杏里ちゃんは優しい。
「優しい」はよく、優柔不断や上辺だけのものにとられてしまうことがあるけれど、杏里ちゃんのそれは間違いなく純粋な優しさだと思う。今だって無理を言って一緒に授業をサボってもらっているけれど、それは断りきれなかったからでもお愛想の付き合いというものでもなく、ただ、私のことが心配でここまでしてくれているのだ。そう信じたい自分がいる。

杏里ちゃんは中指に貼り付いたいびつで鋭利な爪を、その鋭さを確かめるように自分の指先でなぞって、それからわざわざ教室から持ってきてくれた私のポーチから爪ヤスリをとりだした。爪切りで切っちゃえば早いのに、そう思いつつも口に出すことはせず、ただ彼女の指先にされるがままの凶器みたいな爪を凝視した。
半地下になった視聴覚室には、冬の太陽に照らされた埃がたくさん舞っていて息苦しい。ダイヤモンドダストのようだ、見たこともないのにそんなことを思う。

「美香さん、爪、痛くないですか。」

「痛くはないけど、割れてたらイヤだなあ。」

「マニキュアは、塗った方がいいですか。」

「うーん、でも明後日から頭髪指導とかあるし、濃い色は注意されるかも。」

言い終わってしまうと、私たちは再び沈黙に取り囲まれてしまう。杏里ちゃんは中指に爪ヤスリを滑らせることに執心しているので、どうしようもなくつまらない私は、正座を崩した行儀の悪い座り方のままダイヤモンドダストを浴びる杏里ちゃんを見つめた。
眼鏡の弦が彼女の目尻の位置で光を反射している。古い画集に佇む、聖女の涙のようなきらめきだ。聖女みたいな杏里ちゃん。優しい優しい杏里ちゃん。優しいから、私は他のどの子よりも杏里ちゃんが大好きなのだ。

「二組の金沢君がいきなり突き落としたの。」

「………」

「サッカー部の部室を覗いてたんだ。」

「………」

「金沢君、三組の南さんとキスしてた。」

「………」

「そしたら目が合って、窓から突き落とされたときに爪が欠けちゃったの。」

「……美香さん、」

「そんな焦らなくたって、私は怒らないのにねー。それくらい愛してるのに。」

愛してるのにね。強調するように繰り返し言うと、何か言おうとくちびるを開いた杏里ちゃんは、いけないことをしたみたいにそっと口を閉ざし、じっくりと床を見つめて俯いてしまった。私は彼女を不快にさせることを言っただろうか、急に心臓が冷たくなる。
急いで彼女が気を悪くした理由がなんなのか考えたけれど、全く見当が付かなかった。余計にどうしていいかわからなくなって、大好きなケーキをもらったとたん、それを叩き潰されたように、一気に気分が落ち込んだ。頭からひゅっと何かが抜けて、何も楽しくなくなってしまった。

「(ダイヤモンドダストにやられてしまったんだ。)」

ダイヤモンドダストがこの部屋を満たしているから胸が痛くなるし、杏里ちゃんもなんだか不機嫌なのだ。くだらない妄想をして不安を散らそうとした。なんにもわかんないより間違ってでもわかった気でいた方がいい。不安が心臓を急かすのは大の苦手だ。

美香さんは、氷の粒が散乱する空気中に、杏里ちゃんの優しい声が真っ直ぐに通った。

「美香さんは、その、本当に、本当にその人が、すき、なんですか……?」

「あったりまえ!もちろん彼が大好きだよ!授業中にシャーペンを分解する癖もお母さんに暴力振るうとこも学校では良い人ぶって体育委員長してるとこも万引きした南さんを脅して無理にエッチしたとこも、全部全部好きなの!愛してるの!!」

「……それって、相手の人は、……嫌がってるんじゃ、ないですか……?」

爪ヤスリを止めた杏里ちゃんが悲しそうに眉をひそめる。目は合わせない。ただ、彼女にしては珍しく露骨に不快感を示していた。なんだこれ。とても苦しい。息が吸えない。雪のように舞う埃よりもっと喉に貼り付いて呼吸ができない。
ダイヤモンドダストだ。ダイヤモンドダストが喉を突き刺しているんだ。カッターナイフのように尖った氷の粒が肺を満たしていく。血管を満たしていく。私のすべてを満たしていく。

