教室に、杏里ちゃんがいた。

「居残り?」

私の声は閉め切られた教室の中に大きく響いて、下を向いて何かを一生懸命目で追っていた杏里ちゃんはびくりと肩を跳ねさせる。はっと顔を上げた彼女の瞳は驚きと緊張の色を湛えて警戒するようにこちらを見たけれど、私の姿を確認するとすぐに張りつめたものが緩んでいつもの優しい瞳の色に変わる。

「ごめんね、驚かせちゃったみたい。」

「いえ、こちらこそ、集中していて気がつかなくて……。」

杏里ちゃんは微笑んで膝の上に乗せた紙にそっと視線を落とした。つられて、私も同じように視線を下げる。半分に畳まれ教科書くらいの大きさになった紙には、何本もの繊細な直線と黒い音楽記号がならんでいて、窓から入るオレンジの西日が白い表面に反射している。
見覚えのある楽譜だった。五線譜を少しだけ目で追うと、中学校の卒業式にピアノを弾いた合唱曲だということを思い出した。合唱用のものだからピアノ用の楽譜に比べて簡素に見えたけれど、なかなか気に入っていた曲なので私はすぐに伴奏を頭の中で流すことができる。

三年生の卒業式ね、私が言うと、彼女はわずかに目を伏せて、音痴なので練習しようと思って、と答えた。そういえば杏里ちゃんは中学の卒業式の合唱練習も音楽の歌唱テストも放課後ひとりで受けていたから、本当に歌うことが苦手なのだろう。

「(昔は逃げていたのに今は逃げないのね。)」

美香さんはどうしたんですか、杏里ちゃんに尋ねられて私は自分の用事を思いだした。明日提出の課題を誠二と一緒にやる約束をしたのに、うっかり机の中に置き忘れてしまったのだ。
あわてて自分の机から課題のプリントを探し出し、鞄に収める。杏里ちゃんはその間、こちらを見たり楽譜とにらめっこするばかりでくちびるを動かして歌うことはしなかった。よほど歌声に自信が無いらしい。

「杏里ちゃん声きれいだし、練習したらきっとすごく綺麗に歌えると思うよ!」

「いえ、そんな……。本当に、人に聞かせるものではないくらい下手なので……。」

「でもえらい!苦手なことを努力して克服しようだなんて、うん、とってもえらいな!」

「いえ……。竜ヶ峰くんや紀田くんを見ていたら、逃げてばっかりの自分が恥ずかしくなったんです。」

そう言って杏里ちゃんはここにいないその二人を思い浮かべたように、尊敬するような、慈しむような瞳を楽譜に向けた。私は途端に劣情で視界が曇り、こんな話を振るんじゃなかったと強く悔やんで奥歯を噛みつぶす。
なんで、私のときはそうじゃなかったのに。そんな言葉が頭の中で危険信号のように赤く点滅する。

「竜ヶ峰くんと紀田くんは、本当に私によくしてくれます。私だけじゃなくて、いろんな人に優しく、真っ直ぐに向き合える人なんです。」

「……」

「辛いことにだって決して逃げ出したりしないお二人の真っ直ぐさに、私もそういう人間になりたいと思えたんです。」

極めて優しい彼女の声音に、感情を逆撫でされたようにイライラが募った。
なに。なにそれ。なんなの一体。
去年の、まだあの二人に会う前の彼女はこんな目をしなかったのに。彼女は自分に向けられた悪意も越えがたい大きな困難も、みんなみんなその黒い瞳を逸らすことで通り過ぎてきたのに。

「(なんだって、私が解決してきてあげたんだから。)」

そんなきらきらした目で私以外の人間を思わないでよ。私以外に諭されないでよ。私から、逃げていかないでよ。
過去の自分を捨て、困難を乗り越えていこうという輝きに満ちた彼女を、親友ならば喜ぶべきなのに、私はどうしようもなく身勝手にイライラした。そうだ喜ぶべきなんだ。親友なのなら。

「紀田くんって、よく知らないけどあんまりいい噂聞かないよ。」

「え?」

「ヤクザみたいな人と知り合いだとか、高校行ってない彼女がいるとか。」

真っ黒な瞳で私を見上げていた杏里ちゃんは、眼鏡の向こうの大きな瞳を一層大きくさせて、そして何かから逃れるように目を伏せた。言葉を発しようとくちびるを開いては、しかし空しく空気を吸い込んで、あきらめたように再びきゅうっと閉じる。否定したいけれどできないのだろう。彼女が尊敬するという紀田正臣という男子について、杏里ちゃんがその上辺の僅かな部分しか知らないことを、私は知っていた。

