「例えば今日が世界の終わりだったとして、」

美香さんはそう言いながら、両手に持ち上げた大きなシャベルを通学鞄めがけて振り下ろした。
私はそのシルエットが地面に突き立てられる一瞬前に目を逸らし、深く瞼を閉じて暗闇の向こうの現実から逃げる。
そうだ、これは現実ではないのだ。きっと私は良くない夢を見ているに違いない。そうやって空想に逃げ込んでしまいたくなるくらい私を取り囲む状況は非現実的で、頭は始終はっきりとしなかった。
ザワザワという葉の音とともに不気味な音が耳に入る。その音は砂へシャベルを突き刺す乾いた音でもなければ目覚まし時計が床に落下したときのものでもなく、金属と金属が激しくぶつかる高い音や、刃物が布を突き抜けるこもったような音だった。
そうか、やはりこれは現実か。諦念の中で頭の中が次第に冴えてくる。


脅すだけだろう、私の机に油性ペンで落書きをした同級生を放課後の空き教室で詰問する美香さんに対してそう思った。けれど私の予想に反し、彼女は忠告を実行に移してしまったのだ。
年齢に似つかない派手な化粧をした少女の、美香さんを睨む際に見せた恐れと虚勢をにじませた瞳を思い出した。今となってはその瞳の持ち主と友人数名は、鞄を放り出したまま気を失って倒れている。もちろん、美香さん一人で返り討ちにしたのだ。

「例えば今日が世界の終わりだったとして、杏里ちゃんは何をしたい?最後に誰に会って何を見て、どんな言葉を残したいの?」

ガチャガチャとガラスが擦りあう音がして、頭痛のする安っぽい濃厚な香りが急にあたりを取り囲んだ。鞄の中の香水瓶が割れたらしい。私はシャベルに貫かれたリボンやキャラクターのついた鞄の中身を想像し、ためらいながら恐る恐る目を開ける。瞬間、じわりと視界が霞んだのはどこからか湧きだした涙のせいだ。

美香さんはシャベルを鞄に突き立てては全身を使ってそれを引き抜き、またぺしゃんこの鞄に打ち付ける動作を繰り返した。その持ち主に罰を与えるように真剣に。
整った横顔に貼りついた笑みが人間離れしている。口元は楽しそうにつりあがっているのに、目だけが爛爛とした殺意に満ちている。
やめてください、そう喉まで出かかった言葉は口に出せない。私が庇う必要なんてまるでないのに、そう叫びたくなってしまうのは美香さんのこんな顔を見たくなかったからかもしれない。
彼女を止めたい自己と止めたことによる罰を恐れる自己が葛藤する。罰なんて、美香さんが下さないのはわかりきっているのに、私はなにかを確実に恐れて怯えている。

「私はね、復讐するの。すべて、すべての人にだよ。杏里ちゃんを笑った人、杏里ちゃんを悲しませた人、杏里ちゃんをいじめた人。みんなみんな、私が復讐してあげるからね。刃物みたいに尖ったシャベルで出会った瞬間突き刺して、痛いやめてって言っても絶対やめないで力一杯刺し続けるんだ。杏里ちゃんにひどいことした、って悔やみながら史上最悪の最後を迎えさせてあげる。」

憎しみを込めるように、彼女の細い腕は不似合いなシャベルを持って上下に何度も往復する。
鞄の持ち手に結わえられたショッキングピンクのリボンはいつも私を嘲笑するように下品に揺れていたのに、今は元気なく垂れ下がっている。
違う違う。可哀想なんかじゃない。そうだ、これは当然の報いなのだ。繰り返したが、私はそれを直視することがどうしても耐えられなかった。

「世界が終わる日ならくだらない人間が一人死のうが死なまいがだれも気にしないもんね。だから思う存分、こんな風にシャベルをいっぱい突き刺して、絶望と苦痛を味あわせるの。きっと私笑ってると思うな。だって刺す度刺す度叫ぶんだもん。ごめんなさいごめんなさい、って馬鹿みたく叫ぶんだもん。愚かだよね。愚かすぎて、うふふ、私笑っちゃうな!あはっ!」

