「女の人に似合うのは花束じゃなくて教科書なの。」
音楽じゃなくて数学の、椅子の上で硬い骨の浮き出た膝を抱えながらそう付け足した。
雨が降る灰色の窓ガラスをバックにコーヒーカップを持ち上げたままこちらを見るルートは、何百年も眉間に刻まれ続けた皺をさらに深くして、妙な生物を見る目を作る。
俺は想像以上の怖がりだ。数学と常識とルールが頭にぎっしり詰まったルートに、透明の持つ色についてや絵画の中を行き来できる可能性を話したって、彼に理解できるはずがないことくらいわかっている。もしも俺が理解してくれと泣いて頼んだならば、きっとお人好しの彼は眉間の皺を切り傷みたいに深くして世界中の本を読みあさり、学者のように理路整然とした答えを何日も眠らず導き出すだろう。
しかしそれではいけないのだ。ルートには、きちんと俺の喜びや驚きや悲しみを図鑑の中の誰かの知識ではなく、体や聴覚や視覚や痛みや心地よさやとにかくルートの持つすべてで感じ取ってほしいのだ。
ずいぶん昔、魚の骨をかわいいと巾着に入れて持ち歩いていた俺を、兄ちゃんは乞食を見るような目で馬鹿にした。
誕生日プレゼントにブリキのカエルを送った女の子は俺にだけありがとうを言わなかった。
庭に咲いていた真っ赤なバラの花びらがおいしそうに見えて口に含んだ俺を、アーサーは狂ったみたいにゲラゲラと笑った。
いつの時も俺は「どうして?」を頭に浮かべていた。どうして魚の骨を愛しちゃいけないの?どうしてカエルをあげちゃいけないの?どうしてバラの花を食べちゃいけないの?
だれもまっすぐに答えられないことなのに、みんながみんな否定して俺の方を指差して笑う。少しでもその灰色な群れに怯んでみせると、みんな一斉にルールや常識を教え込もうと視線の腕で押さえつけて、棘のある言葉で殴りつけた。
ルートもそんな人間だろうか。俺は強がって作って見せた笑顔をわずかに歪ませた。いいや、お人好しで優しいルートはきっと違う。絶対そんな人間じゃない。
今まで一緒にいた長い長い時間のことを思いながらそう確信するのに、やはり俺の笑顔はぎこちなく歪む。額が異常とも言えるほどしとしと濡れていて、折りたたんだ膝ががたがたと震えをみせる。
やっぱり俺って想像以上の怖がりだ。
「あとそのカップにコーヒーは合わないよ。せめてビーカーか何かじゃなきゃ。」
「……そんなものに入ったコーヒーなんてまずくて飲めん。」
「中身は同じなのに味が変わっちゃうの?」
「気分的にな。あと火傷をしてしまうからおまえの案は却下だ。」
へんなのー、あきれたようにそう言うと、ルートは森で白い鹿に出会った猟師のような顔をした。彼が「まったくフェリシアーノは、」という左手を頭に当てるお決まりの姿勢をとったせいで、斜めになったカップからあやうくコーヒーがこぼれそうになる。それを見た俺は「やっぱりビーカーよりも足元の絨毯の方が数段コーヒーに似合うな。」と瞬時にさっき導き出した答えに訂正を入れた。
「俺には想像力がないから、おまえの言っていることは理解できん。しかし、だからといって否定もしない。」
「……怒らないの?」
「どうして怒らなければならない。」
「兄ちゃんは俺がそういうことを言うとすぐ怒るんだ。お前の頭はおかしいって。」
「なぜおかしいと言えるんだ。」
「わからない。ルートはそう思わないの?」
ルートは答えず、代わりに長いため息をついた。意地悪でも呆れでもなく優しい吐息が、離れていても俺の背中を優しく落ち着かせて、膝の震えが取り除かれる。俺はルートの表情を確認しようとじっと彼を見たけれど、彼は新聞を広げて隠してしまう。
ねえそれでいいの?
俺って頭おかしいよ?
頭おかしいってみんな言ったんだ。
頭おかしいって、理由はわからないけど。
「(ああでもなんだかとってもうれしい気持ちがしてるんだ。)」
ルートってやっぱり変だね。頬が勝手にチーズみたいに溶けるので、俺の言葉はへたくそな俳優のように偽物くさく聞こえた。しかしそんなことはどうでもよくって俺は頭がおかしいみたいに笑ってしまう。
「変わり者のおまえに言われたくないな。」
「俺って頭おかしいと思う?」
「芸術家肌というんだ。間違えるな。」
「ね、ルートに合うものを特別に教えてあげようか。」
うさぎのように椅子から立ち上がり、逆さまの新聞から顔を上げない、かっこつけのルートに近づいた。頭のおかしい男だよ、そう言って俺はいつものように彼の背中に飛びつく。彼の肩越しに顔を上げると、ごつごつした広い緑のセーターの向こう側、冴え冴えと室内を映し出す窓ガラスに、奇妙な二人の男が浮かび上がっていた。
「自虐的だな。」
「俺に似合うの。自虐って。」
そう言って彼のカップを絨毯の海に突き落としてしまえば、世界中探し求めたパーフェクトワールドのできあがり。