思い切り頬を殴られた。
口の中で爆弾が弾けたと思うくらい、頭が真っ白になる痛みが顔中を襲い、少女と称される発育途上の体がいとも簡単に押し倒される。まるで自分の体ではないかのように全身がコンクリート上でバウンドした。
痛い。視界がぐるぐると建物に切り取られた空をさまよった。目の端でアイスクリームの丸いパッケージが転がっていく。スローモーションの、茶色いまんまるな箱。

「(あ、)」

「(アイス、)」

「(こぼれちゃうよ、)」

こんな時だというのに地面に転がったアイスクリームの心配をした私は、やはりどこかがおかしいのだろう。
くちびるが焼け爛れたように熱く、その奥の歯がなんだか変だ。折れたのかもしれない。感覚がないのでそれすらわからず、とにかく苦悶の表情で相手を見る。

こんなことをしなくても抵抗なんてしないのに。少し殴られ損な気がして、のしかかる男に小さな反抗心が湧く。脳は痛む体とは対照的にひんやりと冷めていて、もう逃げきれないという事くらい相手の体格を見た瞬間に悟っていた。男の息は荒く、煙草と汗のにおいがする。顔には夏だというのにスカーフを巻いて、目だけが身勝手な欲望に爛々と輝いていた。
無抵抗を決め込もう。これが最善の策だ。男は事を済ませば帰って行くし、私も殴られないで済む。くだらないプライドや貞操なんて、普通の女の子じゃないのだから今更気にかけるものでもない。
だらりと全身から力を抜いて降伏を示すと、のしかかった男が性急に太ももをつかんだ。思わずふっと肺から空気を吐き出す。乱暴に肉に食い込んだ指が痛くて、小さくうめき声を上げた。

なぜミニスカートなんて穿いてきてしまったのだろう。ジーンズかスウェットかショートパンツだったら、きっとこんな目に遭わなかったはず。
いやだめだ。別のことを考えろ。そうだ別の、もっと進歩的なことだ。これが終わったら、私はすぐにコンビニへと戻る。そこでトイレに入り口をすすぎ、服についた汚れを落として、正臣に頼まれたアイスクリームを買い直す。チョコチップの入った105円のアイスをひとつだけ。会計が終わったら、もうこんな目に会わないようなるべく明るい道を走ってアパートまで帰る。アパートにはお風呂からあがった正臣が居て、くちびるの腫れ上がった私に「どうしたんだ沙樹!?」と心配するだろう。その時、私はなんと言おう。なんと言えばいいのだろう。

男が片手で私の下着に手をかけた。もう片方の手をTシャツの下から差し込んで無理やりブラをずらすものだから、中心あたりのワイヤーが肌に擦れて痛い。もう私が抵抗しないものと判断したのか、男の目には余裕の色が浮かんでいた。気持ちが悪い。汚らしい欲望を向ける双眸に言い知れない嫌悪感が浮かぶ。
いやだな。そう思った。いやだないやだな。こんな、下品な人に。思ったけれど、そんな考えを行為中にまで引きずっていてもなんの得もない、言い聞かせるようにそう繰り返して目を閉じる。

別に恐れることでもない。こんなこと。体が何だと言うんだ。愛した人との行為と、そうでない人との行為になんの違いがある。一体、どんな特別な価値があるというのだ。私の体なんかに。
それは全く正しい意見だった。繊細さなど生きていく上でなんの必要もない。
諦めること考えないこと忘れることが一番重要で、今現在の災難なんてその三つさえあれば簡単に過去にできてしまう。大丈夫。私はちゃんと理解している。大丈夫。こんなのすぐに過去にしてみせる。
私は自分の価値がどの程度のものかくらいわかっているから、こんなのなんともない。大丈夫大丈夫。

大丈夫なのに、どうして私はくちびるを噛んでいるのだろう。

「まさおみ……っ」

叫んでいた。小さいけれど、出せる限りの声を喉の奥から振り出して、目をいっぱいに見開いて男と対峙する。
大丈夫じゃなかった。全然、大丈夫なんかじゃない。
下げられた下着が片足に引っかかっている。ベルトに手をかけた男に、私はスカートの中が見えることもかまわず足を上げた。なるべくヒールが顔面に当たるように踵に力を入れて、息を切らしながら何度も何度も蹴りを入れた。泣き声なのかなんなのか、絶えず声にならない音が自分の喉から漏れる。折れた歯を食いしばって体の震えを懸命に止める。
足の筋が切れてもいい。くちびるの怪我が悪化したっていい。こんな男に触れられたくはないし、ましてや犯されるなんて、絶対、絶対にごめんだった。

いつの間に私は愚かで貪欲な生き物になってしまったのだろう。体なんて減るものでもないのだから、お互いのためにくれてやればよかったのに、怪我もさせられずに済んだのに、私は醜く足を振り上げて戦っている。
正臣だ。正臣の手によって、私はいつの間にか価値のあるものになってしまったんだ。自分を大切に思ってしまったんだ。正臣のせいで、私は腱が切れても歯を折られても目をえぐられても、こんな男に犯される訳にはいかなくなってしまっていた。
恐怖よりも強い使命感が体を支配している。汚い豚め、殺してやる。弱々しく筋肉のほとんど見当たらない足を動かしながら、熱くなる頭でそんなことさえ思った。

