宇宙人を呼ぶの!と、閉館作業中の図書館で叫んだのは、さっきまで寒空の下を散歩していたらしい鼻声の張間美香さんだ。
私はというと、普段は返却済みの本を乗せている空のカートを隅に押した姿勢で、そんな突拍子もない彼女の提案に目を丸くさせるばかりだった。豆粒ほどの文字を読んだ後のように目をしょぼしょぼさせ、鼻先の触れそうな距離に近づいた彼女の満面の笑みに首を傾げる。

「宇宙人、ですか……?」

「そう!だって今日はすっごく宇宙人日和なんだもん!散歩してて気がついたんだけど、うん、そんな空気!」

心臓が飛び跳ねているみたいに体を揺らす彼女の目は、宇宙人の存在を信じてきっている少年のように澄み切っている。私も宇宙人の存在を否定するわけではないが、科学的に確認されていない地球の外からの生き物が突然の提案で目の前に降りてきてくれるとはちょっと信じられなかった。
けれど案外現実的なところのある美香さんが、宇宙人を呼ぶ!だなんて張り切っている様はなんだか微笑ましく、どうしようかな、私は少し迷う。
もともと友人が少なく両親もすでに他界していた私に、夕方からしなければなならないような用事はない。夜に天候がひどくなると今朝テレビで言っていたけれど、それまでには終わるだろう。なら、他愛もない遊びに付き合うことくらいなんの問題もない。

「では、片付けが済んでから。」

「やったー!杏里ちゃん大好き!」

美香さんに飛びつかれて、私はのたりと一歩後ずさった。なんだか美香さんはいつもより動作に勢いがある気がする。というか、動作に勢いがある振りをしている気がする。ふと見た図書室の外はすっかり暗く、窓ガラスが照明の光を反射して私たちを映していた。宇宙人か、そんなものが来ないとはわかっていても、そろそろと胸が騒いだ。


本当は、先生に言って戸締まりを確認してから部屋の鍵を閉めなければいけないのだけど、今日は少しだけズルをして、先生の確認は取らずに図書室を後にした。
非常階段のほの暗い緑のランプが反射する廊下は、今年の文化祭で怖いと評判だったお化け屋敷よりもずっとずっと不気味で、私たちはマフラーを巻いた頭を寄せあうように足早に通過する。
ひとりじゃなくてよかった、心底ほっとした。二週間に一回のローテーションで回る図書委員の仕事は、一日大体三人ほどが当番に当たるように組まれているのだが、全員揃った試しがない。みんなその日に限って体調不良やら家の用事やらで来られなくなるのだ。
私は前回も前々回もその前も、真っ暗になるころにひょこっと現れる美香さんと一緒に下校していたので、幸いひとりでこの廊下を歩いたことはない。ふと一人で下校していた夏の校舎を思い出す。それはそれで、橙色の光の中に閉じ込められたみたいで不気味だったが、廃墟のような冬の校舎を一人で歩くよりずっとずっとましだった。

テスト期間と日没が早いのとで、日頃は熱心な運動部さえいない廊下に、二人分の足音が反響していた。というか、美香さんが足音をわざと大きくして歩いているようなので、一層音が響くのだ。音で恐怖を紛らわしているのかな、そんなことを考えながら同じように足を高くあげる。
建物の中なので風はないけれど、空気は外のものとほとんど同じくらい冷えきっている。マフラーに顔を埋めるように首を竦め震いした。美術室の前に貼られたポスターや、保健室の空のベッドが気味悪く映ったのもその原因の一つだろう。

「いやー、さっ、さぶい、ねー。」

「さっ、しゃむい、ですねっ!」

寒い寒い、繰り返しながら二人で水たまりに落ちた猫のように震えた。
下足に着くと、靴箱と一緒になったロッカーから素早く膝掛けを持ち出して、ストールのように羽織る。一枚のフリース生地を纏うだけで体感温度はだいぶ高くなったけれど、粉雪が舞う外へと続くガラス戸を開けたとたん、小さな刃が紛れ込んでいるのではないかと思うほど冷え切った空気が身を刺した。