ザク、ザク、シャベルが刺さる。もうきっと鞄はその役目を果たせない程無残な姿になっているだろう。香水の香りがひどい。嗅覚だけでなく頭もおかしくなったような気がして、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込みたくなった。
美香さんの高い笑い声に息切れのようなものが混じり始めたのも、きっとその香水のせいで綺麗な酸素が肺に届けられなかったからじゃないかと推測する。彼女の僅かに苦しそうな呼吸は私を少しずつ不安にさせ、暗い校舎から恐ろしいものがこちらを見ているのではないか、と途端に背中がざわりとした。私は彼女と暗闇のどちらを恐れているのだろう。わからない。もうなにも、今の私にはわからない。

「なんでこんな……」

「なんでって、なんでなんて、杏里ちゃんが気にしなくっても大丈夫だよ。当り前のことだもん。だって私達親友じゃない!」

愚問だった。こんなわかりきったことを尋ねる必要などなかったのだ。彼女の答えはいつも“親友なんだから、杏里ちゃんがいじめられたら相手に復讐するのが当たり前”と決まっているのに。
風がごうごうと強くなる。髪の毛が乱れて顔にかかっても彼女はシャベルを持つ手を止めず、逆に興奮しだしたように笑い声を大きくした。
高い高いその声が風の音と相まって一層不安が掻き立てられる。明かりが消えた校舎も、チカチカする遠くの街灯も、死んだように眠る少女たちも、人気のない校庭も、すべて、すべてが不意に怖くなる。
まるで世界が私たち二人だけになってしまったんじゃないかという気になった。目の前の安っぽい映画のような現実よりそっちの方が遥かにリアリティがあって、私の瞳に張った水の膜が世界を揺らいで映す。

そうだ。私たちはこの世にたった二人きりなのだ。
私たち以外は眠ったように死んでいて、生命は息づいてなどいない。
荒廃して乾ききった世界の終り。そう、世界の終りがもう目の前に来ている。
さみしい。悲しい。なんて可哀想なことだろう。なんて彼女は不幸なのだろう。

例えば今日が世界の終わりだったとして、そう言った美香さんの声を頭の中で繰り返す。
例えば、例えば今が世界の終わるほんの少し前だったとして、何もかも行為が許されるなら。後悔も付きまとわないと言うのなら。
懺悔をするように私は胸の前で手を組んだ。

例えば今日が世界の終わりだったなら、私はきっと狂ったように鞄を突き刺す美香さんを押し倒し、驚いた顔をしている彼女の頬を強く打つだろう。そして、呆然としている彼女を抱きしめ、ごめんなさい、そう馬鹿みたいに繰り返すのだ。
ごめんなさいごめんなさい。私は美香さんを止められなかった。悪いことだと知っていたのに、口を閉ざして保身を選んだ。ごめんなさい。あなたの親友になれなくてごめんなさい、そう泣きながら謝るだろう。
その時美香さんも丸く開いた瞳から狂気を消し去って、一緒に泣いてくれたらいい。二人で本物の親友みたいに抱きしめあって、謝る私を怒るか許すか殴るかしてくれたらいい。くれたらいいのに。

現実の世界には僅かな車の音が遠くでしていた。パトカーらしい音も、自転車の青白い光も、町に息づく人々の気配も、風の合間に感じることができる。
美香さんは笑いこそしていなかったが、乱れた髪のままシャベルを鞄に突き立てる行為は続けていた。鞄がただの革の切れ端に変わっている。リボンは踏みつけられて汚れた紙切れみたいだった。
僅かにひどい香りは薄らいでいたので、私は深呼吸をして愚かで身勝手極まりない考えを捨てた。
帰りましょう、落ち着いた声でそう言うと、彼女はウサギのように砂山を跳ね下りながらシャベルを放った。大きな凶器が横たわる少女たちの前で高い金属音を立て、ごうと吹いた風にくしゃくしゃのリボンがさらわれていく。

「いじめられたらすぐ言ってね。杏里ちゃんは遠慮するけど、私達は親友なんだから心配いらないよ。」

いつも通りのすがすがしい笑顔。それに対して私もいつも通り曖昧に笑った。
こんなことをしていたのでは私たちは永遠に親友になれない。わかっているのに嫌われることを恐れた私は彼女の頬を殴り、抱きしめて謝ることができない。逃げ続けることが最大の悪であり、彼女と私の間にある溝を深めるばかりだと知っているのに、後悔を恐れてどうしても彼女を非難することができなかった。きっと、世界が終るその瞬間まで。
早く早く一刻も早く世界の終わりよ来い。鞄を握った両手に力を込めて、何度も何度もそう願った。
その数倍、彼女と心からの友人になりたい、いつだってそう願っていた。



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