私の国は寒いのだ。恐ろしいほど、寒いのだ。
夜など薄い外套一枚で外に出ようものなら、すぐさま首やら裾やら身頃の隙間から痛いほど冷たい風が入り込み、最悪数時間で凍死してしまう。もとからその地に住んではいない生物をことごとく拒絶するような、まるで人間など生きていけないほどの寒さなのだ。それでも、人間はしぶとく家を建て暖炉を作り生きているのが。

「(それは私も同じこと。)」

目の前のドアを前にそう思う。真鍮製のドアノブは、視覚でわかるほどの冴えた冷気を放ち、触れる者を拒むように佇んでいる。ほう、何かを和らげるように吐き出した空気は、白く漂って霧散した。一応のことここは屋敷の中なのだが、古い屋敷の廊下に暖房器具の取り付けは難しく、煉瓦造りであっても外からの寒気は防げるものではなかった。風と雪が吹き込んでこないだけましな、恐ろしいほど寒い廊下。このドアの向こう側には暖炉も毛布もココアもあるのに、なんて差だろう。このままでは凍死してしまうに違いない。

「兄さん、帰ってきました、ナターリヤです、」

頑丈な扉を叩く手のひらはすっかり凍りついて、人間らしい肉の感覚がしなかった。扉も同じように凍りついてしまったのか、何度叩いてもびくともしない。凍ってしまったのなら溶かしてしまえばいい。兄さんが、その向こうにある暖炉の火を扉に放ってくれたなら、あっという間のことなのだ。あっという間のことなのに、兄さんはその間すら与えてくれない。

「兄さん、私です。ナターリヤです。兄さんが心配で帰ってきたのです。ここはとっても凍えるの。早く早く、」

早く開けてよ兄さん、廊下の薄暗い角やら壁やらに、何度もそんな声が跳ね返り、膨張しては消えていった。しかしドアはびくともしない。内側からの気配はあるのに、一向に暖かい空気は流れてこない。
すっかりガラスのようになってしまった両手に、気休めで息を吹きかける。こんな、たった一枚のドアを隔てているだけなのに、どうしてこんなに温度差ができるんだろう。

「(開け、開け開け開け。)」

指がつぶれてもかまわない、そんな調子でドアを叩いた。寒い。寒い寒い。寒いのは嫌い。寒いのは怖い。兄さんどうかドアを開けて。祈りながら腕を強く振るってドアを叩く。肉を打ち付ける不快な音が、廊下をずっと走っていく。

「兄さん、開けてください!外はとても寒いのです、兄さん、お願い開けて、開けて開けて開けて!」

爪が手のひらに食い込んだ。その乱暴な動きはもうノックとは言えない。何度も何度も扉を殴る。殴るのだ。
次第に食い込んだ爪の痛みすら感じられず、握った拳にも力が入らなくなった。荒い呼吸を繰り返していると体までぽかぽかと暖かくなってきて、もしかしたら兄さんがドアの内側から火を放ってくれたのかもしれない、そう思った。
ドアへの攻撃をやめ、絨毯の敷かれた床に力なく座り込む。もうすぐだ。もうすぐ、この冷たい扉が焼け落ちる。その向こうには兄さんが立っていて、暖かい暖炉も毛布もココアもあるのだ。頑固で冷徹なドアなど、一刻も早く灰になってしまえ。私は赤く腫れ上がった右手を撫でながら、炎が漏れてこないかドアの線のような隙間を、胸を高鳴らせてしっかり見つめていた。

次第に汗も引いて、今度こそ死を感じさせる寒さがあたりを漂い始めた。くちびるがほろほろと震え、指先を暖めようにも口からでるのは透明な吐息ばかり。

「にいさん、とびらを焼いてくれたのでは、ないのですか、」

老婆のようにしゃがれた声がでる。倒れ込むようにドアへもたれかかり、中から何か物音が聞こえないか耳を澄ませた。目を閉じて、見えないドアの内側を思う。廊下の黒い静寂がドアにつけていない方の耳を満たし、反対の耳の澄ました神経が男の気配をとらえる。

「おねがい、おねがい、」

室内からは兄さん一人の声しかしないから、恐らく独り言だろう。ひどく切羽詰まった声と、落ち着きなく何かをいじるカチャカチャという音がする。おねがい、とは、何か私に関係があるのだろうか、そうだとしたらたとえほんの些細なことでも、たまらなく嬉しい。凍てつく空気も忘れてくちびるを歪めると、ちりりと痛みをあげてくちびるが切れた。まだ痛みを感じるらしいから、なに、死ぬことはない。

「おねがいアントーニョくん、出て、」

しばらく規則的な音が続き、今度はまた別のガチャリという冷たい音がする。聞き覚えのあるそれは、兄さんの部屋の受話器を置く音だった。

「だめ……、菊君もだめ……フェリシアーノ君もだめ、ギルベルト君も……。次、次を探さなきゃ……」

兄さんの声にはガチガチという歯の震える音が混ざっている。兄さん、どうかしたのですか、私は声を振り絞ったけれど、弱々しいそれはドアの向こうの電話を回す音にすんなりかき消されてしまう。

「……あ!アルフレッドくん!僕だよ!おねがいがあるんだ、絶対電話は切らないで!」

兄さんがアルフレッドという名を口にした瞬間、私は力なく垂らしていた頭をぱっと持ち上げた。冷え切った扉についていた頬が、引き剥がされてじりじりと痛んだがかまってられない。
兄さん!どうしたの!その男を頼ってはだめ!早くドアを開けて!やわやわと口元だけが言葉の形に動く。私は自分の存在を知らせるために、振り絞った力で扉を引っ掻いたが、頑丈なドアは音さえも上げない。

「そう、ここはとても冷えるんだ、ヴァルガス兄弟にも菊君にもアントーニョ君にもルート君にもギルベルト君にもトーリスたちにもずっと電話してたんだけど、だれも出てくれなくて。暖炉も煙が出るばかりで使えないんだ、だから何か、暖まるものを送ってほしい。」

そうか!この扉の向こうも凍えるように寒いのか!だから兄さんはこんなにも辛そうなのだ。兄さん!気づいてください!私です、ナターリヤです!私はお金を持っているのです。南へ行く二人分のチケットは買えませんが、暖炉の修理にも足りませんが、新しいストーブさえ買えませんが、ふわふわした毛布と暖かなスープくらいなら、たくさん買うことができるでしょう。私は毛布もスープもいりません。この扉の向こう側へ、兄さんのお側へ行けるなら、それだけでもう十分なのです。

「え?お金がたくさんあったって?うん、確かにあったんだ、ついさっきまでは、」

兄さん、兄さん、聞いてください、開けて、開けて開けて!そんな男と関わってはだめ!早く気づいてください私はここに、飛行場から戻ってきたナターリヤはここに!

「うん、お金はね、ナターリヤを南にやるのに全部使っちゃったんだ。あの子はとっても寒がりだから。」

我が耳を疑った。
扉を引っ掻く動きが止まる。そして崩れ落ちた上半身の、ポケットから覗く白い紙に視線を滑らせて、頭の血管が鼓動と同じ速度で痛み出すのを感じた。急に、ひび割れたくちびるが血液を噴き出したように高熱を放ちはじめる。

ああなんて、

「あ、まって、切らないでアルフレッドくん!ねぇ、ねぇ!」


ああなんて凍り付いた悲劇なんだろう。



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