「だめぇー!杏里ちゃん、しんじゃうー!」

「み、美香さん、取り敢えず走りましょう!近くのお店で暖かいものを買ってからです!」

美香さんは寒さから耐えるように低いうなり声をあげながら、急に私の手をつかみ小走りに進む。引っ張られる形で、私も向かい風を裂いて続いた。風がひどい音をあげて剥き出しになった耳を凍らせる。息が苦しいのと寒いのとで、はあはあ言いながら歩道を進んだ。

天気予報で午後から降ると言われていた雨は、お昼休みに雪に変わって街中を白くした。授業中の教室から見た運動場を灰と白に染め変えていく豪雪は、夜になってかなり弱まりはしていたが、今になっても止む気配を見せずにちらちら夜空を舞っている。私は図書室に傘を忘れてしまったことに気がついたが、あわあわとした羽のような雪だ、傘などなくても大丈夫だろう。
校舎を見上げると、職員室の照明だけが暗闇で白く浮き上がっていた。自転車置き場や運動場の、職員室以外の明かりは全て消灯されていて、非常灯のある校内よりも夜道の闇は深い。雪の積もる歩道を走ったためか、ローファーの中でかじかんだ指先が感覚を無くし始めていた。

ポケットに片手を入れたまま併走している美香さんは、上はPコートとマフラーと耳当てで防寒対策をしっかりしているのに、下は膝上三十センチのスカートと黒のハイソックスだけなので、上下とも風のはいる隙間のないよう服を着込んだ私よりも一層寒そうである。細い足が車輪のように回転して短いスカートが揺れるたび、身を切るような寒さが彼女の足を刺すだろう。私は美香さんの骨の浮いた膝が真っ赤になっているところを想像しながら、時々つんのめりそうになる霜焼けの足を動かす。

「さむー、」

「さむい、ですっ、」

「さぁーむぅーいぃー!」

校舎のすぐ目の前のスーパーに駆け込んだとたん、全身の力が抜けるほどの暖かい風が体をなでて、示し合わせたようにふたりしてその場で立ち止まり、しばし温風の恵みを受けた。
そこで、手に持っていることができないほど暖まった私のミルクティーと、美香さんのミルクココア、お揃いの手袋、カイロ、レジャーシートなど、雪の中でも過ごせそうなグッズをいくつか買い込み、宇宙人捜索の準備は整った。

「チョコレートが好きなんだ。宇宙人は。」

と言って美香さんがカゴに入れたチョコレートは優に十枚はある。どれも別々の種類で、よく目にするミルクチョコレートから、ホワイトチョコレート、キャラメルが入ったチョコレート、カカオ90%と書かれたあまり食べたくないようなものまであった。宇宙人は果たして気に入ってくれるだろうか。彼らのことをよく知らない私は首をひねってそれらがレジ台に乗せられるのを見ていた。


固く閉じられた校門を避け、比較的低めのフェンスを乗り越えて校内に入ると、つい十五分前には煌々と光っていた職員室の灯りも消えて、本当の暗闇が学校を取り巻いていた。さっきまでの暖かな気分に影が忍び込む。いつもはなんとも思わない、植え込みの陰や非常階段の隅に何かが潜んでいそうな気がして、私は余計なものを見てしまはないよう靴の先や恐ろしいものが居そうにない空などを見ながら足を進めた。
機嫌の悪い夜空には雲が厚くかかって、月のかけらさえ見つけることができない。霙よりももっと硬い、地面に落ちてもなかなか溶けそうにない種類の雪が、下を向いた頬に落ちて流れていく。口の開いたあたたかい紅茶の缶をそこに当てると、ため息が出そうなほど気持ちがいい。

