「おまえの国にも雪が降るんだな。」

女の声に気がついて、私はにわかに振り返る。はっと吸い込んだ空気は、全くその冷たさを衰えさせることなく私の喉に突き刺さった。
振り向いた先に、私の羽織りをワンピースの上からひっかけたナターリヤさんが立っている。髪や服や肌の色が白い彼女は、純白の雪景色に身を隠すように半分溶け込んでいたが、頭の上の黒いリボンが雪上の彼女の存在を示していた。彼女はいつもの仏頂面をぎゅっとしかめてこちらへ歩み寄る。

「ここがこんなに寒いところだとは思わなかった。」

「寒さに慣れたあなたでも、流石に何かを羽織らないと凍えてしまうでしょう。」

ナターリヤさんはじっと、不躾ともいえる瞳で私を見ていたけれど、しばらくしてから視線を外し、周囲の降り積もった雪のすべてを観察するように、ゆっくりと体を一周させた。私も彼女に倣って、雪と空の境界を見つけだそうと遠くに視線を澄ませてみたが、低い空の灰色と遠くの雪の灰色が混ざって、どこからが空でどこからが雪かわからなかった。
寒さのせいで指先が痛い。何度か息を吹きかけてみるが、吐息が当たったほんの少しの間暖かさを感じるだけで、凍りついた指先をほぐすほどの効果はない。指先から視線を上げて、ちらとナターリヤさんを見る。彼女はいつもはめている黒い薄手の手袋をしていない。家に忘れてきたのか、真夏の溶けてしまいそうな日でも生真面目に隠し通してきた両手があらわになっている。白く華奢な指先が、今にも凍ってばりんと割れてしまいそうだ。

「こんなに寒いところだとは思わなかったんだ。」

「あなたの所に比べたらまだまだですが、うちも冬はこれくらい寒くなるんですよ。」

「寒いのは嫌いだ。」

「ええ。」

「雪は嫌いだ。」

ナターリヤさんは言葉の力で攻撃するように、強くそう言い放った。瞳も、その眼差しの強さで何かを呪い殺そうとしているように、辺り一面の雪を見つめて決して揺るがない、ごうごうと強い怒りに燃えた瞳だった。私はそれらがすべて自分に向けられたものでもないのに、僅かに心が冷えだして、穏やかな気持ちではいられなくなった。彼女の傷の鱗片を見てしまったからかもしれない。ナターリヤさんのくちびるは、血液を塗りたくったように真っ赤になっている。

「雪はお嫌いですか。」

「嫌いだ。すべてなくなってしまえばいい。」

「では、溶かしてしまいましょうか。」

焼き払いましょう。私は袂をまさぐって、頂いたジッポーのライターを探し出した。ライターなどあまり使う機会が無いのだが、今朝仏壇の蝋燭に火をつけるマッチがなくなってしまったので、このライターで代用したのだ。
慣れない手つきで銀の蓋を開ける。冷気にゆらゆら揺れる炎は、大きく、赤く、力強い。昔から言われていることだが、火には特別強い力が宿っているのだ。
いいんですか、しゃがみこんで雪に炎を近づけながら、立ち尽くしている女を見上げた。女は黙り込んでいる。かち合った瞳を背けることもせず、口を真一文字に結んで、時々真っ直ぐに伸びた長いまつげを瞬せるだけだった。何かの感情を必死で食い止めるように、体の横で両手を握りしめて、不機嫌そうな表情を保ったまま立ち尽くしている。
ぴゅうと寒々しい音を立てて風が通り過ぎた。露わになった彼女の耳もまた、くちびるのように深紅色をしている。
返事を待たず、私はそろそろと炎を雪に近づけた。逆さまのジッポーから長く伸びる赤色は、雪の塊に近づくとその冷気に沿うように形を変えた。

