水の中は好きだ。

言葉らしい言葉は聞こえないから、私は自分の声が出ないことも、言葉という意味を持った音が存在することも、意志を伝えるべき何億という生命が地球上で呼吸しているということも、すべてすべて、すべての思考を忘れ、たゆたうように、分解していくように、その永遠とも思える液体の中を沈んでいける気がするのだ。
ぷくりぷくり、気泡を出しながら緩やかに沈むと、もう何も、なんだっていらないから、そう心から思えてしまう。
実際水中深くに潜ったことはないし、しようなんて考えたことすらなかったから、本当のところはわからない。思っているより穏やかではないのかもしれない。醜いのかもしれない。
しかし私は憧れた。新羅と沈む深い湖に、目眩を伴うほどのどうしようもない憧れを持ってしまったのだ。



「母胎回帰願望かなあ。」

羊水とかさ、と新羅は暗闇に溶けてしまいそうなコーヒーに口を付けながら、牛のようにのんきな声を出す。窓の外と同化してしまいそうな黒色は、彼の注いだフレッシュミルクによって色を変え、やっと深夜の闇とは異なったものとして私の瞳に映った。
しかし私は水の話をしただろうか。いや、してはいない、心の中で思っただけだ。
この男はどこまで私の思考を読んでいるのか、話してもいない内言の内言にまで返答してみせたのだ。

「”私には親はいない。”」

「現実のじゃなくて、もっと人類の根源的な母親像とか。」

「”母親なんて興味がない。”)」

「そんなのわからないよ。セルティも、いずれはなるんだから。」

「”なるわけがない。第一私は人間じゃないんだ。”」

「そんなの関係ないよ。」

ぜんぜん関係ないよ、そう言うと彼は猫のような顔で笑い、そっと押し付けるように私の頭に手を乗せる。
細い、メスやハサミが大層似合う哲学者のような指がヘルメットに触れると、指先が滑らかな表面を滑る少々間抜けな音がした。
緩慢に動く指が促すままに体を委ねていると、当然のように頭は新羅の纏った白衣の胸ポケットに誘導され、私はそのまま額を彼に押し付ける体勢になる。
少々の気恥ずかしさを感じたが、しかし抵抗するのも妙な気がする。そういった些細な違和感は、弁解の言葉を持たない私にとってふとした拍子に彼との間を深くする危険なものだから、なるべく避けるべきなのだ。

「セルティはなんだって考え過ぎなんだ。」

あやすようにヘルメット上の指がリズムをとった。たん、たん、たん。私の緊張をふやかしていくそれは、脆弱な五指の僅かな動きでしかないのに意外と大きく聞こえる。頭上だから当たり前なのかもしれないが、静まり返った深夜のリビングが普段以上に私の聴覚を敏感にさせているに違いない。

今日は疲れた、通常なら気にならない沈黙が自分を急かしているような気がして、打ち込んだPDAを新羅に向ける。実際は小さな仕事を三つばかりこなした程度でさほど疲れてはいない。ただ少し、慣れ親しんだ暗闇が今日に限って重くのしかかっているように感じて、早くここから出ていきたいような気がする。

「このまま眠ればいいよ。しっかり支えておくから。」

「”それは困る。”」

「なにも困ることなんてないじゃないか。」

「”眠れない。”」

「眠れるさ。よし、よく眠れるおまじないをしてあげよう。」

目を閉じて、そう言われるままに私は瞳に映る一切のものをすべて遮断した。彼の指はまだヘルメットでリズムを取り続けている。

「あなたはだんだんねむくなーるー。」

子供だましにも程があるそのおまじないは、しばらく私の脇腹辺りでもぞもぞと動いていたが、新羅があんまり何度もそれを繰り返すものだから、私は喉から出そうになった笑い声(実際はなんの音にもならないが、なぜか新羅はいつも気付く)をかみ殺し、おとなしくしておくことにした。
笑わないでよ、おまじないの合間にそう言う新羅だって、声に僅かな震えが残っているのだが、指摘はしないでおいた。存在しない瞼が次第に重くなって、PDFに文字を打つことすら億劫だった。

そのままそっと視覚を手放して、一面闇の世界に体を浸す。
闇の中に形はない。無い目をつむり、無い頭を使い、私をしっかと抱きしめる彼の表情を想像した。そうしないと今現実の世界で自分を抱き止めるものが不明確になって不安になるからだ。
ふにゃふにゃの新羅のことだ。きっといつも以上に優しく頬を緩めているに違いない。彼の伸びた輪ゴムのように緩んだ表情はを目に焼き付いてしまうほど見てきたから、頭の中に容易く浮かんでくる。

なんだか頭がゆらゆらとして、感覚が不安定で心許ない。ついに眠気が堪えきれなくなったか、それとももしや、浮遊しているのかもしれない。そんなことを空想した。
そろそろと、コンクリートから湧き出した透明な水が、静かにこの部屋を満たしているのかもしれない。
そんな気がする。
いや、きっとそうなのだ。

ゆらりゆらり、コーヒーを漂わせたカップもゆったりと浮いていく。
新羅の黒い髪は柔らかく揺れている。
毎日欠かさず水をやる慣用植物の葉は、生き物のように波打つ。
重たいであろう大型テレビなどの家具たちも、重力を忘れて浮いている。
ここはそんな深海なのだろう。そう思うとずうっと前からここは海の中であったような気がした。
次第にソファに座っている感覚が心許ないものになってきて、白衣をつかむ手に力が入った。
心細いのだろうか、なんだか私は子供のように泣きたくなる。

「(声が出さえすればいいのに。)」

「(そうすればもっと世界は生きやすく、私に優しいはずなのに。)」

「(もっと強く私が浮いていかないように、呼吸が止まって肺が破れるくらい抱きしめてくれ、そう新羅に伝えることだって、容易くできるのに。)」

私はずっと、空想の水の中で新羅に抱きかかえられていた。空想水は暖かく、全てのものが遥か上方へ流されていくのに、私たちの乗ったソファは不安定に揺れる割に同じところに停滞している。
なんとなく、呼吸し辛い。きっと水中で酸素が足りないのだ。いやそんな訳がない。これは空想で、一滴たりともこのリビングを濡らしている水など存在していないはず。

はっと勢いよく顔をあげると、新羅は頬を紅潮させたまま子供のような顔でこちらを見ていた。くにゃくにゃの輪ゴムのように頬を緩め、笑っている。

「セルティの肺が破れるくらいって、つまり万力でも使えばいいの?」

辺りを見渡せばいつも通りの家具がいつも通りの配置で並んでおり、水の気配は少しもしない。
だからセルティは考え過ぎなんだ、目の前の男は困ったように眉を下げながら、私の体を抱え直すように身じろいだ。辛いことは考える必要ないよ、再び頭でリズムを取り始めた彼に、ああ言葉はいらないのか、私は熱くなった心臓に刻むように思う。

「そうだよ言葉はいらないよ。」

白衣の男はとどめをさすように笑って、強く強く、呼吸が止まって肺が破れるくらい強く抱きしめる。

「(ほらもうふたりは水の中だ。)」

そんな新羅の心の声は、私の中に深く刺さって呼吸を一層苦しくさせた。



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