水泳の授業は全教科の中で唯一の嫌いな科目だった。
だから毎週水曜日の体育の授業には、体調不良だの生理だの怪我をしているだのと言って、ほとんど参加していない。おかげで小学校時代からもう何年も二学期の体育の成績だけ芳しくない評価をつけられている。
なぜ授業に参加しないのかというと、体型が気になるとか日焼けが嫌だとか、そういうおおよその女の子が一度は愚痴を漏らす類の理由ではなかった。なんとなく、もうずいぶんと前に受けた無数の傷が、自分の気が付かないような所に残っている気がして、水着を着ることが怖いのだ。

お風呂に入る前、鏡に向かって捻れるだけ体を捻り、自分の背中をじっと観察したことがある。様々な姿勢をとってみたが、結局傷はもちろん、生まれついての痣なども全く見あたらなかった。見あたらなかったけれどしかし、どこか、きっとどこかに見る人を不快にさせる痣や傷があるような気がして、私は十四歳になった今も人前で肌を見せることに躊躇している。

水泳の時間は大体、見学用のテントの下で体育教師の助手のようなことをしていた。それ以外の時間は落ち着かない気持ちで裸足の指先を動かしたり、しばしば飛んでくる水しぶきが制服を濡らさないよう注意して、暇をつぶす。
夏の日差しは焼け死んでしまいそうなほど強烈で、こんな日にドッヂボールやマラソンをしたなら、きっと何人もの女子生徒が日射病や貧血で保健室に運ばれただろう。しかしプールの中とならば、みんな前世が魚だったみたいに嬉々として授業に参加していた。
白い腕、狭い背中、飛ぶ水しぶき、高い笑い声。揺らぐ赤や黄色の線に沿って、等しい間隔をあけた白い水泳帽が進んでいく。

「プール入りたかったなあ。」

つまらなさそうな声が唐突にかけられた。そっと、声の主の方へ視線を向ける。スカートから伸びる日焼けを知らない白い脚をぶらぶらと揺らしていたのは、隣のクラスのリーダー的存在である少女だった。
張間美香さん。
同じクラスになったことはないけれど、名前と顔はよく知っている。他人に興味のない私が覚えているくらい、彼女の容貌はうつくしく、同学年の誰より聡明で、学内でも1、2を争う有名人だった。

暑くって嫌になるよねー、屈託の無い笑みを浮かべる彼女の揺れていない方の脚に、肌の色とほとんど相違ない包帯が丁寧に巻かれいるのが目に入って、私はとっさに返事することを忘れてしまった。あまりに色が白いので、たまたまそこへ目が向いてなかったら見落としてしまっていただろう。
返事をしかねている私を、張間さんは下からのぞきこむように上目遣いで見た。近くで見ると一層うつくしい顔立ちをしている。悪い所を探そうにも、逆にその完璧さが目に付いてしまう、そんなうつくしさをしていたので、同性であるにもかかわらず私は頬が次第に熱くなるのを感じた。

じっと黒い双眸で見つめられた私はなんだかとても恥ずかしい気がしてとっさに視線を泳がせた。私のそんな感情に気がついたのかそうでないのか、彼女の表情が「うっとりした」という表現が似合う大人びたものに変わり、半袖から伸びる白い腕が包帯の位置へ移動する。

「これね、恋人に刺されたの。」

猫のように笑って、彼女は自分の足を撫でる。私は更に返答に窮し、彼女が恋人にやられたのだという、包帯の巻かれた左足に視線を移動させた。

冗談だろう、そう思った。普通そのようなことをされたならうっとりした顔で笑えないだろうし、ましてや相手は優等生の張間さんだ。きっと彼女なりの冗談なのだろう。そう判断したのに、私はなぜか笑うことができなかった。口角を上げるだけの愛想笑いさえできず、痛々しい包帯の中身を透視するようにじっと見つめていた。
プールの女の子たちの笑い声が別世界の存在みたいに聞こえる。熱を感じた頬は、いつの間にかすっかり冷め切っている。

私は視線を上げて張間さんを見た。張間さんは張間さんで、私が包帯を見ている間中私を見ていたらしかった。かちあった黒々と澄んだ瞳は、ナイフか魚の腹のような輝きを持っていて、私は張間さんの形を見失ってしまう。

「冗談だよ。」

「え、」

「恋人に刺されたって、じょーだん。」

「あ、」

間の抜けた声が出た。
それを聞いた後、彼女は両手で口を押さえてくつくつと笑いだした。恋人じゃないの、恋人じゃなくって、笑い声の合間にそんな言葉を挟みながら、彼女は目尻に涙を溜めている。真実なのか、からかわれているのか、よく判断のつかない私は、ただ黙って彼女の横顔を眺めるしかなかった。

50メートルを泳ぎ切った女子生徒たちの影が、いくつもいくつも滑るように私たちの脚を通過していった。前を通り過ぎた水着姿の少女から、張間さんの方へ水滴が飛ぶ。それは紺色のスカートに落下して濃紺色のシミになった。
泳ぎ終えた女子生徒の半数くらいが、まだ肩をひくつかせている張間さんを見て貼り付けただけの笑顔を作り、そのまた半分は、わざわざ彼女を心配してテントに入ってくる。途端にテント内の湿度が上昇したことを、私は肌で感じ取った。

