おそろしいおそろしいおそろしい夜は毎日決まってやってくるので、心休まる日は一日だって無いのだと思った。
トーリスがいたら良かった。真っ暗闇の深夜なんて二人一緒ならなにも怖いことなんかなくて、下らないことで笑ったり泣いたりして過ごしてきたのに。そんなこと、両手を百本使ったってまるで足りないくらい、有り触れたことだったのに。
そしてその時は夜がこんなに怖いものだなんて思い出すことさえできなかったんだ。
じっとりと湿った夜着に包まれた体を慎重に動かし、ベッドのなかで仰向けになる。

どうかおそろしいものが現れませんように。
どうか神様が俺を守っていますように。
どうか一刻も早く頭から恐怖が消えますように。
どうかどうかどうか……。

祈りながら、汗の噴き出す体が気持ち悪くて小さく息を吸い込んだ。そのわずかな胸の動きさえ、暗闇に潜む得体のしれない生き物に咎められそうな気がして、体中の神経を鋭くとがらせる。
右足の小指がむず痒い。気のせいかもしれないが、しかし確かな感覚がする。
指の先に、綿埃のような大きさの性質の悪い小人がかじり付いているのかもしれない。途端に恐怖がもくもくとこみ上がるが、同時に確認する勇気も小さく萎んでなくなった。もしそれが本物の小人か何かだったら、きっと恐ろしいことが起きるに違いない。
突然棚の上のぬいぐるみが落下するかもしれない。誰もいないのにインターホンが鳴るかもしれない。勝手に照明が点滅し始めるかもしれない。寝返りを打つと横で血まみれの女がにんまり笑っているかもしれない。
考え出したらきりがない、この場における恐ろしい出来事が意図せずとも頭に浮かんでは積み重なっていった。
一刻も早くその恐怖を打ち消すために、手当たり次第思い出せる限りの別の記憶を呼び起こす。
新しく買った紅茶のパッケージ、今朝家の門の開閉に苦労したこと、テレビで見たあのコメンテーターの眠たそうな顔、あるいはずいぶん前に聞いた親友の一言、「フェリクスの寝顔女の子みたい。」など。



「フェリクスの寝顔女の子みたいだった。」

起きぬけにそう言ったのは、ここに居ない俺の親友だった。どうやら深夜に目が覚めて、その時に俺の寝顔を見たらしいのだ。
トーリスの方がよっぽど女の子に見えるし、そう言ってやろうと思ったけれど、俺が彼の寝顔をよく知っているなんて、なんとなく気恥ずかしくて知られたくなかった。だから結局俺は口を閉ざしたまま何も言わず、代わりに、隣のベッドの上で行儀よくそろえられた奴の左足の小指をつねって、それから拗ねたふりをして頬を膨らませてやったのだ。

その日以来俺は、真夜中に怖くなっても彼の寝顔を覗き込んだりしなくなった。その代わり、もし二人一緒にいるのにさみしくなってしまったら、泣き出してしまいそうなほどつらくなったら、じっと目をつむって足の指を数える。
左の小指から、いち、に、さん、と数え、十までいったら隣に並んだトーリスの左足小指にそっと触り、じゅういち、じゅうに、と二十まで数えるのだ。そうすると自分と彼との境目が分からなくなって、不思議な安心感や幸福感が胸の中を一杯に満たし、ようやく俺は眠りにつくことができた。
とうの昔にやめてしまったおまじないのことである。


寝室は真空状態のように音がない。もちろんここにいないトーリスの寝息なんか聞こえる訳もなく、俺の心臓は体とは反対にツンと冷たくなる。
小指の違和感はぬぐえない。暗闇はまだまだ怖い。汗ばむ髪の毛が気持ち悪い。
ほんの少しだけ、泣き出しそうに心が震えた。
空はまだまだ明るくなりそうにない。そう思うだけでめまいがしそうになる。

