私の星は海王星の近く、すべてが水に包まれたところでした。
地球から飛ばされた可愛らしい惑星探査機なんかじゃわからない、ごちゃごちゃした隕石なんかが絶えず行き交う場所なので、誰にも発見されず透き通った魚と戯れたり、光の届かない水底でお昼寝をしたり、なんとも楽しく生きていたのでした。
そこはとてもうつくしい場所でした。水は、生命の源とも言われていますし、それがそこにあるというだけで、その星はうつくしいのです。恵まれているのです。幸福なのです。
だから私は、呼吸を止めることが大の得意技なのでした。もちろん水泳も得意です。数多ある色の中で、一番水色が好きです。髪に結わえたこの青色のリボンも、なにより大好きなのです。

「(だから、こんなに胸が苦しくても平気なのです。呼吸を止めることは、なによりの得意技だから。)」

お兄様は決して長身とは言えない体に、その二倍近い大きさの銃を引っ掛けて、旅の支度をしている。私からはその寂しげな後ろ姿しか見えないから、実際にお兄様が寂しい表情をしているのかも、悲しみを紛らわす様なやさしい微笑みを浮かべているのかも、何一つわからない。ただただ、その背中がやんわりぼやけて見えるだけだった。呼吸をするたび、喉を通る空気に棘が混じったように扁桃腺が痛む。ならば呼吸をやめてしまえばいいじゃないか。私の、得意技でしょう。

リヒテン、お兄様がそう呼んで、にわかに振り返った。呼吸をすることをやめた私は、無言のまま顎をわずかに上げることで、その呼びかけに応える。
こちらを向いたお兄様が手に持った、古いものではあるけれどよく手入れのされた革のブーツが、私は嫌い。お兄様は傭兵の仕事から帰ってくると、一息つかぬうちにそのブーツを丁寧に磨きあげるけれど、その都度私はその靴を焼き払いたくなる。さもなくば、お兄様が磨いてしまうその前に、物置の奥の方へ投げいれてしまいたい衝動に駆られる。
こんな忌々しいものをいつまでも捨ててしまえないから、お兄様は戦場に囚われてしまうのだ。体も魂も誰かの想いも、そぎ取るように擦り減らす戦場に、両足をつかまれてしまうのだ。こんなもの、いらない。大嫌い。お兄様を傷つけるものは、すべて、なんだって、いらない。

ふと、故郷の柔らかい水たちを思い出した。あそこではこんな靴など必要なかったからだろう。上も下もわからない程水に支配された星は、しっかりと踏みしめる地面など、海底にしか広がっていない。争うべき相手も、携えるべき武器も、流すべき涙も、なかった。
不意に開いたくちびるから、消費しきった酸素の欠片がこぼれおちた。ハッとして噛むように口を閉ざす。呼吸をしてはいけない。これ以上肺が、喉が、胸が痛くなってはかなわない。喉の奥が何かに締められたように狭まった。

「それでは、行ってくる。」

「……」

「戸締り、火の元には重々注意をするのである。」

「……」

時間をかけて、頷いた。少しでも、ほんの少しでも、お兄様をここにとどめておきたい。いっそ、ギリギリまでここにいて、地獄行きの列車に乗り遅れてしまえばいいとさえ思った。私は強固な意志を持って後ろで手を組む。一瞬でもいい。時間を稼ぎたい。喉が熱くなる。私はお兄様に心配をかけないよう、笑顔を作って呼吸をやめる。

「それから、買い物の時に言い寄ってくる男には注意するのだぞ。」

「……」

「ああ、そうだ、」

お兄様は緑の軍服のポケットに手を入れて、中を探った。彼は戦場に赴く前、決まって値打ちのある銀の時計を私に渡して行く。戦場で自分の身に何かあったとき、私の生活が苦しくないように値打ちもののそれを置いていくのだ。不幸を連想させるそれが、あのブーツ以上に私は嫌いで、お兄様がそれを差し出す素振りを見せると、冷や汗が背中を伝った。もっと酸素を捨てなければ。お腹に力を入れて肺の僅かな空気も絞り出す。

「(こんなもの、いらないのに。)」

だってそうでしょうだってお兄様は帰ってきてくださるのでしょう私は一人になんかならないのでしょう。
そうでしょう?
差し出された逞しい手のひらに乗った銀時計に、思わずつばを飲み込んだ。喉が、焼けるように痛い。さっきからなんだかおかしい。呼吸をいくら止めても、喉の痛みが治まらない。そんなはずはない。肺の中に酸素があるからいけないのだ。慣れない酸素が、内側から私の体を焼いているに違いない。

