沙樹が小さな悲鳴を上げて、ぺしゃりと地面に倒れ込んだ。
とっさに彼女の腕へと手を伸ばしたけれど、爪の先が服をかすっただけで細い二の腕を取り逃がしてしまった。地面に投げ出されたエコバッグから熟れた赤いりんごが覗いている。目に痛いくらいの輝く赤。

「あは、つまづいちゃった、」

沙樹はそう言って恥ずかしそうに笑うけれど、つまづいたというより、見えない大きな手が彼女の襟を後ろからつかんで、乱暴に放り出したような妙な転び方だった。踏みしめていた地面が突然崩れたような、膝の力が急に抜けたような、不自然な格好。
まさか。そんなわけ。

「正臣っ、」

りんごが、と沙樹が指さした先に、さっきのりんごがゆったり坂を転がっていた。はじめはゆっくり、どんどんスピードを増して、まっさらなタイルが敷き詰められた坂道を加速する。

「取ってくるよ。」

俺は恐ろしい考えを振り払うように、彼女の返事も聞かないいまま上ってきたばかりの坂を駆け降りる。
急勾配になった長い坂は駅の方までずっと続いていて、放っておけばりんごは加速し続け、そのまま突き当たりのフェンスへと飛び込んでいくだろう。
沙樹の足ほどの大きさのタイルが並べられた下り坂は、つい最近まで新しく工事されていたものだ。そこに溝や割れ目はなく、果物が止まってくれるような隙はない。
りんごは坂道をとんとん跳ねながら横道から車が飛び出してこないか慎重になる俺を置いて全速力で転がっていく。

りんごは蜜が入った少し高価なもので、入院先で食べたものだと沙樹が言った。
甘酸っぱくて食べたいな、沙樹がそう言うから、俺は嫌な頃を思い出させるものなんか絶対彼女の目に触れさせたくなかったけれど、根負けしてひとつだけスーパーのカゴに放り込んだのだ。
それがこんなことになるとは、誰が予想できただろう。真っ赤な性悪め。心の中で悪態吐いて時間は戻らない。

上ってくるのも苦労する坂だが、降りるのもまた骨が折れる。重力に任せて走ると足がもつれるし、ならばとつま先に力を入れると安物のスニーカーにミシリと指が食い込んだ。
数歩先の赤い実を追いながらふいに沙樹が気になって、頭だけで背後を振り返った。ずいぶん遠くの地面にくったり座り込んだ沙樹は、別れた時と同じ姿勢で遠ざかる俺を見ているようだった。真っ白なワンピースが眩しく光を跳ね返し、それ自体が発光しているみたいだ。
転んだときに汚れはしなかっただろうか。ふと、彼女の妙な転び方を思い出す。
本当に、おかしな転び方だったから。

打ち消したはずの嫌な考えが、吐き気を催させる質感を増して再度頭に浮かび上がった。つま先からすべての細い神経へ冷たい空気が流れていく。
沙樹の妙な転び方。足下が崩れたような、膝の力が抜けたような、足が突然言うことを聞かなくなったような。
もしかして。いやそんなわけない。だってもう終わったんだ。
でも、だけど。

「(沙樹の足が。)」

全身に悪寒が駆けていく。全力疾走する体の感覚がざっと冷たくなって、全身がほろほろ溶けていきそうだった。足だけが空回りしてもつれそうになりながらぐんぐん坂を下っていく。走りたいなんて思う隙もないのに、体と心がバラバラになって機能していない。

だからりんごなんて嫌だったんだ。入院していたころの、あんな人生の底の底のような悲しい時のものなんか。それを思い出させるものなんて、なにひとつ沙樹に見せてはいけなかったんだ。りんごくらいなら、甘い考えを持った少し前の自分を殴り殺してやりたい。
嫌な考えを頭から追い出すように、転んでしまうことも車とぶつかることも構わずひたすらりんごを追った。必死で呼吸すればするほど頭は真っ白になって、嫌なことを考える隙がなくなっていく。さあもっと早く駆けろ。喉の熱で呼吸の苦しさで足の痛みで忘れてしまうんだ。

坂は途中で左に折れ、駅へと続く商店街へ入っていく。このまま行けば、りんごは正面のフェンスを通り抜けて、一段低くなった空き地へとダイブするだろう。だから、その前に。
息が苦しい。つま先が突っ張る。酸素を吸っても吐いてものどの奥が冷たい音を立てた。
最後の力を振り絞って、ヒットした球を拾うように腰をかがめて腕を伸ばす。赤い果実は足で蹴りとばしてしまいそうなほど近くにあった。もう少し。指を伸ばせば。あとちょっとでりんごを捕まえられる。
りんごを捕まえたら。沙樹は。

「(沙樹はどうなってしまうんだ?)」

りんごを見た沙樹がまた嫌なことを思い出して立てなくなったらどうしよう。そんな恐怖が手を、思考を、全身を支配して、俺を臆病な生き物にしていた。
網の広いフェンスを通り抜け、そのままのスピードのりんごが空き地へと飛んでいく。確かに掴めそうだった。りんごは手のそばにあった。なのに、俺は拳を握ったまま、それを捕らえることをしなかった。
早く消えてしまえ、もう二度と沙樹の目の前に現れないでくれ。そう思いながら落下するリンゴを睨む。緑の生い茂ったなかに熟れた赤が目に痛く、くそ、誰にともなくそうつぶやいた。くそ。くそ。呼吸を整える時間も待たず急いで坂を引き返す。

ずっと下から見上げた沙樹は、真っ白な小さい点になっていた。こんなに走っただろうか、そう思いながら目眩がするほど長く急な坂を上る。一つ一つのタイルが悪意を持って、一歩踏み出すごとに少しずつ後ろに下がっているのではないか、そう思うほどなかなか距離は縮まらなかった。真上の太陽がジリジリ頭を焼いていく。逃げ水が俺を茶化すように遠ざかる。

白い清潔なスカートを花びらみたいに広げて、沙樹は俺を待っていた。丁度木の陰になった位置からずっとこっちを見ていたに違いない。真新しいタイルの上に座り込んで、息切れして喋れないでいる俺を見上げ、尋ねる。

「りんご落ちちゃった?」

「……ごめん。」

「なんで正臣が謝るの。私が転んだりしたから、私が悪いんだよ。」

それでも、心の中でもう一度謝った。謝らなくては気が済まなかった。罪悪感から真っ直ぐな彼女の目を見ることができず、膝の痛みを堪えるようにしゃがみ込んで顔を伏せる。
沙樹が転んだのもりんごを落としたのも最後に捕まえなかったのも、やっぱり俺のせいなんだ。たぶん、いま沙樹が考えているよりずっとずっと前から、何年も前のあの日から、俺がきっと悪いんだ。
酸欠で思ったように呼吸できないでいる俺の背中を沙樹の白い手がなだめるように撫でていく。ねえ正臣、俺の罪悪感もこみ上げる血の味も膝のつんとした痛みも知らず、まっさらな声で彼女が呼んだ。

「タイルがね、ひとつガタガタなの。」

彼女は自分のスカートを僅かに寄せて、その下から現れたピカピカのタイルを指で押す。彼女の言った通り、それは不意の罠のように半分ほど地面に沈み込んでみせた。

「それで転んじゃったみたい。」

すっくと立ち上がった彼女はテーブルクロスからパン屑を落とすように子気味よくスカートをはたく。沙樹が腰を上げかけた瞬間、俺は思わず声を出してしまいそうになったが、そんな心配をよそにしっかり彼女は地面に立ち上がっていた。
彼女は様々なものが詰まったエコバッグを俺の分まで肩へ掛けると、下の空き地にりんごの木ができちゃうねー、なんて間延びした声を出す。

「蜜入りのりんごができたらさ、ウサギ型に切って、アップルパイ作って、ジャム作って、」

ひとつひとつ、指を折りながら歩き出す。そんなの、何年先の話だよ。シミ一つない真っ白なスカートがはたはた揺れて、まだ呼吸の戻らない俺を振り返った。いつの間にか彼女の指は八まで折られている。

「二人じゃ食べきれないねー。」

緊張の糸がぷつりと切れて思わず吹き出してしまった。本当だ。そんなにたくさん絶対二人で食べきれない。
腹が痛い。また呼吸がおかしくなってしまう。
ほくほくと満足そうにほほえんでいた彼女は、笑いの止まらなくなった俺を不思議な顔で見つめている。それから、ぱっと顔を赤く染めて、非難のこもった眼差しを向けた。

「やだ、正臣ったらひどい。くいしんぼって思ったでしょ!」

思った。その後、本当に沙樹は俺の不安をマジックみたいに消してくれるんだな、って思ったよ。
転んでもタダでは起きない、独り占めする気な沙樹だった。



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