「先生達、帰っちゃったかな。」

「帰っちゃったみたいですね。」

「ばれたら怒られちゃうかな。」

「走ったら、逃げきれそうな気がします。」

私がそう言うと、美香さんはなにか感心したような声を上げ、いたずらっぽい笑い方でこちらを見た。逃げるという言葉が私の口から出たのがおかしかったらしい。
相変わらず彼女の足は前方からの強い夜風にさらされていたけれど、先ほどの痛々しさは消えていた。私自身が暖かい紅茶を飲んだからそう思わなくなっただけかもしれないし、美香さんがココアで暖まっているから寒そうに見えないだけかもしれない。何が原因となったのかはわからないけれど、とにかくさっきまでの心臓が凍ってしまいそうな空気がだいぶ和らいで感じられたのは確かだった。

雪の積もった校庭の中心に、スーパーで買ったレジャーシートを敷いて、その上に向かい合って座る。美香さんは鞄から取り出したカシミヤの膝掛けをストールのように肩に巻いて、私も膝掛けと迷ったあげく、同じように肩に巻いた。二人の間には手が繋げるくらいの空間があり、そこに買ってきた大小様々のチョコレートを散らかすように大雑把に広げると、なんだかピクニックに来たみたいで宇宙人捜索と聞かされた時よりもずっと心臓がどきどきした。
何かを探すように校庭の上を取り囲んだ曇り空を見上げた美香さんは、うん、宇宙人日和!と雪の付いた笑顔をこちらに向ける。

「宇宙人は悪い生き物じゃないからね、怖がらなくていいんだよ。」

「宇宙人は何をしに地球に来るんでしょうか。」

「うーん、わからないけど、多分願い事とか叶えてくれるんだよ。」

多分だけど、そう付け足して笑う美香さんは、いつもの元気が一杯で辛いことを知らない美香さんとは違って、ほんの少し、儚く見えた。どうしてだろう。不安になって考えるけれど、それは校舎が暗くて顔がよく見えないから、そう感じられただけかもしれない、無理にそう納得する。

姿勢を正し、お互いの両手を結ぶ。美香さん曰く、「強く握るのが重要なんだよ!」だそうで、私は躊躇いながらも彼女の指を強く握った。掴んだ色白の指先が冷えきって一層白くなっている。まるで琺瑯のようだ。

「おまじないを言うの。繰り返すから、杏里ちゃんも言ってね。」

「はい。」

「えっと、なんだっけ、えーっとっと、」

しばらく首を傾げていた彼女は、なんでもいいや。テクマクマヤコンにしよう、と自分が納得できたらいいという程度に小さく呟いた。気持ちが届けば宇宙人は来てくれるらしい。

「テクマクマヤコン」

「テクマクマヤコン。」

「テクマクマヤコン」

「テクマクマヤコン。」

寒空の下、紺色に重なり合う空を見上げて繰り返す。唱えながら、てくまくまやこんって何だっただろう、と思っていた。アニメだっただろうか。美香さんに聞こうかな、とも考えたが、呪文を途切れさせてはいけない気がして、大人しく続ける。
彼女の瞳はじっと空の闇をまさぐり、私の左手を握る彼女の右手は祈りのように力強い。

「テクマクマヤコン」

「テクマクマヤコン。」

「テクマクマヤコン」

「テクマクマヤコン。」

幾度も幾度も同じ文句を繰り返した。
しかしどれだけそれを唱えようと、厚い雲の間から時々ほんのわずかな月の輪郭が見えるだけで、宇宙人らしき影は見えない。宇宙人がそう簡単に来てくれるはずないのだから当たり前かもしれないが、ではなぜこんなことをしているのだろう。見上げた頭を向かいに向けると、美香さんの肩やら髪やら膝には、雪の粒が積もっていた。
さっきより降る雪の量が多くなったような気がする。思い出したように身震いをして、寒さで凍るくちびるを舐めた。