「リヒテン、顔色が悪いぞ。」

「……」

「おい!」

頭がくらくらして、お兄様の顔が擦りガラスを通して見たように歪んでいる。早く、時計を、掴まなくては、お兄様に、心配を、かけてしまう。そう思うのに、指先が冷たく凍りついたように、言うことを聞かない。
深海に落ちていくように、耳が詰まってどこからか湧きだした黒色が迫る。こんなの、慣れっこでしょうに。慣れているはずなのだ。だって私は何度も何度も深海に潜ったことがあるのだから。気圧の変化なんか、落ちるように迫ってくる紺色なんか、とうに慣れきっているはずだ。だって、私の星は海王星の近く、すべてが水に包まれたところ、私は、こきゅうを止めることが大のとくいわざ、みずいろがだいすきでかみにゆわえたあおいりぼんが……。



重い液体から浮上した様な気分。
指やら足やら後頭部の感覚がなくなっていた。見知った天井が目の前にある。水に満たされてはいないから、ここは私の星ではなく、お兄様のお家だということが、覚醒しきっていない頭でも理解でき、いっそうのことすべてが夢ならよかったのに、そっと絶望したように思った。
あの後、どうやら私は気を失ったらしい。なんて無様な。私は自分自身を恥じて、今すぐに消えてしまいたくなった。
リヒテン、お兄様のそう呼ぶ声が、窓の外からの問いかけのように、ずいぶんと遠くから聞こえる。ああお兄様、懸命に喉を動かしたけれど、その声はあまりにも弱すぎた。

「リヒテン、無理はするな。」

「……お兄様、わたくしは、私はなんて……」

「黙って、寝ておくのだ。今水を持ってきた。」

私を気遣うお兄様は、お兄様の方が何かひどい病気を患っているのではないかと心配してしまうほど、青白い顔をしていた。手渡された水は、飲むときにこぼしたり驚いてしまわないよう、グラスの半分ほどしか入っておらず、温度も常温にされていた。お兄様に気を遣わせてしまったと思うと、それだけで私は生きている価値を失ったような気がして、小さく小さくしぼんで、消滅してしまいたくなる。
そっと、受け取ったグラスを口元に近付ける。透明なグラスの中の透明な水は、なんだかとても優しい生き物のように揺らいだ。そのうつくしさが悲しくて、ほろほろと涙が出た。

「リヒテン、なぜ泣くのだ。どこか具合が悪いのか?」

「いいえ、違います。わたくし、は、水泳と、呼吸を止めるのが、得意なのです。」

「それが、どうかしたのか?肺が悪いのか?」

「いいえ、いいえ。私は、海王星の、ちかくの、星に、」

「なんてひどい声なんだ!喉か?喉が痛いのか?」

「魚と、戯れたり、み、みずいろが、すきっ、で…」

「無理にしゃべるでないっ、余計に悪化するのである!」

頬の生温い液体が、固くて少々乱暴な指に押しつぶされてそっと消滅したけれど、後から後からこぼれ落ちてくる滴は、お兄様の指をすり抜けていくつか私のくちびるに入っていった。かち合ったお兄様の瞳にも、柔らかい水が浮かんでいる。
お兄様が泣いている。そう思うと一層涙が止まらなくなって、緩んだ蛇口のように涙が頬に線を作った。塩の味がする。海の味のようだと人は言うけれど、私はそれが真実か知らない。

だって私は海に行ったことがない。泳いだことも、肺に空気を溜めこんで深く潜ったことも、ましてや魚と遊んだことなんて、あるわけがない。あるわけ、ないんだから。

「(お兄様お兄様、嘘です。すべてすべて嘘なのです。私は地球に生まれた、切手とチーズがすきな平凡な女の子です。お兄様の妹の、リヒテンシュタインです。水色が好きです。髪に結わえたこの青色のリボンも大好きです。)」

お兄様が悲しいと、私まで悲しくなって呼吸ができなくなってしまうのです。口には出さず、ただほろほろと泣いた。お兄様はきっともう列車に間に合わないだろう。生活は一層苦しくなるだろう。食べるものすら無い日がきっと幾日もあるだろう。それでも、どうか、お兄様には魂を削って生きてほしくはなかった。

「お兄様がお可哀想で、私は呼吸をすることも辛いのです。」

息も絶え絶えにそう言った。涙のせいか、喉が熱くて肺に酸素が足りない。それならば簡単だ。酸素をたくさん吸い込めばいい。私は肺いっぱいに、荒く激しく嗚咽のような呼吸を繰り返す。
そうだこんなに簡単なことなのだ。

頭の隅の宇宙で、小さな星が一度瞬いてから、消滅した。水に包まれた、真空の、青くうつくしい星が。



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