わがままな感情はさらに暴走する。彼女を苛む言葉は次々に湧いて出た。

「竜ヶ峰くんだってね、地元では怖いことしてたみたいだよー。」

「……」

「同じ学年の子の自殺に関わっていたとか、だからわざわざこっちの学校に来たとか。」

嘘を並び立てることにも躊躇いなんて持たない。
杏里ちゃんはやはり何か言葉を探して楽譜の上で目を行ったり来たりさせていたが、嘘の数々を聞くうちに、ついには悲痛な表情で目を閉じた。
これ以上聞きたくはない、という仕草に歪んだ喜びと安堵を覚えている自分がいる。
気弱な彼女がこれだけのことを聞かされてあの二人を好きでいられるはずがない、そう確信していた。優越感にも似た冷静さを取り戻すのを感じ、やっと一方的なおしゃべりを止める。

「ね、だから杏里ちゃんはあんまり関わらない方がいいと思うよ。」

「……本当に悪い人でしょうか、」

「……え?」

私はそんな風に思えません、そっと、消え入るような、しかし彼女の強い意志を織り込んだ、細いけれど強靱な言葉の糸が、歪んだ安堵に満たされた私を縛る。
初めて聞く彼女の切願とも言える声に動揺して、喉が潰されたかのように言葉を失った。絶望と焦りがないまぜになった感情が頭の中を真っ黒に塗り替える。

「騙されちゃだめだよ杏里ちゃん!あのね、杏里ちゃんがいけないんだよ?杏里ちゃんが、きちんと意志を伝えられないから、そういう悪い人に好かれちゃうの!もう、しっかりしてよ!私だってずっと杏里ちゃんにかまってられる訳じゃないんだから!」

責めるように言い切ってしまうと、二人だけの空間は一層沈黙を深くして私を酸欠状態にさせた。さらに心臓が早鐘を打つように激しく動くものだから、余計に酸素を求めて肺が痛くなる。
私は、なんだか泣いてしまいそうだった。
大きな声に驚いたのか、杏里ちゃんはこぼれんばかりに目を見開いてこちらを見ている。そしてしばらく見つめあった後、彼女の方から目をそらした。

「……そうですよね、私が、悪いんです。」

そらされた瞳に昔の杏里ちゃんが宿る。それは自分が生きている意味を知らない人がするような、とても悲しい眼差しだった。
ちがう。こんな事がしたかったんじゃない。私はこの目が嫌いだったはず。なのにどうして。
その瞳には底が見えない悲しみが、ずいぶん前の彼女の瞳よりもずっと濃く揺らいでいた。私は一層動揺を深める。

「……私、誠二を待たせてるんだった。」

鞄をひっつかんで早歩きに教室を歩くと、重力が狂ったように足の感覚がなく、自分の頭が相当ヘンになっていることがわかった。
背筋が体を動かすたびに冷たくなる。冷や汗のせいだ。赤々と危険信号のように灯る夕日を背に、さようならも言わず杏里ちゃんの真っ直ぐな瞳から逃げるように教室を出た。

鼓動が耳のすぐそばで聞こえる。何か強い感情のせいで、まっすぐに歩くことができない。ふらふらとたどり着いた階段の途中で座り込んだ。額から汗が出ている。ずいぶんと距離があった様な気がしたけれど、廊下はいつも通りの廊下でしかない。

「(なによ杏里ちゃん。久しぶりに話したのに、ぜんぜん嬉しそうじゃないじゃない。)」

「(紀田くんも竜ヶ峰くんもよく知らないのに、急に話し出されても困る。)」

「(杏里ちゃんっていつも人のことを羨んでばっかり。)」

お腹に溜まった熱を放出するように上を向いて空気を吐き出した。下まぶたに溜まっていた涙が移動して、眼球に膜を張る。

悔しかった。私が何年も一緒にいながら得られなかったものを、あの二人は意図せずとも簡単に手に入れ、しかもそれを喜ぼうとも感謝しようともしていない、二人が憎かった。同時に、こんなに杏里ちゃんのことを想ってきた私にはなんの感情も抱いてくれない、杏里ちゃんに腹が立った。

私、だから杏里ちゃんが嫌いなんだ、口に出して言う。
そっと冷たいものが心に触れて、悪い空気が肺にたまったような気になった。悲しいことなんてないのに、くちびるが小さく震え出す。後悔や懺悔によく似た感情に、眼球が一層しとしとと濡れた。
口に出したわがままや嘘は、どうして白々しく聞こえるのだろう。心で思うより、数段大きく膨らんで、絶対にうやむやにできないものになってしまうんだ。
じっくり目を瞑って放課後の無音に耳を澄ませると、か細い少女の歌声が聞こえてくる。生糸のように細い細い透明な糸が、そろりと空中に浮かんで出口を探している。そんな映像を頭に浮かべながらコンクリートの壁にもたれ掛かると、そのひんやりとした表面が私の熱と融和した。

「……綺麗に歌えてるじゃない。」

閉じた瞳に浮かび上がるのは、真っ白な楽譜で顔を隠す、中学生の彼女ばかり。
私の愛する女の子は、もうここにいない。



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