どれだけ時間が経っただろう。考えても、校舎に設置された時計には夜の闇が掛かり、ここからは到底見えないのでわからない。
美香さんは、お家の人に叱られないだろうか。彼女は最近ご両親のことで悩んでいたから、こんな暗い時間に外に居たのでは叱られないまでも心配をかけてしまうのではないか。ふいに「願い事とか叶えてくれるんだよ」と言った彼女の、何かを見据えたような瞳を思い出した。覚悟したような、何かに耐えるような、大人の人の目。

「(どうして美香さんはこんなに一心になっているのだろう。)」

「(美香さんは何か願いを叶えてもらいたいのかな。)」

「(何か、叶えてもらわなくてはいけないことができたのかな。)」

胸がじっと寒さに満たされた。
天真爛漫で誰よりも強くうつくしい彼女が、こうまでして叶えたいことがあるのかと思うと、ピクニック感覚だった自分が急に馬鹿らしく思えた。罪悪感が胸にくすぶって、閉じた口の中で強く舌を噛む。
彼女は青くなったくちびるを舐めることも、まつげに付いた雪を振り払うこともしようとせず、ただロボットのように呪文を繰り返しては、狂ったように空へ視線をさまよわせる。

私はそんな彼女が急に怖くなった。美香さんの目的が冗談ではなく本当に宇宙人捜索なのではないかと思い始めたからだ。
最初に言われたときだって、宇宙人なんてきっと見つかるはずがない、そう思ったのだ。美香さんもそれをわかった上で、散歩のきっかけかなにかのつもりで言っているのだと、無言のうちで理解していた。でも。
首筋を冷気が撫でる。眉間のあたりがぞっと震え、肺の空気を一息に吐き出した。辺りは一瞬白く染まり、染み出すように黒髪の少女が現れる。揺るがない、何かを見つめた双眸。

宇宙人なんていない。願いなんて叶えてくれない。それが常識だし、そんなものは現実に存在するはずがない。しかし美香さんは信じている。信じて、夜空の中を正気を失った目で探している。
なんと言おう。なんて言えばいいだろう。私の手は、拘束されるようにしっかりと彼女に握られている。

「テクマクマヤコン」

「……」

「テクマクマヤコン」

「……」

彼女は繰り返される呪文のひとつが途切れてしまったことに全く気が付いていないようだった。もしかしたら、私がここにいることさえ忘れてしまったんじゃないか、と不安になるほどだ。
天を向いて空を探る。一層厚くなった雲はさっきのように僅かな月の光さえこぼしてはくれず、飛行機だって飛んではいない。もちろん、宇宙人はいない。
猫のうなり声のような低い轟音が、雲の中から私達を脅かすように響いて、はっと音の方を見る。ずっと奥の空から鋭利で攻撃的な光が街に突き刺さり、瞬きの合間に消え去った。

「……美香さん、雷が……」

「テクマクマヤコン」

「……夜に天気が崩れるって、」

「テクマクマヤコン」

「美香さん、」

テクマクマヤコンテクマクマヤコンテクマクマヤコン……
一心に空を見ている。いや、もう空しか見えないのだろう。私にはその瞳に宿った虚ろな灰色がはっきりと見えた。
豪風が竜巻のように渦巻いて、校庭の冷えきった空気を巻き上げる。彼女の短いスカートがふわりと浮き上がり、それから静かに元の位置へ戻った。早く帰らなければ。焦ったようにそう思うけれど、握られた彼女の手を振りほどきひとりで家へ帰る狡さも、無理矢理に彼女をひっぱって行く勇気も私は持っていなかった。
すぐそばでひどい音がして思わず肩を竦める。雷が迫ってきている。怖い。震えるように体を縮こませた。辺りはもう真っ白だ。なんだか苦しい。酸素が少ないわけでもないのに、呼吸さえあやふやになっていく。