「いいんですか、」

「……いい。」

「本当に?」

火で雪を炙るようにライターを接近させる。風もないのにゆらりと揺れる炎を、溶け始めた雪の水分が反射して、赤い光が雪の上に映し出された。しゃがんだ裾からじりじりと痛む冷気が入り込む。老体には結構堪えるのだが、それでも不思議と疎ましい気にはならず、私はここにあるすべての雪を溶かしてやる気持ちで、その場にしゃがんでいた。
雪は徐々に水へと変化して、私の足元を流れて行く。ナターリヤさんと並んで雪が溶けていく様を見るために、雪の上にライターを直立するように埋めた。ナターリヤさんは見ているだろうか。振り返って、仁王立ちをした彼女を確認する。

「……いやだ……もういいやめて。」

「どうかしたんですか、」

「火は嫌いだ、やめて、早く消してったら!」

「あんなに嫌がったじゃないですか。寒いのは嫌い。雪はいや。なんてあなたにしては珍しく。」

そっと立ち上がり、自分より少し背の低い女を見る。女はやはり不機嫌そうな表情を浮かべたまま、口をしっかりと閉じていた。目の前に立った私から体をそらし、炎だけを警戒するようにじっくり見ている。風で乱れた髪が、狭い肩に引っかかった羽織の上に広がっていて、撫でつけてやろうかと思ったけれど、触れた途端にひっぱたかれる自分を想像し、肩のあたりまで持ち上げた手を下す。青白い肌に乗った真っ赤なくちびるが痛々しい。見つめていると、それが本物の血液のようにも見えてきた。そっと触れて確かめたくなったが、やはりそうすることもなかった。

「雪がお嫌いではなかったのですか?」

「……」

「……泣かないでくださいよ。」

「……」

「……そこは泣いてないって強がってくれないと萌えません。」

「……泣いてない。」

「素直はよいことです。」

そっと腕を伸ばし、彼女の背中に回す。恐れていた抵抗は全くなかった。やましい気持ちがないことを彼女も感じ取ったのかもしれないし、ただただ、何かに疲れきって抵抗するのも苦痛なだけなのかもしれない。緊張はしない。胸が高鳴ったり頬が熱くなるような感覚もなかった。ナターリヤさんを愛おしく思うけれど、それは遠い昔に経験した恋というものとは少し似ていて少し違っていた。
鼻先に彼女の黒いリボンがある。それは彼女の体から溢れる冷えきったエネルギーを放出するように、弱々しく震えている。
本田、本田、赤いくちびるが言葉を紡ぎ、私は努めて優しい声で、はい、とだけ答えた。

「雪は嫌いだ。」

「ええ、」

「寒いのも嫌いだ。」

「はい、」

胸の間から無遠慮に伸びてきた手が、私の肩をしっかと掴む。華奢で小さい手なのに、案外力が強い。風が彼女の銀色の髪を吹き上げたので、今度こそ私は彼女の頭に手をやって、髪が乱れるのを防いだ。

「それでも、私は雪と生きてきたんだ。」

「……ええ、」

「そうやって生きていくしかないんだ。」

小さな体が内の熱を冷ますように長い息を吐いた。私も同じく肺の空気をすべて、時間をかけて吐き出した。長く吐き出した吐息は、白く染まってすぐさま背景の白にとけ込んでしまう。
ふと振り返り、ライターを刺した雪の上を見たが、雪がライターの周りから溶けていったらしく、バランスが取れなくなった銀の塊は、雪解け水の中で沈黙していた。ナターリヤさんはそれに歩み寄ると、取り出した銀の塊を一度眺めてから、躊躇なく遠くの空に放り投げた。小さな輝きは自らの力で飛ぶようにまっすぐ天に向かったが、それから見えなくなってしまったので、どこに落ちたか見当が付かない。
雲が厚く、空が低い。夜が近いのか、濃くなりつつある灰色の空と雪の境界が、今度こそはっきりとわかった。
1月の空気は鉄のように冷え切って、私達を取り巻いている。



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