先生。
世界中に先生はたくさんいるけれど、私が特別な音でそう呼ぶ先生はこの学校にたった一人しかいない。
この学校だけじゃない。ママの知り合いの偉い学者先生にも、お世話になった小学校の先生にも、十年通っている乗馬の先生にだって、私はこんなに心のこもった音で彼らを呼んだことがない。
先生は先生だけでいい。世界中に、私が先生と呼ぶ先生はただ一人先生だけでいいのだ。

先生。
ちょっと大人びた聡明な音で。最後まで手を抜かず。はっきりと先生の記憶に残るように。
先生。

「ローデリヒ先生。」

先生がやっと顔を上げたのは私がもう4回も声をかけた後だった。
私は「先生」の音を決して無駄にしたりしない。教師の気を惹きたいがために男子生徒が連呼するくちゃくちゃに丸められた「先生」じゃなく、たっぷり時間をかけ洗練された4度に及ぶ「先生」は、彼らの「先生」100回分の効果はあったように思う。
準備室で作業をしていたらしい先生は、こちらに背中を向けたまま顔だけ振り返って確認すると、扉の前で立ち止まったままの私に微笑みかけ、手招きした。
音楽室と準備室の目に見えない境界線を乗り越えて、たくさんの楽器が置かれたそこに足を踏み入れる。この瞬間、ささやかな禁忌を犯した私の胸は、いつもより速いテンポを刻んでいる。

「先生、あの、おじゃまかと思ったんですけど、ピアノのことが気になって、」

ピアノというのは、先生が預かってきた古いピアノのことだ。今度卒業する三年生の生徒が学校に寄贈したらしい。
お金持ちの先輩の曾おじいさんが有名な職人さんに作らせた、ピアノというよりもオルガンのような、けれどアールデコ風の繊細な装飾が物の良さを語るピアノである。珍しいものが見つかったと、市の新聞にも載ったそうだ。
学校のシンボルになるかもしれないお宝とあって、校長先生や偉い人たちは卒業式にこのピアノで校歌を、と大々的な宣伝を目論んでいるらしい。
先生はそのピアノの修理を任されていた。式までもう三ヶ月しかないから、今はとっても忙しいのだ。

「ええ、古いものなので修復はとても気の使う作業ですが、きっと直してみせますよ。」

先生は少し疲れたような顔をしてまた微笑む。
校長先生たちは職人さんに依頼するつもりでいたのに、先生はわざわざ自分で修理したいと名乗り出たらしい。校長先生たちも、高額で予約待ちの職人さんに依頼するよりは、と考えたのだろう。
なんでも、ローデリヒ先生は外国へ行って音楽を学ぶだけでは飽きたらず、現地で職人さんに弟子入りしてピアノの補修や調律もできるようになったらしい。本当なら、こんなちっぽけな高校で先生なんかやっているべき人ではない。いつか教育実習にきた若い先生がそんなことを言っていた。

普段なら外国語の楽譜やメトロノームがきれいに並べられている広いデスクの上には、ピアノのものらしいパーツや工具、もやもやとした木屑が散らばっている。
それらはすべて先生に似合わないものだった。先生だけじゃない、ここの空気に全く馴染んでいない異質な存在達。先生やこの空間に似合うのはピカピカの白と黒が規則的に並べられた音の出る装置であって、机の上の掠れてぼろぼろになった鍵盤や、金の塗装が剥げたペダルではない。
それらを憎むわけではないけれど、なるべく先生に近づかないでくれたら、とおかしなことを思った。

「このピアノが完成したら、持ち主の三年生が卒業式に校歌を弾くんです。」

「先生が弾くんじゃないんですか?」

「いいえ、私はふさわしくない。」

先生はそう言って立ち上がると、机の奥のサテンが掛けられたチェストのような物体に歩み寄った。私はその下にあの古めかしいピアノがあるのだと直感した。
黒いサテンがするりと先生の手に引かれ、下の物の形をなぞる。優雅な所作だ。サテンの下からつやつやと光る上等なピアノが現れる映像を思い浮かべてしまうほど、先生の工具が似合わない繊細な指先は気品の集合体だった。