音を立ててココアの空き缶が風に押されていった。寒々しい風の音が、グラウンドの低い位置を撫でていく。校庭を取り囲む木々が宇宙と交信するようにざわめく。
落雷があったなら、木と、私たちと、どちらに落ちるだろう。平坦な校庭の真ん中にいる私たちから、避雷針はあまりに遠い。
恐怖を追いやるため、必死で別のことに集中しようと頭の中を漁る。なんだっけなんだっけテクマクマヤコン。てくまくまやこん。あ、変身の呪文。そう、女の子のアニメ。女の子。だれだっけ。小さい子だった気がする。お父さんが船長さんで、ほとんどお家にいないの。

「美香さん、」

「テクマクマヤコン」

「なんでしたっけ、その呪文。」

「テクマクマヤコン」

「帰りませんか、」

「テクマクマヤコン」

もう帰りましょう!あまりに彼女の瞳がなにも映さないので、背筋が震えることに耐えきれず私は叫んでいた。
こんなに大きな声を出したのはどれだけ振りだろう、それほどの大声だったはずなのに、彼女の目はまだ空ばかりみている。魂が抜けて、代わりに何かおかしなものが入ってしまったんじゃないかと、本気で怖くなった。ああなんだっけ、女の子。お父さんが船長さんで。なかなか帰らないの。なんだか、美香さんのお父さんみたい。船舶のライトのように強烈な光が校庭を白くする。

頭の上で空が割れる音がした。否応なしに恐怖を駆り立てる爆音。私は彼女の手を強く握ってうつ伏せのように姿勢を低くした。雷が落ちませんように、私たちに当たりませんように、知らないうちに誰かに願っている。

「杏里ちゃん見て!」

「宇宙人!宇宙人が来たの!」

そんなバカな。掴んだ彼女の手がすり抜けていく。追いかけて手を伸ばすけれど、掴んだものは氷のような空気だけ。勢いで私の姿勢は崩れ、冷気を上げる白い地面に膝を着く形となった。宇宙人なんて、まさか。雷光で照らされた校舎を見上げる。

「だって凄い光!きっと宇宙人だよ!」

「はやく、願い事言わなきゃ!!」

彼女は立ちあがって雪を浴びていた。大きな瞳を見開いて、新たに白くなった空を受け止めるように、両手を大きく広げている。危ない、雷が落ちてしまう。とっさに彼女の姿勢を低くしようと、立ちあがって美香さんの背中へ飛びかかった。寒いのか怖いのか怒っているのか、私の呼吸は荒い。

「お父さんとお母さんが仲直りしますように!」

「お父さんの浮気相手がしんじゃいますように!」

「お母さんが毎日帰ってきますように!」

「お父さんがもっと私と話をしてくれますように!」

「お母さんが私を疎ましい目で見ませんように!」

私はただ彼女の背中にすがりつくような姿勢で固まっていた。まるで時間が止まった様に、私はなにもできなかった。あまりにもそのお願い事が切実で、雷さえも忘れて叫びに近い彼女の声をただ聞いていることしかできなかった。美香さん泣き出しそうな目をしている。雷が怖いからなんかじゃない。彼女にとっては現実の方がよっぽど辛くて涙が出てしまうのだ。
自分の喉が熱を持って痛みだしたのを感じ、無理矢理つばを飲み込んだ。美香さんの狭い背中から、抱えきれない悲しみがにじみ出ている。ほんとうに、小さな寂しい背中だった。

低い空からゴロゴロと言う音が聞こえてくると、光はもう消え去って元通りの暗闇が辺りに戻ってきた。私がかぶさるような姿勢でいたためか、重みで美香さんは地面に座り込む。糸が切れた操り人形やぺしゃんこにつぶれた紙パックみたいに、ちいさくちいさく萎んでしまう。
やはり私には何も言うことができなかった。じっと黙って、座り込んだ彼女の背中から腕をまわしたままの姿勢でいた。そして、雷が鳴り始める以前の、チョコレートや図書館や揺れるスカートや笑いあった彼女の表情を思い出して、あれは何だったのだろう、こうなってしまったからには夢か何かにしか思えない幸せな記憶を反芻する。