「美香なんか面白いことあったの?」

「いがーい、園原さんと仲良かったんだ。」

「足大丈夫―?」

「車と接触事故だって?」

張間さんを囲むように立つ女の子たちは、みな一様に彼女を心配しているという表情と、張間さんは親友だと周りに主張する頬笑みを持ってはいたが、そのどれもに強者へ対する畏怖と嫌悪と憧れが滲んでいる気がした。そしてそのことを張間さんもよく理解しているような気も、なんとなくした。
ちょっとした疎外感を感じて、私はいつものように足の指をもてあそぶ。張間さんは、ちがうよー、とか、ありがとう、とか、そんな言葉を返して少女たちに屈託無く笑いかけていたが、やはり違和感はぬぐえない。

湿気とプールの匂いがテントの中に立ち込めていて、私は少しだけ胸がむかむかした。ほんのちょっとだけ、プール入りたかったと言った張間さんの気持ちがわかるな。プールへと戻って行った同級生たちを目で追いながら、そんなことを思う。

「車にひかれたんじゃないよ。」

「……でも、さっきの人は、」

「恋人の浮気相手に刺されたの。もうこの人を苦しめるなー!って。」

「……え?」

「体育の原田先生、なんで最近授業に出ないか知ってる?」

「……あの、私よく、」

「私の恋人なんだー、あの人。」

くしゃくしゃ。首をかしげ、猫のような顔で笑う優等生の女の子。
ゆっくり開いた黒い瞳孔は、怪訝な表情の私を鮮明に映し、鱗のようにぎらりと輝く。その瞳に魅入られたように、私は目を離せなくなった。気を失う直前みたいに蒸し暑い気温を忘れる。愛してる愛してる愛してる、そんな声が一層近くで聞こえる。休むことなく囁くその言葉に似たものを、私は彼女の持つ空気に感じた。
うそ、勝手にこぼれおちた言葉に、嘘じゃないよ、彼女はそう答えて目を細めた。見透かせない目だ。限りなく女の子に近いけれど、決定的にそうじゃない、違う生き物みたい。張間美香さんはそういう人、いや、そういう生物なのかもしれない。集合の笛の音も、女の子の笑い声も、近くを走る車の音も、ずいぶんと遠くに聞こえた。
まるで別世界のような緊張感が私たちの座るベンチの上に存在していて、私は瞬きもできなくなってしまう。

「嘘だなんてひどーい!まあ信じられないのも無理ないけど。」

無理に話を終わらせるように、明るい声で彼女が言った。笑い方も、さっきとはまるで違う、女の子そのもののような笑い方をしている。限りなく明るい、あはは、といった調子の笑い方だ。
私はやっと一度だけ瞬きをすることに成功する。 チャイムが早く鳴ればいいのに。私は開いたくちびるがずいぶんと渇いていることに気がついた。

「ところで、園原さんは泳ぐの得意?」

「……プールはあまり入ったことがなくて。張間さんは得意なんですか?」

「私、前世魚だったんだよ。」

「……」

「あはっ!疑わないで!」

突然、跳ねるように立ち上がった張間さんは、そのままの勢いでプールサイドを猛進した。何が起きたの、瞬時にそう思ったが、彼女が走り出す瞬間に投げられた何かが顔にまとわりつき、一瞬目を閉じた隙に、もう彼女は隣からいなくなっていた。張間さんは第五レーンの飛び込み台に足をかけると、声もあげず地面から足を離し、宙に浮いた。それは私の目にスローモーションで映り、スカートのなびき方から足の筋がどのように動いたかまで、はっきりと理解できるほど、魔法みたいにゆっくりと飛び立ち、落下していった。
きゃあ、更衣室へ向かう女の子たちから小さな悲鳴が上がる。宙を浮かぶ張間さんは、よほど力を入れて踏み込んだのだろう、プールの真ん中あたりまで持ちこたえた後、つま先から、トビウオの鋭さをもって入水した。
小さなしぶきが彼女の体から巻き起こり、音に気がついたのか数人の生徒がそちらへ目を向ける。私は思わずプールサイドに駆け寄り、渦の中心から浮上してくる少女を確認すると、力が抜けて水浸しのタイルに膝をついた。

「これで信じてくれたかなっ!」

「は、張間さん!」

「全部全部、すべてすべて本当だから。」

頬に貼りついた髪を分けて、彼女は笑う。スカートが生き物のように水中で揺らいでいる。なに?とか、美香何してんの?という声が出口からぱらぱらあがりだしたけれど、彼女は一向に気にせず私の元まで歩いて来ると、しっかり伸ばした両手を差し出し、くちびるで「ひっぱって」と言った。
おずおず水を弾く二本の手をつかみ、抱きかかえるように彼女をプールサイドに引っ張り上げると、どちらが水に落ちたのかわからないくらい制服が濡れてしまった。顔の横で抱きかかえられた張間さんがくつくつ笑っているのが聞こえる。

「杏里ちゃん、今度うちにおいでよ。プール入ろう。」

肌に密着した濃紺色をタイルに横たえながら張間さんが言った。二人だから何も気にすることはないよ、小さく、呼吸をするように彼女が言ったので、私は何とも断ることができず、俯いて彼女のスカートを絞る作業に専念した。白い足が放り出されるように伸びている。
先ほど顔に投げられた包帯はベンチの上なので、そこには何にも守られていない赤い線があった。
カッターナイフや包丁の先で引っ掻いたような、細い傷。細さの割に色は黒に近い赤をしており、傷の深さが伺い知れた。
自分で切ったのでも、車にはねられたときにできたものでもない、繊細で深い傷。

横たわった彼女から、プールと湿気の匂いがした。それでもテントの中にいたときのような不快感はなかった。
「私、前世魚だったんだよ」彼女の言葉を思い出す。
私は、急に強烈な紫外線が自分たちに降り注いでいることに気がつき、それから無性にプールで泳ぎたくなった。


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