些細なことですれ違ってしまった、そう気がついた瞬間、私の背筋には恐ろしい衝撃が走り、同時に様々なことを後悔する。
あの時杏里ちゃんとこそこそ話をしていた女子は、たぶんあること無いこと彼女に告げ口していたのだ。気がついた時に声をかけていればよかった。それとも、早いうちに悪い芽を摘んでおくべきだったのかもしれない。どうしよう。どうしようどうしよう神様。
鞄を握る両腕が大きく震え、その手のひらにじっとりと汗が滲んだ。

いつも、どこに行くのだって一緒に行動していた杏里ちゃんは、まるで私なんて知らない子だというように、ふいっと目の前を通り過ぎ、教室を出ていってしまった。まるで私を避けるように。いや、実際彼女は手を挙げて呼び止める私を避けたのだ。黒い瞳が不自然に宙を漂っていた気がする。

足ががたがた震えて立っているのがやっとだった。彼女の向かった先さえ振り返ることができないほど、私は現実の出来事が信じられずにいる。
何人かのクラスメイトがドアの前に突っ立った私を、肩で押すようにして出ていった。男子の骨ばって固い腕が鎖骨に当たってひどく痛い。そのずっと響くような沈んだ痛みが私に見たくもない現実を突きつけて、今度こそ立っていられないほど膝が震えた。
頭の上から降ってくる大きな笑い声が頭痛を呼び起こし、精神がほろほろと崩壊してしまいそう。腕が痛い。目の前がぐらぐらする。このまま失神してしまうかもしれない。そんな恐怖を真面目に頭の中で思い浮かべて、崩れるように教室の埃っぽい床にへたり込んだ。頭ががんがんして恐る恐る呼吸をする。

頭の上から、名前もよく知らない同じクラスの掃除当番の女子数人が、大丈夫、おなか痛いの、と尋ねてくれたけれど、私はそれを好意的に受け入れられないほど憔悴していた。
あんたたち、なんなの。親切心だとわかっているのに、どうしようもなくイライラする。胃の中に火の玉を放り込んだように、怒りが湧き立った。
あんたたちなんて、ただ私にいじめられるのが怖くて優しい振りしてるだけなんでしょ。背中さすったり猫撫で声で慰めなくていいから早く杏里ちゃん呼んでよ。気安く触んないで。あんたたち如きが私に触れていいとでも思ってるの?はやくはやく、杏里ちゃん帰っちゃうじゃない。あんたたちなんて大っきらいなんだから。杏里ちゃん以外大っきらいなんだから!

おなかの中を逆さにしてばらまいたような言葉は、ほとんど声らしい声にならなかった。別にすべて聞かれたってよかったけれど、何か勘違いしたらしいクラスメイトが走って杏里ちゃんを探しに行ってくれたようだから、取りあえず気をしっかり持とう、そう冷静に考えて倒れるように力なく床へ横たわる。

「(杏里ちゃん杏里ちゃん杏里ちゃん、)」

じっと、呼吸を押し殺し、うずくまるようにして床のタイルの継ぎ目を目でたどっていく。それはずっとずっと伸びて、ついには目で追えないほど遠くへ行ってしまった。
廊下の騒がしい声が僅かに収まりつつあって、下校のピークが過ぎたらしいことが分かった。額がしっとりしていて、泣いた後のように睫毛と瞼の隙間が熱い。体を捻っているからか呼吸がし辛く、風邪をひいた時を思い出した。

園原さんつれてきたよ、という声に眩暈がしないようそっと顔を上げて振りかえると、両手で鞄を抱えるように持った杏里ちゃんが、呼びに行ったらしい女の子に押されるように一歩前へ出た。やっぱり、暗い表情をしている。あんなに杏里ちゃんに会いたかったのに、私は途端に気分が沈んで申し訳ない気持ちが胃にとどまった。

