もう帰りましょーよー、という青葉君の声が、放課後の空き教室のあらゆる場所に跳ね返り、僕の耳に実際以上の大きさとなって響いた。紙のかさかさという音しか聞こえなかった空間に、彼の少し高めの声はとても良く通る。
僕は今まであまり必要以上の会話をしないよう、何かの拍子に視線が合ったりしないよう、背中を丸めてあさっての会議に使う資料を作っていたけれど、明らかに僕へと向けられた言葉を無視するわけにもいかず、だらしなく椅子に座る少年へ視線を向けた。

「押しつけられたも同然なんだし、サボって帰りませんか。」

そう言う青葉君は、先ほどから携帯をいじったり空き教室を眺め回すだけで、僕の手伝いは一度たりともしていない。たった今だって、資料を乗せた机とはかなり距離がある教室の後ろの方で、先生の前では決して見せない、机の上に両足を乗せるだらしない格好で椅子に座っている。
嫌なら帰ればいいのに。むしろ、彼がいない方がもっとのびのびと作業ができたのに。そんな考えを顔には出さず、いつも通りの「帝人先輩」の顔を作る。

「それはできないよ。青葉くん先に帰ってくれて良いよ。」

「どうして。」

「どうしてって、委員長に頼まれたのは僕だし、それに結構時間かかりそうだから。」

本当はもう少しで終わりそうだったけれど、一刻も早くこの場から彼を去らせたい一心でそう言った。締め切った窓の外は橙色に染まり、その奥のあたりは紺色が融和していて、夜が近いことを示していた。校庭を使用する運動部の声もまばらで、じんわりと心が逸り始める。
早く終わらせて帰ろう。まっ暗闇の教室に彼と二人きりなんて、閉塞感でおかしくなってしまう。

「そんなの別に良いじゃないですか。じゃ、俺帰りにアイス奢りますから。」

「だめ。ルールは守らなきゃ。」

自分にしては珍しくはっきりと意見を口に出した。ちょっとでも彼を気遣う素振りを見せたら束の間に青葉君のたくらみに乗せられてしまいそうな気がして、無言の空間の圧迫感を無視しつつあくまで淡々と作業をこなす。
青葉君の返事はない。
教室にはまた紙の音しか響かなくなった。淡々と作ってきたレジメの束を、10冊ごとに冊数を書いた付箋をつけて机の隅に重ねる。こうしておかないと三年生の委員長は文句を言うから、多少の手間ではあるけれど仕方がないのでそうする。
ついに諦めたのか、彼は無言で斜めに腰掛けた椅子を揺すり始めた。ちらと盗み見た拗ねたように幼い横顔が、まだ僕をサボリの共犯者にさせる口説き文句を探しているように見える。青い付箋に30/60と書いた。あと半分で作業は終わる。

「ルールってなんですか。」

苦し紛れに彼がそう言った。まだ諦めていないらしい。サボることで得られるプラスの要素を重ねるのではなく、委員長からの叱責などのマイナス要素をひとつひとつ潰していく作戦のようだ。
ずっと同じ姿勢を保っていたから、ふと動かした腰部がギリリと痛む。イスに座ったままのけぞるように背中を伸ばして筋を解す。

「ルールはルール。わざわざ決められてなくても、モラルある人間は正しいとされることをするべきだよ。」

「先輩が、ルールとかモラルとか、言っちゃうんですね。」

「……青葉くんはどうなの、」

「俺、そういうのよくわからないですし。」

「小さい子じゃないんだから、守らなきゃいけないよ。」

だって俺子供だもん、椅子から立ち上がった彼がそれこそ子供の口調でそう言ったので、不覚にもおかしくなった僕は、ふふっ、と小さく笑い声を漏らした。彼の声には先ほどまでの苛立ちに似たものは含まれてはおらず、どうやらようやく納得をつけたらしい。少しだけ、張りつめていたように重たかった空気が柔らかくなったような気がする。
窓の外はだんだん濃い色合いに染まってきていた。これで彼が手伝ってくれたなら、もっと早くに終わるのに。

「冗談じゃなくって、本当に子供並なんですよ。」

「何かやっちゃいけないことでもしたの?」

「うーん、よくわからないけど、万引きとかは普通にするし、罪悪感は感じませんねえ。」

「……それは、モラルの欠如だね。」

モラルって、なんですかねえ、教室内を所在なさげにぶらぶらと歩いていた青葉君が、唐突に、真剣な悩み事を打ち明けるように低い声を出した。
そんなこと、辞書で引けばいいじゃないか。そう思ったけれど、知能派の青葉君の事だからもっと哲学的な答えを求めている気がして、うーん、とあいまいな声を出す。ホッチキスで資料を綴じながら、邪魔をするなら帰ってほしい、そう思った。付箋に40/60と書きこむ。

資料を分けていると、不意に首のあたりに強い視線を感じ顔を上げる。ぱちん、と音が出そうなほどぴったりとドア付近に立った青葉君と視線がかち合った。
幼い顔つきの少年が、切実とも言える表情で資料のある手元ではなく一心に僕を見ている。無心というよりも、心の中で何かを強く願っているような、喉のあたりまで出かかった言葉をぐっと飲み込んでいるような表情だった。艶やかな髪の毛が仄かな夕日に照らされて輪っか状に光っている。

ふと、透明な違和感にとらわれた。青葉君はこんな男の子だっただろうか。こんな瞳の人間だっただろうか。じっくりと、不躾だと言われても仕方がないほど彼のパーツを観察する。青葉君もひるむことなく視線を合わせている。
確かめようとすればするほど、頭の中の黒沼青葉像がくにゃりと歪んで、正しいであろう形が崩壊し始めた。黒沼青葉という少年の顔が、体が、指の形や首筋の華奢な骨が、思い出せなくなる。

先輩、来良高校の制服を纏った黒沼青葉らしい少年が、僕の事を呼んだ。これは本当に青葉君だろうか。今さっき、僕が付箋に文字を書き込んでいる間に、この少年と青葉君は入れ違いになったのではないだろうか。だからこの見ず知らずの男の子は入口の前に立っているのだ。
僕はしっかりとその少年を見つめたまま返事をしなかった。頭の中で本物の青葉君を思い浮かべようとしたけれど、そのたびに顔や肩や制服を纏った足に水の波紋がかかってうまく思い出せない。

「先輩、」

「……」

「先輩、」

いくらか強く、少年が言った。少年の声を聞いても、まだ彼が青葉君なのかどうか判断がつかず、次第に恐怖が募り始めた。僕は黒沼青葉の形も、声も、空気も、すべてを思い出せないでいる。
背後の窓から入る光が灰色味を帯びていた。少年の猫のように大きな瞳が、僕を通り越してそちらを見ていることが、なぜだかはっきりと分かる。それは何かを確認しているような、機械のように冷めた眼差しだった。背中がそっと冷えていく。

「さ、今日はこれくらいにして帰らないと、本当に夜になっちゃう。」

心の中から溶けていく余裕の、まだ残っているありったけをかき集めてそう言った。ペンケースや資料を鞄に入れる動作が乱暴になってしまったが、構わない。彼とは目を合わせない。目を合わせるのが、どうしてだかたまらなく怖い。先輩、少年が呼んだ。

「青葉くんも帰ろうよ。早く鞄持って、」

「もう少しここにいましょうよ。」

「だめだよ、ほら急いで。」

「まだ話の途中だったじゃないですか。」

「明日にしよう、ね。」

「先輩、」

ドアに背を向けたままの彼をすり抜けるように教室の入口に立った。背後からの明かりはほぼ無いに等しく、四方を閉ざした教室は様々なものが平等に灰色に染められている。早くここから出なければ。祈るように灰色に霞むドアの取っ手に指を掛ける。心臓の音が異常なくらいに大きく、ブレザーを纏った襟首に汗が伝った。
教室の引き戸は微動だにしなかった。レールが錆びているのかもしれない。もう一度、力を込めて取っ手を引く。もう一度、もう一度。冷静さは暗闇に吸い込まれていった。もうどこにも残ってはいない。

「……青葉くっ、」

背後の少年を振り返り声を荒らげる。名前を呼び終わらないうちに、自分の視界に彼がいないことに気がつき、次に後頭部からの強烈な痛みで世界が揺れた。
呻きにもならない呼吸を腹から強く吐き出しながら、顔のそばに見知ったタイルの床があること、その上にイスと机の脚がくっついていること、そして荒い呼吸をする腹部に、男が馬乗りになっていることから、やっと自分が床に倒れているのだと判断できた。なんで。どうして。頭が真っ白になって、声もあげられずまっすぐに男を見る。

先輩、本日何度目かの言葉を繰り返す男は、答えて、そう愉悦に浸りきった声を出し、僕のものより一回り小さいであろう手を驚きや恐怖で上下する僕の汗ばんだ腹部に乗せた。

「話の途中だったでしょう、」

「先輩、」

「モラルってなに?」

獰猛な生物をなだめるように、少年の手は上下に動く。暗闇に慣れた瞳は、僕のマウントポジションをとった黒沼青葉の嬉々とした表情を確かにとらえていた。
モラル。モラルって、どういうことを言うんだっけ。後頭部がひどく痛んで、耳の中が詰まったような感覚を覚えた。僕の中で先ほどまで確かな輪郭を持ったモラルの文字が、じわじわとその形を溶かしだし、腹の上を這う小さな手のひらの動きに従って、やわやわとゲシュタルト崩壊をはじめた。
モラル。モラル。モラル。小さな手が、シャツの上から優しく撫でる。

「先輩、モラルって、なんですか?」

駄目押しのように尋ねる猫のような瞳と、ため息にも似た小さな喜びの嗚咽を暗闇の中から知覚して、僕はやっと、黒沼青葉の形をつかんだ気がした。


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