卒業式が終わりました。
拍手の中花道を通り体育館を出ると、数人の女の子達が肩を寄せ合い泣いていて、それは一つ二つの塊じゃなく、隅の方だったり人混みに紛れたりしたものがいくつもいくつもありました。私は黒い制服の人混みにもまれながら、押し出されるようにそういうものの横を通り過ぎます。
小学校の頃はこんな風じゃなかったのに、なにがそうさせるのか。そんなものよりも私は、式の後に原田君から呼び出されたことが不安で、クラス会の一分スピーチが不安で、新しい学校生活が不安で、少し気を抜くと胃の中すべてを吐き出してしまいそうでした。

踵を蹴られて歩みを進める。太陽は目に痛いくらい眩しい。ふと頭上の光源に目を細めると、下睫の辺りに原田君がいて、まっすぐに埋もれた私の方を見ていて、黒い長身が人混みから突き抜けていて、どうしようもなく怖くなりました。ひっ、と音を出して息を吸うほどでした。私は、頭の隅であのか細い五本の指を探していました。

「なんだっけ。」

五本の指はそれが定位置であるかのように無遠慮な仕草で私の手のひらへ入り込み、やんわりと力を入れて握り込みます。決して嫌ではありません。嫌どころか、私はとても安心していました。遠くの原田君が目を逸らしたから。

「ねえ杏里ちゃん、なんだっけ。」

沢山の人の中でも関係なく伸びていく美香さんの声はとても不思議。次元が違って、透明なパイプが耳元まで伸びているみたいに、鮮明に届くのです。

「こういうの、なんだっけ。」

卒業証書の入った筒をこちらに見せて、美香さんは眉の間に皺を寄せてみせます。こういうの、と言われても、美香さんのように頭の良くない私には全く見当がつきません。ただなんとなく、その黒く細かな凹凸が入った筒は、修学旅行で食べた紙みたいな焼き海苔のように見えました。

「表面が、」

「表面?」

「焼き海苔みたいです。」

恐る恐る言うと、美香さんの眉間の皺はふっと平らになって、それから彼女はその皺を頬に移動させます。ひーっきゃっきゃっ、という美香さんの笑い声も、透明なパイプから耳までダイレクトに伝わって、吐き出される小さな空気の音までもはっきり聞こえました。

「杏里ちゃん!焼き海苔!修学旅行で歯に付いてお歯黒みたいだったね!」

「そうでしたね、なかなかとれなくて……、」

「私ちゃーんと写真に撮ってるよ!羊に小突かれたところもバイキングで迷ってるところもあるの!」

「そ、そんなにですか……?」

恥ずかしくなって照れ隠しに笑う。美香さんはけたけた笑って、卒業式だからといってみんなのように泣きはしませんでした。なんだかそれは、不思議なようで不思議でない、安心するような、肩すかしを食らったような、寂しいような、よくわからないけれど、私は嫌いではありませんでした。

「焼き海苔じゃなくってさー。こう、こういうの、あるじゃない。」

筒から蓋を引き抜くと可愛らしいぽんっという音がして、それを頼りに記憶を辿ると運動会のピストルの音が近いような気がしました。

「運動会の、ピストル……。」

「ちがぁう!こういうの!こういうのだよ!」

繰り返し筒を撫でたり回したりしてみせる彼女の奥、体育館倉庫の古い窓ガラスに、また見つけてしまった。原田君の、突き抜けた頭。こちらを見ている。まっすぐ、ガラスの中から。
怖くなって、笑顔が凍りつきました。

「み、かさ、教室、行きましょう。」

「教室?行っても誰もいないよー?みんな先生と写真撮ってるもん。」

彼女の言葉が終わらないうちに、私は指の間の細い五本を握りしめて人の群を猛進していました。絶対に振り返らない。小さい怒声も無視する。美香さんが人にさらわれそうになってもしっかとつかんだ手を決して離しはしませんでした。ただただ、得体の知れない恐怖が私の踵を蹴飛ばし続けたのです。