「ごめんね、……杏里ちゃん。」

「……」

「……杏里ちゃん、」

「……はい、」

「帰ろっか。」

小さく、杏里ちゃんはうなづいた。意地悪な子にいじめられた時のように下を向いて、私と目を合わせてはくれない。
よろけながら体を少しずつ起こし、机にもたれかかってなんとか立ちあがった。杏里ちゃんが来てくれたからか、汗も引いたし具合も前ほど悪くはない。それでも辛そうな顔をしている杏里ちゃんを見ると、やっぱり胸の中に得体の知れない灰色の塊が沈んだ。肺がきゅうっと収縮して、耳の後ろがおたふく風邪のようになった。

下校時間の過ぎた人気のない廊下を歩いている時も、杏里ちゃんは下を向いたまま黙っていた。歩きながらタイルの線をたどっているのかもしれない。私も一緒になってたどってみたが、とても目で追える速さではなかったので断念した。通り過ぎる教室から聞こえる笑い声が、まるで別世界のもののように鼓膜を震わせ、私の心臓を重くさせる。

「杏里ちゃん、」

「……」

「ねぇ、杏里ちゃん、」

「……」

「……杏里ちゃん」

勇気を絞り出して、やっと三度声をかけた。しかし返事はない。だめだ、心臓が冷えて行くのを感じながら諦めるようにそう思った。
杏里ちゃんはうつむいた強い瞳で、自分を律するように空間を見つめている。杏里ちゃんは何か強固な意志を持っている。強い強い、頑固な意志を持って私の存在をないものにしようとしている。
だめだだめだ。きっとバレたんだ。全部全部、聞いてしまったんだ。嫌われたかもしれない。どうしよう。どうしようどうしようどうしたらいい?怒ってるの?私のこと嫌いになったの?許してくれないの?もう二度とおしゃべりできないの?
ぼとり、天井から落ちた水滴が廊下のタイルにはじかれる。いくつもいくつも、私の頭の上あたりから落下したそれは、もちろん雨漏りなんかじゃない。これは涙だ。思考が煮詰まって杏里ちゃんに嫌われる恐怖が募って絶望が押し寄せて、私はいつの間にか涙をこぼしていた。
静かな廊下に自分の鼓動が大きく聞こえる。どんどんという音が、私の喉を熱くさせて沁みるように痛くなった。

杏里ちゃんは、きっとこのことに気が付いていない。ずっと下を向いてタイルの跡をたどっているから、こちらの事なんて何もわからないはずだ。もしかしたら、本当は気が付いているけれど、私の事が面倒くさくて、どうでもよくて大嫌いで死んでほしくてわざと知らん顔しているのかもしれない。
被害妄想だなんて笑い飛ばすことなんてできなかった。体も思考も五感もすべて、胃の中の灰色に蝕まれていっている。
ああああああ。だめだだめだ。もう私は、何もかも、だめ。ごめんなさい杏里ちゃん。ごめんなさいごめんなさい。杏里ちゃんに嫌われたら、私いきていけないよ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

「ごめ、なさ……、」

「美香さん……?」

「わた、し、ごめんなさい……!」

「美香さんっ?ああの、どうしたんですか!?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!もう、仕返しに火薬は使わないから!あと、先生を脅すのもやめるし、煙草の火を押し付けたのも謝りに行くから!あと、あとあと、水泳のときに盗ったブラも本人に返すし、脅すのに使った写真も燃やすし、ネットの書き込みも全部消す!だから許してよぅ。杏里ちゃんに嫌われたら私やだよー!生きてけない、死んじゃうー!!」

「……え、火薬?煙草?」

「他校の子たちはもう手先に使わないし、絶賛いじめ中の杏里ちゃんの悪い噂を立てたギャルと杏里ちゃんのことをいやらしい目で見る教師と「園原って、俺結構好きかも…」とかふざけたことほざいた男子ももう許すから!靴の中にガラス入れたり、家のポストを接着剤でぐちゃぐちゃにしないからぁ!」