しかしその想像は裏切られる。サテンの下から現れたのは、無惨にも土台だけになった空洞のピアノ。

「(あわれだわ。)」

残酷だわ。悲しいわ。心臓がぎゅっと縮んで鼓動が大きくなる。思わず小さな悲鳴が上がるほど空気を強く吸い込んでいた。それらは思う存分破壊の限りをしつくされたピアノの残骸のように私の目に映ったのだ。
戦争で破壊された教会の瓦礫が被さったピアノのような。廃棄されたピアノが大きな機械で細かくつぶされていくような。

私は先生が木製や鉄の道具を使ってピアノを解体するのをただ視界にとらえているだけだった。
目の前の光景が自分の中で消化されず、ほんの少しずれた世界にいるような、信じたくないような、恐ろしいような、そんな気持ちで眺めていた。

早く組み立ててほしい。
きれいに塗装し直して弦を調節してほしい。ハサミなんて握ったこともないような指で愛おしむみたいに鍵盤を叩いてほしい。そんなところを今すぐ私に見せて、正しい世界の形に安心させてほしい。
準備室の湿気や床のワックスや古い木のにおいがやけに密度を増して、部屋が狭まったように感じた。
喉の奥に汗が流れていく。胃液かもしれない。なんでもいい。ああもう、もうなんだか、

「(かえりたい。)」

エリザベータさん。先生が私の名を呼んだとたん、世界は唐突に現実感を纏って体中に取り巻いた。

「エリザベータさん、今日はピアノを弾きませんし、こんなところを見ていても楽しくないでしょうからお帰りになった方がよろしいですよ。」

振り返った先生は、いつもの優しい先生の顔で微笑んでいた。先生の左手には金の塗装がすっかり剥げて銀色になったペダルが握られていて、その奥には枠だけになったピアノが横倒しにしてある。

「……はい。先生、さようなら。」

「さようなら、エリザベータさん。」

耳の奥や頬が熱くて、頭までぼんやりしている。いつもはコーヒーを入れるなり部屋の掃除をするなりして精一杯先生と過ごす時間を稼ぐけれど、今日ばっかりは走ってでもこの部屋から出ていきたかった。
後ずさるように準備室を出ると、なるべく足音が響かないように廊下を走った。放課後の誰もいない廊下を駆けると熱い頬を風がなでて気持ちいい。
やっと本当の世界に戻ってきた。そう思った。


家に帰ってそのときの自分の心の状態を考えているうちに、すべてとてもちっぽけなことのように思えてきた。
私は先生に理想を求め過ぎなんだ。先生だって血を吸う蚊がいたら殺すだろうし、なんとなくムシャクシャして乱暴に扉を閉めることもあるだろう。
そんな風に気持ちを整理しているうちに一週間が経って、それからテスト期間に入って、授業以外で先生に会うことがなくなった。本当はと言うと、どんなに気持ちを整理したところでピアノを解体している先生にまた同じような感情を持ってしまう恐怖があったから、一週間ちょっとのテスト期間は会わない口実にぴったりだった。
半月でピアノの修理がどれだけ進むのかは知らないけれど、もう構築の段階に来ていることを祈って音楽室の扉をそっと開く。

部活もテスト休みに入っている音楽室は、長く窓を閉め切られていたためか空気がこもって湿気のような匂いがした。心臓はいつもより大きく跳ねている。音の逃げ場がないそこに自分の鼓動さえ反響しているような気がした。
よし、扉を開くのよ。いつものように丁寧に、先生、そう呼ぶのよ。
ノブに掛けた指先に神経を集中させ、ゆっくりと右に引く。

先生。喉から出かかった言葉が凍り付いて空気に霧散する。
薄く開いた扉から見えた光景は、限界までうるさく鳴った私の心臓を止めるのに十分だった。
先生先生先生。心の中で呼んだけれど、先生がそこにいなかったわけではない。先生は準備室にいた。私と同じ制服を着た、知らない女の子を抱きしめた先生は。

目の前で起きていることを認識するより早く涙が眼球に滑り落ちていく。私は二人から目が離せなかった。視界がゆがんで世界がぼろぼろ崩れていくのに、一つの塊になった二人を見つめたまま立ち尽くしていた。

「(先生、)」

「せんせい、」

私の震えるくちびるがつぶやくように動くと同時に華奢な塊が柔らかな声を出す。甘ったるくって甘ったるくって甘ったるくって、喉の奥がいたくなるほど甘すぎる、シロップみたいな声。

「せんせい、私、卒業したくなんかありません。」

「マリア、泣かないでください。」

「せんせいとずっと一緒にいたい。卒業したくない。ピアノなんか、弾けないわ。」

「いいえ、あなたならできます。私のマリア。あなたに私が修理したピアノを弾いてほしいのです。」

小さい方の塊が顔を上げる。ウェーブのかかった豊かな髪。宝石のように美しい瞳。その瞳にたまった透き通る涙。見つめ合った二人がこの先どうなるか、信じたくない想像が背筋を駆けていった。

「(見ちゃだめ見ちゃだめ見ちゃ、)」

ぼんやりした視界が急にクリアになり、二人の形を鮮明に映す。
早く目を閉じて。扉を閉めて。走って逃げて。
抱きしめられた女子生徒の体が傾いで、机に腰掛けるような形になった。ピアノのよく似合う細い指が机の上をさまよって、押し出された木屑とともにピカピカの鍵盤がいくつも落下する。
はやくはやくはやく目を閉じて。顔を覆って。駆けだして。
じゃないと先生とあの子が。

落下した鍵盤が私を追い立てるように足下で跳ねた。ただのパーツとなった長方形の鍵盤は、落下の衝撃に無機質な音を立てて再び小さくバウンドする。生きているみたいに。
頭の中の悪魔が囁いた。自分の体ではないみたいにとっさに手のひらが扉の隙間に伸びる。熱い息を吐き出すと同時に手を握りしめると、硬い何かの感触が確かにあった。その勢いのまま振り返って、一心に音楽室を走り出す。

「(先生、せんせいせんせい。)」

その言葉だけが頭の中で増幅していく。自分が走っていることさえおぼろげにしかわからず、歪んだ視界が静まり返った廊下の形を崩壊させるので、悪夢の中を逃げ回っているような気がした。テスト期間でみんな帰ってしまった暗い教室が、一層悪夢めいて私の足を重くする。

非常階段の扉を開けて一歩踏み出すと、誰かが捨てたプリントを踏みしめて盛大に滑った。足が捻れて尻餅を着いた、惨めったらしい姿勢のままもう立ち上がることができない。
涙腺がついにおかしくなって、どこからか大量の涙が湧きだしてくる。2リットルの水を頭から掛けられたかのように拭うことのなかった涙が顔中をグシャグシャにしていく。けれど、もう、なんでもいい。

「(完成しないで完成しないで完成しないで。)」

滑ったときに擦れたらしい膝がじりりと痛んだ。けれどぐちゃぐちゃにえぐられたような心臓の痛みに比べたらまったくかわいらしいものだ。
震えて力の入らない手でお祈りのロザリオのように鍵盤を包み込む。涙でさらに輝く四角い黒の鍵盤は、体温ですっかり暖まっていた。

きっとこれを手放すことはできないだろう。輝く鋭利な黒を見て思った。
ただ一つ、この鍵盤がここにある限りピアノはきっと完成しない。あの子はピアノを弾けない。先生が望んだことはかなわない。二人の恋はきっとねじれる。

「(きっとねじれるわ。)」

だめになるの。かなわないの。許されないのよ。
小さな美しい共犯者を強く握りしめて口を開く。先生。先生。先生。熱く震える喉が吐き出した音は、男子生徒が呼ぶその音よりずっと嗄れてしつこくて惨めったらしかった。
私は先生の呼び方を思い出せないでいた。




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