散らかったチョコレートには雪が積もっていた。彼女の短いスカートは水分を含んで元気がない。うつむいた美香さんの表情は、こちらから見えないから確認できない。けれども私は、美香さんは泣いている、まるで見て来たかのようにそう確信していた。嗚咽も聞こえないし、密着した背中も震えてはいないのに、彼女の頬に伝う涙のきらめきが、頭の中で容易に想像できた。
私はそっと彼女の乱れた髪を手櫛で整え、小さい子供がテディベアを抱きしめるように甘い香りのするかぶりを抱きしめた。すんすん、耳の横から鼻をすする音がする。こんなにも辺りが冷え切っているからだ。雪は降りやまないし、温かい紅茶もココアもないから仕方がない。当り前のことだ。私は彼女のわずかなプライドを守るため、ハンカチをポケットの上から押さえつけて彼女には渡さなかった。指が痛くなるほどポケットを押さえて、決して渡さなかった。

少し離れた所から雷の音がする。どんなに激しく輝こうと、宇宙人では決してない。決して。

「……杏里ちゃんには、言ってなかったかなあ。」

「うちのお父さんとお母さん、私のことあんまり好きじゃないみたい。」

「やだよね、そういうのってさ、なんかわかるんだよねー。」

「好きって気持ちはなかなか届かないのに、なんで嫌いは届くんだろう。」

あはっ、美香さんは無理に平静を装っているのがわかる空元気でそう言った。
背中に黒い塊を背負って、投げやりに掴んだ雪を投げる。凍えるように震えた手で握っては投げる。彼女が肩を動かすたびにそこに乗った黒い塊が濃くなっていくように見えた。
こんなものが乗っているから、美香さんは様子がおかしくなってしまったのだ。そうに違いない。もやもや霞む黒いものをどうにか払い落としたくて、立った拍子に落ちてしまったストールで彼女の肩を強くはたく。何度も何度も動かすたびに雪の水滴が飛んで、私の頬に付着する。目の前の弱々しい背中は、その都度前後に力なく揺らいだ。

「杏里ちゃん痛い。」

痛い、痛い、痛いよう。美香さんの声はみるみるうちに弱々しくなって、そのままそれは嗚咽に変わった。何度も手を動かして肩を叩くけれど、美香さんの泣き声が激しくなるだけで意地の悪い黒いものは一層濃くなる。
雪は相変わらず激しく地面を叩く。ほんの少し離れただけの美香さんの黒髪は、夜の闇と砂嵐のような雪でかすんでいく。小さい小さい背中だ。私はいつもそれを見ていたのに、初めてこのことに気がついた。暗い廊下を一緒に歩いてくれる彼女の背中。いじめっ子から守ってくれる彼女に背中。心底うれしそうに好きな人の話をする彼女の背中。私はいつだって見ていたのに、いつだって見えていなかったのだ。
なんだか自分まで悲しくなって涙が湧きだした。誤魔化すようにストールを投げ捨て、喉の奥で泣き声を押し殺す。

大丈夫。私が一緒にいる。いるよ。歯を食いしばって繰り返す。一緒にいるよ。願い事をかなえてくれない宇宙人よりも、愛してくれない両親よりも、ずっと私が一緒にいるよ。ずっとずっと、私が守るから、大丈夫だよ。自分のかじかむ耳を押さえて鼻をすすった。美香さんの涙が移って、私も泣いてしまっていた。
大丈夫、私があなたと一緒にいる。決意のようにくちびるだけを動かした。吸い込んだ空気は針が紛れ込んだように冷たくて、私の弱った喉を痛めつける。
遠くで雷の低い音がした。美香さんの肩は僅かに震える。大丈夫、こわくないよ。私が一緒にいる。いるよ。

「ずっと、卒業しても高校生になっても大学生になっても大人になっても結婚してもおばあちゃんになっても死んじゃっても、」

ずっと一緒にいるよ。だって私、あなたに出会えたこと誰より神様に感謝しているもの。



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