男の後方で何かがつやりと光ったかと思うと、その光が激しい勢いで男の後頭部に直撃し、口の中に響く嫌な音を立てた。暴漢はなにやらうめき声を発して、コンクリートに突っ伏す。
突然のことに、私は蹴りを繰り出すのをやめてつややかな光をただ見ている。見上げたそれは茶色の一升瓶だった。息を切らした正臣が、月の光を反射する一升瓶を、サヨナラ満塁ホームランを打った後の野球選手と同じ姿勢で構えていた。
正臣はアパートからここまでずっと走っていたのか、ぜいぜいと珍しく呼吸を乱して、見開いた瞳に私を映す。
嬉しかった。さっきまでの恐怖も頬の痛みも転がされたコンクリートの固さも忘れて、ただ嬉しくなった。じりじりと焼けた痛みを放つ頬が勝手に顔をゆがめるので、痛いけれどもつられて笑う。

正臣正臣。 来てくれたんだね。あのね、私すごいことに気がついたよ。正臣ってすごいなあ。私にいろいろなものをくれるんだ。なんだか奇跡みたいだよ。正臣って、すごいんだ。本当。
言いたい言葉はたくさんあった。あったけれど、口が痛くてろくに動かすことができない。

「まひゃおみ、」

「……っ、」

私がそう言うと、なぜか正臣は泣きだしてしまった。瓶を力なく転がして私の前で三角座りの姿勢を取ると、右手を顔の上半分に当てて静かに嗚咽を漏らし始めた。暴漢の薄汚いうめき声なんかとは比べ物にならない程、ガラスのベルみたいに透き通った男の子らしくない声は、私の精一杯の笑顔を消し去って『どうして』の文字を頭に浮かびあがらせる。

暴漢を殺してしまったと思っているのかもしれない。おっちょこちょいの正臣は、そう勘違いして泣いているのかもしれない。それともどこか怪我をしているのかもしれない。いや、私の有り様があまりにひどいから、私の代わりに泣いてくれているのかもしれない。
なんにせよ、正臣が悲しいと私まで悲しくて泣いてしまうから、いつもみたいに笑ってくれたらいいのに、そう思った。同時に正臣を食べてしまいたいくらい愛おしくも思った。

「ひゃかない、でよ。」

「……泣いて、ねえし、」

「らいじょーぶ、らよ。セーフセーフ。まだ、される寸前、だったきゃら。」

せーふせーふ。私は両腕を水平に切って野球の審判の真似をした。正臣と一緒に暮らすようになってテレビの野球を見る機会ができたから、私はアウトもセーフもできるようになっていた。しかし私が覚えたてのセーフを披露したのに、やっぱり正臣は涙を隠してこちらを見てくれない。

「まひゃおみって、にゃみだ、隠すよね。」

「……よく、笑えんな。」

「まひゃおみが泣く、きゃら、私まで、にゃいちゃうと、もう復活、でき、にゃいよ。」

うへへ、なんてらしくない笑い方をして、痛む体を徐々に起こした。急にぼろぼろの自分よりも正臣の方がかわいそうな気がして、頭を撫でてやりたくなったのだ。片手で隠された彼の頭は涙で小刻みに震えていて、やっぱり小さな女の子みたいだった。

「みて、まひゃおみ。」

涙を隠したいだろうに、優しい正臣は僅かに顔を上げ立ちあがった私の方を見てくれる。かわいくってかっこいい、大好きな瞳の形だ。ほんとうに、私はこれが好きなのだ。食べてしまいたいくらい、好きなのだ。

「きひゃない、ね、」

嫌々倒れた男をヒールの先で転がすと、きちんと呼吸も痙攣もしていたから生きていることに間違いはない。死んでくれたらよかったのに。胸の中のどす黒い生き物がそう言った。極めて私は冷静だった。

「たひゅけてくれて、ありがとう、まひゃおみ。こんにゃ、ロリコン、生きてりゅ、価値にゃいもの。だかりゃ、笑ってよ。」

「沙樹が、こんなにされて、なんで笑えんだよ……っ」

「私、たたかった、よ?まひゃおみが、にゃくの、悲しいから、たたかって、ぼろぼろに、にゃったの。」

「……でもやっぱ、辛いじゃん、」

「ひ、ひひひひ。」

「あーもう、らしくない笑い方すんなよ―。痛々しくって余計俺泣いちゃうよ?」

らしくないのはどっちなの。そう思ったけれど、今更湧きだした恐怖と安堵が声を無様に震わせそうだから言わなかった。
彼が三角座りのまま私を見上げて手を伸ばすから、私はふらふらと近づいて、正臣が触れられる位置にそっと膝をかがめる。正臣は私のくちびるにできた傷を熱心になぞって、また泣き出しそうな顔をしている。それを見て、私もなんだか泣きそうに胸が締めあげられている。

ああそうか。私は彼が好きなのだ。何度となく思ってきたことなのに、私は新しい星を見つけたように、初めて彼の名前を呼んだ時のように、そう思った。
私が今日の不幸で見つけた幸運を、彼に教えたらどんな顔をするだろう。
私が私を大切に思えたことを彼のおかげだと話したら、一体どんな風に笑うんだろう。

胸の中が満たされて、私はまた泣きそうになる。目の前の正臣が、しとしととぼやける。鼻先のすれ合う距離でまっすぐ彼に見つめられているのだから、もう私の瞳に危うく乗った水分のことはばれているのかもしれない。
ふふふ。強がって笑った。正臣は笑った拍子にこぼれ落ちた涙の粒を、そっと頬の上で押しつぶした。

まひゃおみの瞳、おしゅきしゃま、みたいね、私がひりひりの頬をゆがめて笑うと、彼の満月の瞳は三日月になって笑う。ハッピーエンドの形を確かめるように、私は彼を抱きしめた。


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -