浴槽に、長い髪の毛が浮いている。

ふらふらと乳白色の水を弾いて浮かぶそれは、ちょうど浴槽に浸かった私の胸元で止まった。
新羅や森厳のものではないらしい。色が違うし長さも違う、女物のような細い毛だ。恐る恐る指と指で挟み込み、かざすようにバスルームの照明に当て、新種の虫を観察する心持ちで眺める。ほそいほそい猫毛だ。乳白色の中ではよくわからなかったが、濃いミルクティーのような色をしている。両側からほんの僅かな力を入れたらすぐにぷつりと切れてしまいそうに脆い。いや、髪の毛なのだからこう見えて意外と手強いのかもしれない。

しかしなぜ、私は髪の毛だと言えるのだ。

「(あ、)」

出ない言葉を吐き出して、私は無い目を丸くさせる。
すっと、体中から、特に湯に浸かっていない肩や髪をかざす右腕から、温度が急いで逃げたようにうすら寒くなった。

「(これは私の髪じゃないか。)」

しかしなぜ、こんな所に。
誰かの仕業だろうか。該当しそうな人間を頭に思い浮かべつつ、収縮するような動作で肩まで湯に浸かる。腰を曲げるように浴槽の奥へ奥へと体を滑らせると、太股と膝の途中あたりに何かが触れた。さらさらとした、長いであろう何か。
流されてしまわないよう一旦浴槽の縁に髪の毛を置き、両の手を風呂水に沈めて探る。水の動きに従って、長い繊維質の何かは両手に添うように動く。生き物ではないらしい。それらしい気配が感じられなかった。
無生物なら怖くない。思い切って私はその伸びる無数の繊維を掴み、勢いよく、水面から引き上げた。


大きな水しぶきをあげ目の前の繊維質に絡まったもの。

初めて恐怖という感情を目の前にした気がする。全身に怖気がかけ巡り、瞬時に凍り付いた思考は一切の機能を放棄し、視界はその一点だけをクローズアップして鮮明に映すが、他のものはぼやりと霞んではっきりしない。
時間の感覚がわからなくなった。一瞬、髪が絡まる両手を宙に浮かせたまま気を失ったようにも思える。それくらい強烈に、私は驚愕したのだった。

歪な形で浮かぶ指には美しく張り巡らされた蜘蛛の巣のように、ミルクティー色の糸、私の髪の毛が絡まり合い、その本体、つまりは首を含んだ人間の頭部は非常に瑞々しく、今さっき首を切断されてきたように生気を持った頬をしていた。
女の表情も非常に安らかなもので、精巧に出来た蝋人形さえがらくたに見えるほど、つい隣の部屋には首から下だけの人間の死体が転がっているのではないかと思わせる、生き生きとしたまつげを深く閉じている。

「(なぜ、)」

「そんなに怖い?」

「(!!)」

「かつてあなたは私、私はあなただったのに。」

「(……お前は、)」

「あなたの首。正確には、元、あなたの首。」

元・私の首はくちびるの端をわずかに上げる笑い方をすると、哀れなものでも観察するように目を細くして私を見る。未だに状況のよくわかっていない私はどうにも動けず、両腕を宙に浮かせる体勢のまま首と対峙した。湯船に浸かっていたはずなのに、その首からは一筋の水滴も落ちることが無く、髪の光り方や質感などを見るに、どうやらそれは乾いているらしいことがわかった。
一体、どうやってここに。

「醜い生き物。」

「(生首に言われたかないね。)」

「首なしが何を。」

「(個性的でいいだろ。)」

「気狂いの医者にたぶらかされたのね。」

「(お前、)」
殺されたいのか、吊された自分の顔に明確な怒りが湧いた。なぜここに現れたのか、とか、何のために来たのか、とか、そんなことが頭から消え去って「目の前の女が新羅を馬鹿にした」という事実が頭を熱くする。
脅しをかけるように体から出した影でゆっくりと浴室を満たしていった。そして意志を持たずただ漂っているようにも見える何億という粒子を無造作に髪から引き抜いた右手に集めると、奴の頬にギリギリ刺さらない距離で鋭利に研ぎ澄まされたナイフを構成する。