「えっ、えええっ!?そんなに……!」

喉も肺も心臓も痛くて、耳なんか小学生の時になった中耳炎よりもきいんととれそうなくらい痛くなりだしたので、私は泣き声を一層大きくした。周りには少ないとはいえ、ドアの辺りで会話をしたり鞄を持って教室を出る生徒がいて、そのどれもが廊下に響き渡る私の泣き声に気がつき、訝しくこちらを見ていたけれど、そんなのお構いなしだった。
杏里ちゃんは顔を上げたり手を落ち着かず動かして、珍しくパニックになっているようだった。おろおろおろおろ、彼女は私の扱いに困っている。どうしよう。こんなことをしていたら私はさらに嫌われてしまうかもしれない。そう強く思うのに、涙も声も止まらない。わんわんと子供みたいな声を出しながら、私は小さく絶望した。

「私、先生のことしか教えてもらってないです!」

涙でかすんだ杏里ちゃんが、あたふたとしながらやっとそう言った。
その言葉でさらに私は絶望する。大きな大きな絶望が頭の真上から落ちてきて、一瞬で息の根が止まりそうだった。やってしまった、私はほんの瞬きの間、立ったままで意識を失う。

だめだ。もう絶対にだめだ。言わないでいいことさえ彼女にばらしてしまった。私の人生はもうここで終ってしまう。よしんば生きていたとしても、これから先杏里ちゃんがいない人生なんて耐えられない。自分で死のう。今晩にでも死んでしまおう。それが私にとっても杏里ちゃんにとっても最良の策なのだ。

急に目の前が桜色に染まって、脳内麻薬というやつが深く傷ついた私に幻覚を見せているのだ、そう瞬時に思った。だって、まさかここまで私の醜い部分を見た杏里ちゃんが、私にハンカチを手渡そうとしているなんて、どう考えたって信じられない話じゃないか。少なくとも映画か何かでもない限り、普通の人間はそんなことをしない。笑いながら犯罪を犯す女になんて、神様だって手を差し伸べてくれないのに。

けれでも涙でぼやぼやとする杏里ちゃんが、やっぱり少し困った顔で遠慮がちにハンカチを勧めるよう差し出したので、私の視界は今度こそ本当にバラ色に染まっていく。
杏里ちゃんは私を見捨ててはいない!そう思うと私は頭がおかしくなったみたいに泣きながら笑顔がこみ上げてくる。うれしくてうれしくて安心して、自制なんてとてもじゃないけどできない。

「ごめんなさいごめんなさい!でもね、私悲しかったの。杏里ちゃんをいじめる人達が許せなかったの。」

しゃくりあげながらすべての告白を終えると、やっぱり杏里ちゃんは大きな瞳を見開いて、それから口をもごもごさせていた。お願いお願い嫌いだって言わないで。その願いが伝わったかどうかはわからないが、杏里ちゃんの戸惑ったくちびるは私の方を見た次に、僅かに笑った。

「もう、ひどいことはしないでください。」

「しない!!絶対しないよ!!杏里ちゃんが悲しむことはしない!!」

「私は美香さんが悲しむことが悲しいです。」

控えめに、うつくしく微笑む杏里ちゃん。やっぱり杏里ちゃんは女神様だ。それこそ間違いなく世界にたった一つの真実だ。神様なんて、困った時しか信じたことがないけれど、すべての優しさと美しさを兼ね備えた、人間なんかの枠に収まらない存在が、目の前の園原杏里ちゃんだった。
受け取ったハンカチはきちんとアイロンが当てられていて、石鹸の優しい香りがした。私はごめんなさいの代わりに、ありがとうを何度も何度も繰り返して、時々大好きも混ぜ込んだ。

杏里ちゃん杏里ちゃん、世界一大好きな杏里ちゃん。
もう二度と、杏里ちゃんの気持ちも考えず他人を傷つけたりしないからね。きちんと、飼い犬のように従順でいるからね。

でもでも、杏里ちゃんを好きかもって言った男子は、もうちょっとだけ監視させてちょうだいね、杏里ちゃん。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -