ふいに孤独と目があった。
孤独は夜の闇よりももっと濃い漆黒色をしていたので、そのビロードみたいな表面が、庭にぽっかりと浮かんでいた。激しい雨が降っているというのに、微動だにせず立ちすくんでいる。かわいそうだと思った。一度そう思ってしまうと、俺の頭は他の考えが出来なくなってしまうため、パスタの絡んだフォークを投げ捨てるようにして玄関へ向かう。
なんてひどい雨だろう。こんなにも誰かを悲しませるんだ。

「風邪引いちゃうよー。」

孤独がわずかに顔を上げて、こちらを見た。孤独には目も口も鼻もないのに、俺にははっきりと黒いビロードの固まりが、こちらの姿を確認したことがわかった。まだ二回しか使っていない、エルマーのゾウみたいな柄の傘をさして、サンダル履きのまま近づく。ざざ降りの雨が、敵に攻撃する蜂の群れみたいに傘を叩いた。孤独はすこしおびえた様子である。

「意地悪はしないよー。戴きものだけどアップルパイがあるんだ。一緒に食べよう。買ったばかりの紅茶も準備してるんだ。あったかいから、きっとすぐに心まで暖まるよ。」

それに、おっきくてふわふわしたバスタオルもあるの。君がいいというなら、何かゲームをしようよ。ここには俺たちふたりしかいないけれど、こんなところよりかはだいぶましなはずだから。
言いながら、孤独を怖がらせないよう徐々に近づく。漆黒についた水の粒がはっきり確認できるくらい近づくと、孤独がとても長身な事に気がついた。ルートよりも、頭一つ分高い。顔を見るために頭をあげると、傘が斜め後ろに下がって、水滴が足にかかった。しかし気にすることはない。地面に跳ね返った雨は、もう既に俺のふくらはぎまでしっかり濡らしてくれている。

孤独は俺がひどい人間ではないか、じっと観察している様子だった。そのしっとりとした頭部は、近付いてみてもやはり底の見えない黒色をしていたので、見ているうちにそこに落下していくような気がして、目眩を覚えた。

「何か怖がることがあるの?」

自分の恐怖を打ち消すようにそう言うと、漆黒が迷うように俺の足元を見て、もぞもぞとその頭を動かした。俺もつられて自分の足を見る。なんの変哲もない、水滴を纏った生ちろい足がいつも通りあるだけだ。

「君が家に入らないなら俺もここにいるよ。だって一人っていやだよね。俺も、一人は大嫌い。それにこんな雨だもん、余計に気が滅入って泣きだしたくなっちゃうよ。君は、あ、名前がわからないから君って言うね、君は、悲しくって寂しくって一人が嫌で泣いちゃったことはあるかなあ。心がね、ぐーって、クッキーの生地を伸ばすみたいに、ぐーって、押しつぶされちゃう感じ。あるかなあ。どうだろう。あは、答えてくれないのかあ。秘密ってことね。秘密もまた寂しいね。なんか、心がぎゅーって、バターの少ないクッキーの生地を伸ばすみたいに、ぎゅーって、押しつぶされちゃうね。」

孤独はなんにも答えてくれなかった。頷くことも、かぶりを振ることも、してはくれなかった。けれども目の前の黒色は、一心に俺の話に聞き入っている様子で、なんだか賢い犬のように、俺の方をしっかり見ている。
ぽろぽろ。ビロードの上を雨水が滑る。モノクロ映画の女優さんの涙みたい。

「うふふ、俺は別に気にしてないよ、君が頷いてくれようとくれまいと、特に関係ないんだ。俺ってね、おかしいくらいおしゃべりだから、かわいい女の子のマネキンにだって、一晩中恋についてだとか、どこのパスタが一番おいしいかだとか、呆れちゃうくらいずっと話してられるんだ。ルートはね、そんな俺を見て、おでこのあたりに手をやって、どうしようもない奴だなって振りをするの。これがねー、なかなかいいんだ。こんな風に右手をやんわり丸めて、その親指と人差し指と中指だけおでこに当てて、目を軽く閉じるの。なんか、初恋に悩む数学者か哲学者みたいでさ、そういうのが、いいんだよね。ああ、わっかんないかなー。うーん、すごく見せてあげたい。写真もないしなー。ルート、来ないかなあ。」

言いながら、ルートはきっとうちに来ないだろう、と思った。だってそうじゃないか。雨はだんだん強くなる一方だし、第一彼からは今日の約束を取り消す電話が来たじゃないか。お菓子だって、新しい紅茶だって、カードゲームだって用意していたのに、今日ルートは来ないのかって、バスルームで泣いたじゃないか。
ぐっと胸が熱くなって、涙がこみ上げた。雨の日って、どうしてこんなに涙を誘うんだろう。不安だからだろうか。激しく降り続く雨が、自分の命を脅かすのではないかと、怖くなるからだろうか。
孤独はやっぱり黙っていた。傘の下の俺を見て、静まり返っている。可哀想な孤独。雨に濡れて、一人ぼっちで、誰にもかまってもらえない、可哀想な孤独。

「(なんだかそれって俺みたい。)」

「(それなら俺は、一生この子と一緒にいよう。)」

「(そうすれば、寂しいことも、怖いことも、なくなる。)」

「(うん、なくなるんだ。)」

きっとなくなるよ、自分に納得させるように繰り返した。濡れそぼった孤独を傘の中に入れようと、腕を伸ばしてつま先立ちになる。赤や黄色のモザイクになった傘は孤独の黒にまったく似合っておらず、アバンギャルドでハイセンスな広告のようにも見えて、この黒い布地の中にはものすごくスタイルのいい金髪のモデルさんが入っているのではないか、という気になった。
孤独は思ったよりも幅が広く、ふたりで傘に入ると俺の肩が噴水に飛び込んだように一気に濡れた。構わない。俺はこの子と友達になるのだから、そんなことで損しただの得しただの思ってはいけない。
そうなんだ。俺はこんな風になかなか優しいし、そこそこ男前だし、なんてったって、四六時中テレビみたいにしゃべっているから、孤独を寂しい気持ちになんてさせない。孤独も、きっと気に入ってくれるはずだ。俺も、ずっとこの子が一緒にいてくれたら、寂しい気持ちになんて絶対にならないだろう。孤独は孤独だけれど、たぶんそこらへんの孤独とちがう、ちょっと変わった孤独なんだ。いい奴なんだ。きっと、死ぬまで一緒にいるよ。

「……どうしてついて来ないの?」

孤独は動いた傘については来ず、先ほどと同じ位置で同じように雨に打たれていた。打ち付ける雨が激しくて、孤独の肩やら頭のてっぺんやらに、銀色に見える膜ができている。

「どうしたの?風邪ひいちゃうよ。家に入ってさ、ゲームしようよ、お菓子も出すし、あ、パスタ出しっぱなしにしてきちゃった。早くおいでよ、ね。」

「寂しがり屋は食べられちゃうよ。」

孤独がひどく早口に言った言葉は、傘を攻撃するようにたたく雨の音がうるさくて、曖昧な音にしか聞こえなかった。孤独は急に布の下から真っ黒い手を伸ばし、少し離れた俺を強く突き倒す。突然の事に驚いて、動けなかった。転がされるまま転がされて、池のような水溜りの上に、映画の中のチンピラみたいに仰向けになる。

まるで何が起きたかわからなかった。
孤独に襲われたんだと理解したとたんに怖くなって、急いで顔を上げる。庭を包む夜の色を、探るように見渡した。夜だから当り前のように暗い。ハッとしたように振り返って背後を確認する。上を見る。木の影を見る。
夜より濃い塊は、どこにもなくなっていた。

しばらく呆然として、雨に濡れることも気にせず、水溜りの上に座り込んでいた。ふと、右手に握っていた傘がどこにも落ちていないことに気がつき、暗闇を力なく見回す。あの派手な色合いは、暗闇の中の漆黒を探すよりはるかに簡単に見つけ出せそうなのに、雨が跳ね返って白く見える地面のどこにも落ちてはいない。

「もってっちゃったのかなあ。」

そんな傘なんかより、俺の方が絶対役に立つし、何より楽しいのに。連れてってくれたらよかったのに。そう思ったけれど、「寂しがり屋は食べられちゃうよ」という孤独の声が、耳の中を嫌に揺らすので、不意に恐怖がこみ上げて身震いした。
尻餅をついた姿勢からようやく立ち上がり、Tシャツから水を絞り出す。それは雑巾のようにたっぷりと生温かい水を含んでいた。前髪から伝った水が口に入る。気持ち悪い。犬のように体を震わせて水しぶきを飛ばしたけれど、この大雨では意味がない。

あーあ、本当に、寂しいのは大嫌いなのに。星一つ見えない夜空を見上げてそう呟き、シャワーを浴びるべく暗い庭に背を向ける。部屋からともる橙色の明かりが、なんともあったかく見えた。

「孤独も手いっぱいだなんて、人間は寂しい生き物なんだよね。ふふっ!」



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