今度新羅を罵ったら瞬きする間もなく突き刺してやる。無い双眸で相手を睨みつける。首は、少し驚いた、というような表情で突きつけられたその切っ先を見つめるも、恐怖や危機感は感じていない様子で平然と形のよいくちびるを開いた。

「あなたには出来ない。」

「(なぜ言い切ることができる。)」

「あなたも死んでしまうから。」

「(恐るるに足らないね。)」

そう答えながら、私は心に僅かな迷いが現れるのを感じていた。
新羅を侮辱されたのはとてもとても許せることではないが、それを咎める代償として新羅に二度と会えなくなるのは困る。たぶん、とても困るだろう。その迷いを首に悟られないよう、ナイフを構成することに時間をかけるふりをして時間を稼ぎながら、どうするべきかを考えた。
こいつは私だけでなく新羅までも馬鹿にしている。罰さないという選択肢はないし、こいつの生死はどうでもいい。ただ、新羅に会えなくなるのが嫌だった。新羅のいない世界に自分だけが存在しているなんて、果てなく空虚で怖くなった。バスルームを沈黙が満たす。先に言葉を放ったのは口のある女の方である。

人間を愛そうだなんて、相手がクズならあなたもクズよ、ナイフを突き付けられた首は恐れを知らずそう言ってのける。相手がクズならあなたもクズ。相手がクズなら。
機能していないはずの血管が収縮する。沸騰した。殺意が湧いた。

黙れ黙れ黙れ。許せない。許せない許せない許せるはずがない。こいつだけは許せない。
掻き殺すようにひっつかんだ首を浴槽に沈める。指に力がこもる。背中が泡立つ。肩が震える。それらはもちろん自分が消えることの恐怖ではなく、理性を遥かに超えた怒りによるものだった。
新羅を、首に対してありったけの意思を持って叫んだ。
「(新羅を侮辱したら自分であろうと許さない!!)」

ぶくぶく、中の窺えない乳白色の水から泡が出てきては弾けた。際限なく出てくるかとも思われたあぶくは、しかししばらくするとぱったり止んで、浴室が清潔な沈黙に満たされる。肩を怒りで震わせながら、私はなおも力を込めて首を押さえつける。明確な殺意をむき出しにして。

「そう。」

「それじゃあ   はこれでおわりね。」

「(……なにを、)」

「うふ」

掴んでいた綿菓子に湯を掛けられたように、指から髪の感覚が消えた。まったく突然のことだった。私は急いで浴槽の中を探る。隅から隅まで、指だけでは効率が悪いということに気がつくと、じわじわと影を使って浴槽を探った。白い湯が暗闇に満たされるほど捜索したが、しかしそれらしいものは何一つ、浴槽の縁に置いた髪の毛一本すら見つけることができなかった。

なんだ。
なんだ。
なんだったんだ。
浴室のどこかにまだ首が潜んでいないか視線を巡らせながら、すっかり冷えた体を湯船に滑り込ませる。今更ながら肩や指先に小さな震えが襲って来て、それを鎮めるように何度か拳を作った。

「(こわい。こわかった。どうしようかと思った。こわかった。新羅に会えなくなるかと思った。そうだ新羅。新羅新羅。新羅に会いたい。)」

縮こまるように胴体と太ももを密着させて、両腕でさらにきつく体を抱きしめた。恐怖からか、長時間湯船に浸かっていてふやけたからか、手のひらは異常に白くなっている。生命線の所在もどことなくあやふやで、優しい白色をした湯水を吸ったような色だ。
あの首はなんだったんだろう。どことなく冷めてしまったような浴槽につかりながら考える。

「(考えてみればあれも可哀想な奴なんだ。)」

「(開かない目と呼吸しない鼻と言葉を発せない口しかないのだから。)」

「(何かに感動することも、)」

「(強い悲しみを抱くことも、)」

「(だれかを愛することも。)」

湯船に体を沈めながら眠りに入るときのように視界を閉じる。
かつてあなたは私、私はあなただったのに。首はそんなことを言っていた。暗い瞳の内で、残酷な運命を受け入れるしかない女の首がふらふらと浮かんできた。濃いミルクティー色の髪、柔らかく白い頬、閉じられた長いまつげ。

きっと目覚めることのない、可哀想な私の首。

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