目の前の女の子の腕には赤い線がたくさん引かれてあった。
赤い線は生々しく潤んでいたこともあったし、乾いていることもあった。
目の前の女の子はいつもそれを隠すように生きていた。
存在さえもなるべく人目に付かないようひっそりと過ごしていた。
オレは彼女が呼吸を押し殺して生活していることを一月前知った。
目の前の女の子は沙樹だった。
オレは沙樹が好きだった。
まさおみ、言葉ともとれない、呼吸音に紛れてしまうほど小さな声で沙樹が呼んだ。
貧血気味なのかもしれない。ただでさえ普段から血色の良くない顔をしているのに、震える手首からは一筋の真新しい傷口がぱっくり開いているのだから、きっとそうにちがいなかった。
八畳一間のアパートと外界を遮断するように掛けられた分厚いカーテンの隙間から、強い西日が床にぺったり座り込んだ沙樹の首筋を一層白く照らしている。
シャツの襟ぐりはかなり開いているはずなのに、じわじわ汗を吹き出す鎖骨のあたりが暑苦しい。頬がうっすら汗ばんでいる気がしたけれど、陰に移動する気は起きなかった。
とにかくもう、俺は沙樹から目が離せなかった。
「まさおみ、」
「なんで、」
「なんでこうなったんだろう、」
「どうしてこんな、」
「どうして、」
「どうして、」
沙樹は空気が抜けた風船のように力なくうなだれると、それからぴたりと動かなくなった。
日光の振りかかった部屋のほこりがきらきらと彼女の周りを舞っていて、その真っ白に輝いてさえ見える石膏像の背中はリアリズムを追求した芸術作品のようにも見えた。
反射した光が俺の眼球を刺して、なぜか子供のように泣きたくなった。彼女を強く抱きしめて、わんわん泣きたくなった。
酸素が不足していたのか、いつの間にか開きっぱなしになっていた口をそっと閉じる。それから再び乾いたくちびるを開き、舌で舐めあげて潤すと、彼女の名前をそっと呼んだ。
「沙樹、」
「いざやさんが、」
「沙樹、」
「いざやさんが、」
「沙樹、」
うつむいた沙樹の表情はここからは見えない。見えないけれど、きっと彼女は人形のような顔で泣いている。大きな瞳をさらに大きく見開いて、きっと彼女は透明な涙をいくつもいくつもこぼしているだろう。
手首から乾かない赤色が光を放って目に痛い。こんなもの、見たくもない。沙樹のこんな姿は、もう二度と見たくなかった。それなのに。
発光したように光を反射する白い背中が、嗚咽も呼吸も呑み込んで小刻みに震える。
沙樹沙樹沙樹。
俺はバカになったみたいに繰り返しそう言う。
大丈夫大丈夫。大丈夫だから。
そう言っている俺だって、喉も耳の奥も気圧がおかしいみたいに痛いし、まぶたのあたりが発火したように熱くて全然大丈夫なんかじゃない。心臓だって堪えられなくなった痛々しい沙樹の呼吸や嗚咽がうつって、生きた心地がしないほど苦しい。
「まさおみまさおみっ……!」
「わたしが、」
「まさおみを、」
「ごめっ、なさ……っ!!」
堰を切ったように沙樹が声を上げる。
わんわんわんわん、子供のように、けれどもそれよりずっと悲痛に、沙樹の声が寂れた部屋のそこかしこに反射して、俺の心臓に赤い線を作る。
いつくもいくつも、赤い線から汚いものが染み出して、もうなんだって壊してしまいたい気分だった。みんなみんな死んじまえ!ギシギシする心臓へ無意識に手を伸ばしながらそんなことを思っていた。
沙樹を見捨てたクズな両親も、沙樹をどこかのけ者にする教師も、上辺だけ良い顔で接する友人も、彼女を信頼させられるだけ信頼させて人形のように扱った折原臨也も、みんなみんな死んでしまうくらいぶん殴って沙樹の悲しみも分かれよって、泣きながら血を吐きながら叫びたくなった。
どうして沙樹が、強くそう思うとついに生ぬるい涙が頬を伝って床に跳ね返る。
どうして沙樹が。どうして俺が。どうして他の誰かじゃなく、この俺たちが。
それは子供染みた無責任な考えだったが、身勝手だと責められる人間がどこにいるだろう。こんなに傷ついた俺たちを責められる人間こそ、自己中心的で非情な身勝手極まりない存在なのではないのか。
「(まだほんの、)」
「(ほんの子供じゃないか……!)」
沙樹の声が悲鳴のように一層大きくなる。呪文のように、過去の自分を呪い殺すように、鋭利な執念を持って延々と。弱い、白い、薄い背中に、どす黒いものを溜め込んで、時々痙攣のように震わせる。
鼓膜がざわざわと気味悪く鳴ったが、俺は垂らした両手で強く沙樹の耳を塞ぎ、自分の鼓膜が痛いほど震えても無理に作り笑いをして構うことはなかった。
「大丈夫、大丈夫だ沙樹。」
「俺は怒ってないし、恐ろしいくらいに元気だ。」
「可愛い彼女ともヨリを戻せたし、馬鹿みたいに純粋な親友が二人もいる。」
「喧嘩だってべらぼうに強いし、経済力も、まあなんとか、あるにはある。」
「それになんたってこの良すぎるルックスだ。俺に憂いはない!幸せすぎて怖いくらいだ!!」
どんなに俺がくだらない軽口を叩いても沙樹の悲鳴のような泣き声はやまず、あの頃のようにけらけらと腹を抱えて笑ってはくれない。
大丈夫大丈夫。天井に向けられた彼女の白い手首を彩る赤い線を見てつぶやく。
大丈夫大丈夫。
絶対的な幸福を得るための呪文のように、ただひたすら馬鹿みたいに「大丈夫」を繰り返した。沙樹に聞こえていないこともかまわず、乾いたくちびるがひりひりと痛んで舌の先がしびれるまで、ずっと繰り返していた。
「(どうして俺たちはこんなにも弱い。)」
彼女の腕の傷はエナメルを塗ったように潤んで、とろりと細い手首に巻き付いている。それは沙樹の呪いのような後悔が体から一筋こぼれたような色をしていた。
早く乾いてかさぶたになって剥がれおちて、何事もなかったかのように白く新しい皮膚が現れればいい。頭の悪い恋人同士のようにおそろいの半袖を着て、おそろいのブレスレットなんかを腕につけて、沙樹が俺の冗談に腹を抱えて笑ってくれる、そんな日が、一刻も早く現れればいい。今とは程遠く輝きに満ちた、そんな未来のことを空想した。
ハッピーエンドはまだ見つからない。