「杏里ちゃ、」

驚いたような美香さんの声も、人混みなのにしっかりと耳に届きます。スカートが誰かの体に引っかかるのも構わず、私は唯一開いている玄関まで一目散に駆けました。
ふいに誰かが私の苗字を呼んだような気がしました。それは原田君の声のようにも聞こえました。飛び込んだ玄関の鍵を閉める私の指に迷いはありません。

「どうしたの杏里ちゃん。」

「……あ、私、あの、」

「いいよ、無理しなくても。」

何かを理解したのか理解することを放棄したのか、そんな美香さんの言葉に幾分ほっとして、そっと彼女の左手を解放しました。私の右手は空気に撫でられてひやりとします。緊張からか、汗をかいていたようです。
ねえ杏里ちゃん覚えてる?美香さんの声は誰もいない階段のずっと上まで伸びていき、私はそれを追いかけるように彼女の後ろに続きます。

「杏里ちゃん、運動会でアンカー三回も任されて、でもそれ全部一着だったの。」

「そんなこともありましたね。」

「あとね、文化祭の合唱、二人で居残りしたこともあったね。」

「私が上手に歌えないから、美香さんにご迷惑をお掛けしてしまって。」

「やだなー迷惑だなんて!私も杏里ちゃんに助けてもらったことたくさんあるよ。ノート貸してもらったり、日焼け止め塗ってもらったり。」

「美香さん、日焼けを気にしてましたもんね。」

彼女とこうして他愛のない話をしているととても気が安らぎます。校舎のどこにも人が居ないことも関係しているのかもしれませんが、心の底から安心しきった私の頭からはあの男子生徒のことなど徐々になくなっていきました。幸い三年生の教室の鍵は開いていて、その扉をくぐると、並べられた机の上に小さな箱やら冊子やら紙やらが丁寧に並べられていました。なんだか、違う世界のよくわからない教室に入り込んでしまったみたい。

「杏里ちゃん!紅白まんじゅうがある!あのね、ピンクのね、色のがね、かあわいくってねー、」

美香さんは嬉々として自分の机に駆け寄ります。窓際の一番後ろから一つ前が彼女の席です。その後ろが私の席で、美香さんより一足先にもう二度と触れることはない座席に座りました。窓の外にはたくさんの黒い服が散っていて、やっぱり幾人かは泣いているようでした。騒がしい声やシャッター音の中に、確かな嗚咽が混ざっているのです。

「杏里ちゃんは泣かないの?」

「なんだか、泣けないみたいです。」

「どういうときなら泣けるのかな。」

「さあ……。」

それは私の方が彼女に問い返したい疑問でした。座った私の横にしゃがみ込み、彼女の顎より少し高い位置の机の上で、二つの黒い筒をもてあそびながら美香さんはなにやら考え込んでしまいます。掲示物が剥がされ殺風景になった教室は、やはり別世界のようでなんの感慨も湧きません。とてもじゃないけど、彼女の言う涙など出てはきませんでした。

「私が、」

私が、ね、杏里ちゃん。彼女の放った私の名前は、何度も何度も繰り返し呼ばれた中で一番透き通った音をしていました。透き通っているのに、教室いっぱいに膨張し、酸素の中を広がって、空間のすべてが清潔になっていく気がします。その響きが好きなのに、うれしいのに、なんだか嫌な胸騒ぎがして、私は窓に肩を着ける形で体ごと彼女に向き直る。

「私がいなくなったら、杏里ちゃんは泣いてくれるかな。」

「……い、なく、なるんですか、」

「わからない。わからないけど、私って恋に一途でしょ?そうしたらさ、いきなりびゅーん、って外国に行っちゃうかもしれないし、いきなりどかーん、って結婚しちゃうかもしれないし、いきなりぴょーん、って自殺しちゃうかもしれないし、いきなり、いきなり、」

いきなり、いきなり。延々と続いていく言葉が、笑顔を張り付けた美香さんの不安を表しているようでした。また私の背骨に、言い知れない不安が忍び寄ってくる。あれほど不確かだった涙の形が、脳の奥で思い出される。

