草が、ぼんやりとしている。
靄か何かのせいで霞んで見えているのではない。存在があやふやで、どこか現実感というものに欠けているような形をしているのだ。その上に足を一歩降ろすと、一瞬たわんでから再び最初に見た形をとどめる。妙なものだ。めまいに似た感覚に、じっくり不機嫌な顔を作った。
私の右手には赤いチェックの布がかかったバスケットが引っかかっている。見てもいないのに、中身がぶどう酒とまるまるとしたパンだとなんとなくわかっていた。それらが昔読んだ絵本に出てきたものとそっくり瓜二つだということまで、なぜかはっきりと頭の中で蘇る。パンの切れ込みの数やぶどう酒のラベルの文字までありありと思い浮かぶのに、ここへ来た目的は思い出せないのだからおかしな話だ。

私を取り巻く野原は広く、木々もぽつりぽつりとあるだけで、人もいなければ蝶々一匹いない。目的地がわからないにもかかわらず、足だけははきはきと動き出すものだから、それなりに体もついて歩いた。
風も緩やかで気候もいい。散歩にはもってこいの場所だというのに、私はいつものように晴れやかな気分にならず、なんだか恐ろしいものに追いかけられているような、常に見えない銃口がこちらに向けられているような、そんな不安で一杯だった。落ち着かず何度も周りを見渡しながら、長いスカートに苦心しつつ足早に歩を進める。

「っ!」

急に、後ろ頭を叩かれた。目の前に火花が見えるほど、ひどい勢いだった。
つんのめった体をなんとか押し留め、涙を浮かべながら素早く前を見る。視界に映るすべてを恨むように睨みながら草の上へ視線を向けると、先ほどまでなかった黒いものが草の上に落下していた。
頭を叩かれたのではない。あれが落ちてきたのだ。そう理解し、所々ギリリと光る、赤ん坊ほどの大きさのそれに近づいてまじまじと観察する。
ビロードのような黒の間をよく見ると、赤くてジクジクした何かが見えた。私ははっと息をのむ。
それは、脚やら羽やらが折れてぺしゃんこに潰れたカラスだった。

なんなのだこれは。急に、恐怖がこみ上げた。ぺしゃんこの、重油をかけた羽毛枕みたいなカラス。
嫌だ。嫌だ嫌だ。気持ちが悪い。
思わず両手で体を抱きしめた。ばつんばつんと遠くや近くで何かが強く叩きつけられる音がする。カラスだと思った。瞳をまっすぐ野原に向けると、いつの間にか空を取り囲んだ黒い集団から、ひとつ、またひとつと黒いものが風を切って落下している。その数は夕立のようにすぐさま増えだし、銀河鉄道の夜みたい、私はそう思ったけれど、全然似てなどいなかった。

「なんてこと!大切な命なのに!」

叫んだ傍から私の体を黒いものが掠める。
嫌だ。怖い。なんて残酷な。ぞわりと肩が震えて歯が鳴る。思わず喉の奥から嗚咽をあげて、ほろりと涙をこぼした。
泣きながらカラスを防げるような屋根か木を探したけれど、そんな頑丈なものははじめからここにはなかった。
何なのここは。だだっ広い野原。ぺしゃんこになったカラス。いやだ。怖い。怖い怖い。
迫り来る黒い爆弾を前に、なすすべをなくして一歩後ずさりをする。その拍子に、後ろ手に強く握ったバスケットが何かに当たった。

「これは夢だから恐れることはない。」

背後からお兄様の声がした。間違いなく、いつものお兄様の凛々しい声が、空の黒い群れを引き裂く様に響いた。私は条件反射のように全身に張り巡らした緊張の糸を緩め、ほっと肺深くからため息をもらす。
そっと振り返ると、やはり軍服を着たお兄様が勇ましく立って、カラス達が落下するのを真っ直ぐな瞳で見ていた。ああよかった、私はひどく安心して、幼い頃よくしたようにお兄様の服の端をつかむ。
お兄様はひとしきりあたりを確認すると、落ちていた一羽のカラスのかつて脚だったらしい辺りをつかみあげ、勢い良く振った。するとそれは、たちまち大きな黒い蝙蝠傘に変わって、お兄様の手のひらに黒々と光る取っ手が収まっていた。
私は声も上げられずただ立ち尽くすしかない。

「カラスはお前の恐怖心だ。なにか好きなものを言ってみなさい。」

笑いも怒りもせずぶっきらぼうにそう言うお兄様に、私はお兄様が一等好きです、そう言おうかと思ったけれど、変なところで引っ込み思案な性が出て、チョコレート、と恐る恐る答えた。
お兄様はまっすぐ前を見つめてこちらを見ない。私はお兄さまの横顔から、彼のしっかり見つめる先へ視線を移した。
あ、と私が声をあげたころにはもうすでに、箱庭へ水を流し込む様な素早さで空から降ってきたチョコレートで野原は満たされていた。カラスはきっと、絵本に出てきたチョコレート製の白い鷺になっているに違いない。妙な確信を持ってチョコレートの海を眺めると、遠くの方に絵本そのものの白い鳥が悠々と泳いでいたので、私は胸の中がきゃっきゃと悲鳴を上げるくらいうれしくなった。

「もうこれで怖くない。」

チョコレートの海の上を、傘を差しながら二人で歩いた。カラスはもう落ちては来ない。みんな甘い匂いを放つ鷺に変わってしまったからだ。
お兄様は私の恐怖をいつもきらきらしたものに変えてしまう。いつもがいつかは分からなかったが、間違ってはいない確証があった。
隣を歩くお兄様はまっすぐ向こうを見つめて、軍隊のように姿勢正しく歩く。私はお兄様の精悍な顎のあたりをずうずうしく見つめながら、お兄様は少し髪が伸びたな、そう思った。



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