骨が折れる。不幸な想像は任務を円滑に遂行するための想像力に特化した彼の頭の中を駆け巡った。氏政の苦しむ顔。呻く声。痛みで震える曲がった背中。過去に見たもの、聞いたものが意識せずとも優秀な忍の頭に次々と浮かんで、恐ろしい様子に誇張されていく。鳥肌が立つような、心臓を掴まれたような、名前の知らない感情が沸き上がるのを感じた。

もう鳥などどうでもいいではないか。小太郎は珍しくじれた。氏政の杖を持つ手の震えや、膝の頼りなさや、いつまでも目白を見つけられずさまよう視線にじれた。じれて、いらいらして、後悔した。不安が凝固した後悔だった。
小太郎は戦でさえ自分の身を危うく感じたことはなかった。しかし、老いぼれたわがままな雇い主に対して背筋が冷たくなるほどの不安を感じている。自分は傭兵だ。任務以外での主などどうでもいいことではないか。どうでもいいことだったのではないのか。
ちちっ、雀の声がどこからか聞こえる。それは氏政が間違えたように目白の鳴き声にも聞こえた。普段ならば聞き分けられるのに、意識は主の小さな体の方ばかりを向いた。

氏政は杖に体重を預け、夜になるとひどく痛み出すこともある腰を伸ばしたまま、鳴き声の方向へ顎を傾ける。前のめりのまま、一層不安定に体が傾いでいる。背中が不用心だ、小太郎は思った。自分が雇われのいつ裏切るかわからない忍だからそう思ったのではない。氏政の骨と皮だけで構成されたような老いた背中は余りに不用心すぎる。いつまでも自分は若いときのまま怪我も病もしないと思っているに違いない、厄災や不幸はきっと自分ばかりを逸れていく、そんな愚かで確証のない考えが宿っている背中だった。氏政は自分の枝のような腕や指や足が簡単に折れてしまうことを知らないのだ。皺だらけの手も骨の浮いた膝も曲がった腰もなにも見えてはいないのだ。年老いた自分がいとも簡単に死んでしまうことを、老翁は知らないのだ。
不意に、小太郎の背筋を冷たいものが走っていった。そして、病原を見抜く薬師のような鋭い目つきで目白を探す氏政を見た。こんなことをして何がわかるというのだ。すぐさまそう思い、愚かな考えを打ち消すようにかぶりを振った。

「みつからんのう。」

「……」

「桜の奥かの。」

小太郎は頷く。かぶりを振ったときの強さで、頷く。

「欅の隣かの。」

頷く。今度は弱々しく、鳥探しなど飽きたような仕草で。

「あの木は何じゃ。」

栴檀だ。喉が熱くなるほどの力強さで小太郎は思った。その木にいるのは雀でも燕でもなく目白だ。でも、もうそれを見つけてくれなくたっていい。雀と勘違いしたままでもいい。なんだっていいから、自分の体をもっと気遣って欲しい。世間の老人がするように、嫌みなほど自分の老いに敏感になって、あれこれ他人にやらせて自分はぬくぬくと暮らせばいい。鳥を見つけられないのだって、年のせいで目が悪くなった、そう笑い飛ばしてくれたらいい。
小太郎は思わず声を上げそうになった。そうしなくても、風の素早さで栴檀にいる目白を掴み、氏政の目の前に突きつけたくなった。

逼迫した心情を感じ取ったのか、栴檀から一羽の鳥が飛び立ち、氏政と小太郎のすぐ前を翼の自慢でもするような緩慢な動きで通り過ぎた。草色の小さな塊が、小太郎と氏政の視界を真横に走っていく。

「ほほ、わしがいつまで経っても見つけられんから降りてきたわい。」

あれは鶯じゃな。氏政は呵々と笑い、腰痛のことも忘れたのかどしりと縁台に腰掛けた。高価だったという黒檀の杖を投げ出すように隣へ置き、鳥の飛び立った先を愛おしそうにずっと目で追っている。
あれは目白だ。どう見ても目白なのだ。けれど小太郎はくちびるを結んだまま主の声にそっと頷いた。冷たく透き通った何かが、彼の顎の力を抜いてそうさせた。鋼のような筋肉を纏った小太郎の背中は、しかし大切にしていた花を枯らしてしまった子供のような背中だった。

「一声鳴いてくれてもいいものを。」

しわがれた、けれど老いたもの特有の暖かみのある声は、やはりすぐさま沈黙に吸い取られていく。ほとぼりが冷めたと思ったのか、どこかで目白の鳴く声がした。ちちっ、ちちっ。この鳴き声も、いつか主は鶯のそれと間違えて頬を緩めるときが来るのだろうか。かぶりを振る代わりに彼は喉の奥に溜まった空気を飲み込んだ。
その姿は泣き出したいのを懸命に堪える小さな子供そのものだった。


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