「……かもしれないし、どばーん、って百年に一度の洪水に流されちゃうかもしれないし、むぎゅー、って筋骨隆々の男の人に抱き殺されるかもしれないし、……えっと、あと、あと、」

目を泳がせ始めた美香さんの放射状に伸びた睫を観察しながら、私はきっとどの場合であろうと泣いてしまうだろう、そう思いました。見てきたように、いえ、決して見たくはないけれど、それは確かな真実で、胸の中にさっき放ったはずの不安が、少しずつ少しずつ近づいて来るのでした。

「泣きますよ。たくさんたくさん泣きます。」

少しでも時間を引き延ばしたいような、そんな彼女のつぶやきを遮って言いました。美香さんはどうだろう。外国へ行った私を、結婚してしまった私を、死んでしまった私を見て、泣いてくれるの?疑問は口にしません。スカートの裾が彼女の指に握られていて、その白い手には青筋が幾本も伸びていたから、声を出すことがはばかられたのです。

「……杏里ちゃん、杏里ちゃん杏里ちゃん、」

スカートを解放した指が、私の両手をつかむ。顔を上げた彼女は水分で不安定に揺らぐ瞳でしっかりと私を捉え、掠れた声を出しました。さっきとはまるで違う、お母さん山羊の振りをした狼みたいな声。あんまり透き通ってはいないし、綺麗ではない。ないのに、なぜだろう、どうしてだろう、せつなくて愛しくて、世界中のだれが呼ぶより心臓を揺るがす音でした。

「会えなくなったらどうしよう。会えなくなってしまうんだ。会えなくなってしまう。」

熱に浮かされたようなよくわからない言葉の羅列から意味を拾い上げようと頭を働かせましたが、彼女の泣き出しそうな表情が心を占めて、どうにもいい結果を導き出せませんでした。握られた手に力がこもる。少し痛い。でも、泣きそうな彼女を見ている方がもっと辛い。

「杏里ちゃん、約束して。約束だよ。大切な約束。」

「美香さん、」

「大切なことなの。忘れないでね。目をつむって。」

握られた両手が小刻みに震えていました。美香さんの震えが伝染して、ずっとずっと振動を続けます。
そっと瞼を下ろし、外の騒がしい声に引きずられそうになる意識を美香さんに向けました。彼女が立ち上がったからか、唯一認識できる光を影が遮り、私の瞼はおびえたように一度痙攣しました。それから顎に震える指があてがわれ、たぶん、いいえきっと、くちびるに、彼女の薄桃色のそれが、確かに触れた。

だれも好きにならないで。離れたくちびるは空気を吐き出した程度の音で、そう言いました。あんなによく通った声なのに、不思議だな。考えながら彼女の走り去る足音を聞いて、確かに遠ざかっていく中学三年生という肩書を初めて認識したのでした。
教室が騒がしくなり始めた頃にやっと瞼を開けた私は、机の上に乗った黒い筒がひとつしかないことに気が付きました。あんなに喜んでいたのに、彼女の机の紅白まんじゅうはそのままそこにあります。少しだけおかしくなって、持ち上げた筒を彼女がしたようにもてあそびました。
ふと、彼女が言っていたこの筒と似たものとは何だったのだろうと思いだし、蓋を外したりはめたり、外したりはめたりを繰り返します。
焼き海苔じゃなくて、運動会じゃなくて、私も知っているもの。

「……マーブルチョコ。」

さらにおかしくなりました。筒を逆さに振ってみても、色とりどりの甘いお菓子は出てはきません。中の大仰な紙を引っ張り出す。そこにはやはり大仰な文字で、『張間美香』の名前が並んでいました。私の仕事はこの卒業証書と紅白まんじゅうを彼女の家に届けること。だから、寄り道せず、誰にも会わず、もう通ることはない通学路を愚直といえるほどまっすぐに帰らなくてはなりません。与えられた立派な理由に、私はまた踵を蹴られ続けるのでした。



(後日、私は彼女からの傷心旅行のメールを受け取ることになる。それを卒業式の日に彼女が計画していたのかどうかは、五月の私に見当などつかない。)


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