「(だって、だってそうじゃない。愛は全ての法則を飛び越えるんだもん。法則が無用なら何したっていいんだもん。相手に嫌がられても貫くのが正義だもん。貫かないなんて、その程度の愛は死ぬべきでしょ。だってそうでしょそうじゃない。)」

肺を満たしたダイヤモンドダストは、言葉はおろか呼吸も満足にさせてくれない。杏里ちゃんはやはり俯いた悲痛な表情のまま、私の中指を寂しがり屋な赤ちゃんのように握っている。
怖い。原因は分からないが、とても怖い。背筋が小刻みに震えて、顔から血液が下がっていく。優しい杏里ちゃんが。優しいから大好きな杏里ちゃんが私にひどいことを言ったから。骨が縮こまったように全身がキリキリと鳴った気がした。いやだ。悲しい。どうしよう。

「え?私、変なこと言ったかな?あれ?杏里ちゃん、私、変?」

「……いいえ、」

「そうだよね私変じゃないよね。そうだよきっときっとそうだよね。私は心から彼を愛してるから大丈夫!盗聴器も仕掛けたしカメラだって小型発信器だってたくさんつけてるもん。ちゃんと愛せてるもん!」

笑い声は静まり返った視聴覚室のそこかしこに広がってすぐに消えた。さっきよりもさらに、体を抱え込むようにして俯いてしまった杏里ちゃんは、無言で私の爪をとぐ。中指を、離しちゃいけないみたいにずっとずっと掴んでいる。痛い。杏里ちゃんが賛同してくれたのに、私の肺はまだ呼吸のたびにズキズキする。
凍った心臓が冷たい血液を送り出して、そのせいか私は泣き出したくなった。涙を隠そうにも片手を杏里ちゃんの華奢な手に握られているから、完全に隠しきることができない。涙がこぼれないよう天を仰ぐ。なんだか間抜けな姿勢だったけれど、笑えなかったし涙も引いてはくれなかった。

こっち向いてよ杏里ちゃん。
悲しまないでよ杏里ちゃん。
嫌いにならないでよ杏里ちゃん。

「(どうしようどうしようねえどうしよう。)」

「(肺や心臓や骨が痛くて死んでしまいそうだ。)」

「(おかしいのは杏里ちゃんの方だ。だって愛ってそういうものじゃない。)」

「(そうだよ愛ってそういう、相手に嫌われても更に大きな愛で相手を想う素晴らしい行為でしょ?)」

杏里ちゃんが爪やすりを滑らせる音が俄かに遅くなった。天井の雨漏りみたいなシミを眺めていた私が視線を下へ向けると、芸術品の仕上げをする様に、そっと中指の先へ息を吹きかける杏里ちゃんがいた。爪の削りかすが空気に舞って、それこそダイヤモンドダストのようだったが、なんだか見ていられない。やめて、そう心の中で叫んだけれど、彼女は持ち上げた私の指を壊れ物のように優しく手放す。

「美香さん、爪、綺麗になりました。」

しばらくぶりに顔をあげた杏里ちゃんは、おずおずと笑って私の顔色をす伺う。
彼女はてきぱきとポーチの中身を整理し、前に寄せた視聴覚室の机を片付けるため、ふらふら危なっかしく立ち上がった。濃い色の冬物スカートについた白い爪の粉を軽くはたいて落とす。夕日が眼鏡の弦に反射して、目尻にたまった涙みたいだった。聖女みたいな杏里ちゃん。優しい優しい杏里ちゃん。

「(愛じゃない。)」

私はぺったり床に座ったまま自分の中指を見つめた。短いけれど、美しく整えられた爪。それはマニキュアも塗っていないのに、動かすたびにきらきらと太陽の光を反射した。ダイヤモンドダストや、杏里ちゃんの眼鏡の弦や、絵画の聖女の涙みたいな光り方だった。

「(愛じゃない愛じゃない愛じゃない愛じゃない愛じゃ……)」

こんなさみしい所でやろうと思えば何だって出来たのだ。
押し倒して女同士の関係を持つことも、馬乗りになって殴りつけることも、奪うようにキスすることも。誰も助けに来ないのだから、華奢で気の弱い彼女をどうすることもできたのだ。
でもそうはしなかった。杏里ちゃんが悲しむと思ったから、どれもできなかった。

「(だからこんなの愛じゃない。愛じゃないんだ。)」

「(きっとそう、愛じゃない。)」



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