「(トーリスはどうしているだろう。)」

離れたところで生きている彼は、夜の暗さに怯えていないだろうか。いや、怯えてはいないだろう。彼はああ見えて勇敢な男だ。

「(じゃあ俺は?)」

「(暗闇に怯える俺は何?)」

「(臆病者?)」

目の上に張った膜がさらりと揺れる。
ちがう。大丈夫。こわくない。
暗闇が心を浸して弱気になっているのだ。
涙の浮かぶ目を閉じて、俺はそっと、古いおまじないを実行する決意をした。

深く息を吸い込み、瞼に力を入れて、まず左足の小指をお辞儀させるように動かし、いち、と数える。古い機械のように動きは固かったけれど、右の小指のようにくすぐったい様な違和感は感じない。
続いて、吸い込んだ空気を少しずつ吐き出しながら左足の薬指を動かし、に、と心の中でつぶやいた。こちらも案外従順に動くので、俺は何となく勢いを手に入れる。何度か深呼吸をして心を落ち着かせてから、真一文に結んだ口の中で、続きの数字を口にする。

さん、し、ご、ろく、なな、はち。

きゅう、三度繰り返した深呼吸の後に九つ目を数えた。右足の薬指のことだ。ここまで来るのに、夜が明けてしまうほど時間が経ってしまったんじゃないかと思ったけれど、実際まぶたの外はまだまだ薄暗い。時計がないからわからないが、俺にはそれくらい長く感じられる暗闇だった。
問題の、悪い小人がいたずらをしたんだと思う小指は、やっぱりそこだけ霜焼けになったような感覚があって、肩が自然とこわばった。
トーリスの分まで数えなければ眠れない。だから十本目で怯えていたらいつまでたっても眠れないのに、体は熱がこもったように汗を出し続けるし、背中は恐怖から情けなく震えだしそうだった。
怖いものなんて何もいない。そう心の中で何度も言い聞かせ、自分を奮い立たせる。
深呼吸を何度も繰り返すと、頭の血管が激しく動いているのがわかった。ふと、自分が小さい女の子のように思えて「フェリクスの寝顔女の子みたいだった。」というトーリスの言葉を思い出した。ほんの少しだけ、恐怖も忘れて、くっくっと声を出して笑い出しそうになった。

低く空気を吐き出しざまに、慎重に慎重を重ね、小指を動かす。
案外滑らかに動く小指は左のそれと変わらない、小人も幽霊もいたずらをしていない、ごく一般的な小指のようだった。
音のない暗闇に耳を澄ませる。しばらく蜘蛛の巣のように神経を部屋の隅々に行き渡らせてみたが、俺の行動を咎めるような音は何もしない。
今度は初めて口に出して、じゅう、と言ってみた。まるで呼吸の音みたいな「じゅう」だったが、闇の中では思っていたより大きく聞こえ、その音が届いた範囲はもう何者にも侵されない自分の安全地帯のように思えて、気が楽になった。

その後も俺は、じゅういち、はっきりした声でじゅうに、じゅうさん、じゅうし、と続けた。
十一本目も十二本目も十三本目もここにはなかった。二十まで数えるころには汗も引き今度は体が冷たく感じられるほどで、もうどんな恐怖も頭に浮かんでは来ない。

「(どうしようトーリス。)」

二十まで数えたら安心して眠りにつくことができる。そのはずなのに、瞳はさらりとうるんで瞼を閉じると涙がこぼれてしまいそうだった。
こんなの、眠れるはずがない、そう思うと一層湧き出した涙が重力に従って、耳の方へ流れて行った。ここにはトーリスがいない。二本の脚もない。寝息だって聞こえない。女の子の寝顔だってない。

「(どうかどうかどうか神様、今ここにない小指がさみしがっていませんように。)」

隣で真っすぐ伸びているはずだった二本の足を思いながら、結局夜が明けて空が青白くなっても、俺の瞳はしっかりと天を見つめて、馬鹿みたいにただただそれだけを祈っていた。





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