何メートルもある大きな黒い生き物がすぐ背後から追いかけてくる。
どこからか激しい呼吸の音がして思わず辺りを見回すけれど、そこに人らしい影は見えない。よく耳を澄ますと、呼吸音が薄く開いた自分の口から響いていることがわかった。けれど全速力で駆ける私の体は風船のように軽く、前後に大きく振るう足だって重力から解放されたようにスイスイ空を切っている。不思議な感覚だ。今にも酸欠で倒れてしまいそうな苦しげな音は、まるで胸ポケットに入れたiPodのスピーカーから響くBGMのようだった。

走って走って。そう頭の中で繰り返していた。自分に言っているのだろうか、思ったけれど、時折心配そうに振り返る背後の大きな生き物に対してらしかった。
生き物は巨大だ。ずっと頭を上げて眺めると、それは東京タワーを下から見上げた感覚に似ていて、黒い影がこちらへ倒れてくる錯覚さえする。彼のギラギラ光る目には赤い線が放射状に走り、巨大な足を木に山にめり込ませてとにかく走っていた。

「走って!早く!早くしないと!」

早くしないと、なんだろう。走りながら自分の口から出た言葉の意図を探っていると、背後から映画の中のような爆発音が聞こえて振り返る。

夜の暗闇の中を流れ星が水平に流れていくのが目に入った。
いくつもいくつも、距離が近いのか纏った煙が流れる軌跡さえはっきり確認できるほど、長い光が線を描いて夜空を走っている。流星群か。いや違う。あれは。

「(ミサイルだわ。)」

特撮映画で見慣れた、真っ赤な火花をあげる針のように尖ったミサイルが、広い広い怪獣の背中めがけて突進する。ああいやだ。ひどい。なんてことだ。
心臓を掴まれたように胸が痛くなった。怪獣は高い鳴き声をあげて突き刺さったものを振り払い、木を踏み潰していっそう力強く先を急ぐ。
なぜだ。誰がこんなひどいことをするんだ。私はミサイルが飛んできた方を強く睨む。目的のものは闇が深くて見えないけれど、代わりに夜空の黒を縫って真っ直ぐ飛んでくる赤い兵器が見えた。いくつもいくつもいくつもいくつも、小さい爆弾が彼に刺さる。頭の上から轟音がして、ヘリコプターがチカチカ光るものを振りかける。それを指示するような人間の声も微かに聞こえた。

恐怖じゃない。悲しくて悲しくて泣きそうになった。お願い無事でいて、無力な私は息をのんで怪獣の無事を祈るけれど、頭上から爆発物で攻められた怪獣はついに大きな叫び声をあげて立ち止まってしまう。
ぐらり、怪獣が痛みと勢いに押されて体勢を崩す。黒い肌に何かつやつやしたものが流れて、私は叫びだしていた。

「やめて、やめてぇぇぇ!」

どうして。なぜ攻撃するのだ。彼は何も悪いことはしていないじゃないか。彼はただひっそり生きていきたいだけなのに。大きく見慣れないだけで、心はとても優しいのに。
泣きながら彼の足下に寄りかかった。黒くごつごつした岩のような足は、前からも後ろからも爆撃を受けてもう一歩も進めない。ふいに緑の液体が腕にかかった。彼の血液だ。
ひどい。なんてひどい。泣きながら「大丈夫、大丈夫だよ」と叫んだけれど、私の声などこの騒ぎで彼に届くわけがないし、第一その言葉は低俗なゴシップ誌の記事よりも信憑性が低い。
せめて少しでも彼を逃がす手助けになれば、と、泣きながら手当たり次第に石を投げつけた。ヘリコプターにも、遠くから怪獣を狙う狙撃手にも届きはしない。けれど、ひとつでもミサイルに当たって彼の助けになればいい、そう思って肩がギリギリ痛んでも石を投げ続けた。掴んで投げる。掴んで投げる。何度も硬いものを掴んだために指が赤く腫れてしまっても私は攻撃をやめようとはしなかった。

握った石を投げようと振りかぶった時、突然腕の動きが止まった。なにか頑丈なものに掴まれたのか、宙に掲げた私の手は数ミリだって動かない。どうして、なにが起きたんだ。突然のことに驚いて動きを止める。すると騒々しいミサイルや怪獣やらの音がすっと遠ざかって、ついに完全な無音が私を取り囲むと、すぐに別の単調な音が次第に大きく聞こえだした。金属の掠れる音や男の声がする。
いやな音だ。とっさに思った。

『麻酔が切れてきた。』
『象だって卒倒する量なのになんてことだ。』
『早く注射器の用意を!』

知らないそんなの知らないどうでもいい。早く早く急いで彼を助けないと。
胴体も足も首も固定されているらしく、激しく暴れてみせたけれど欲しいような結果は得られなかった。感覚が徐々に蘇り、私は走るどころか立ってさえおらず、なにか硬いところで横になっていることがわかった。腕を押さえつけた硬いものは氷のようにつんと冷たい。痛いくらいに、とても冷たい。

「意識が戻ったようだ。」

「早く目隠しをしたまえ。我々の正体を知られたら……。」

「澱切君、こんなに血液を採っても大丈夫なのか。」

血液と聞いて、私は怪獣の緑の体液を思い出した。彼に何かしたら許さない。そういう気持ちを込めて蠢く影たちを睨みつける。どんなに感覚を澄ませようとも、淀んだ地下室のような暗闇にはミサイルの光もなく、怪獣の鳴き声もない。
ひどく混乱した。ここはどこだ。怪獣はどこにいったのだ。もう連れ去られてしまったのか。あんなに優しい怪獣だったのに。ただ幸せに暮らしたいだけの、かわいそうな怪獣だったのに。

「目を覚ましたようだぞ。」

「大丈夫、この暗さではわかりはしまい。」

「さあもっと血液を採ってください。」

腕に激痛が走り、乾燥した喉で低く呻く。なぜ。怪獣の次は私を攻撃するのか。唯一動く頭を左右に振って、近づく指に歯を剥いた。抵抗むなしくかち合った歯が空を噛む音を立てる。

「危うく指を噛み切られるところだった。麻酔が効かないなんて、流石は人外。」

化け物め。嘲るような冷たい誰かの声が頭の上から掛けられる。
ああそうだ。化け物は、怪獣は私だ。ただ幸せに暮らしたいだけの、緑の血を流す怪獣は私だ。
武者震いのように背中がぞくぞくした。そうだ私は怪獣なのだ。なんでも壊せる巨大で醜く最強の生き物。いつでも私のヒーローだった。
拘束具を外してやろうと押さえつけられた腕に思い切り力を込める。呻きながら目の血管が切れてしまいそうなほどの力で左腕を引き上げると、ようやくそれはきしみをあげた。

「おい!この女逃げそうだぞ!」

「麻酔でもスタンガンでもいい、眠らせろ!」

瞬間、横腹に強い衝撃が駆け抜けた。脳の焼けそうな感覚の中、男が叫んだ通り強い電気が体に走ったのだとわかった。全身の力が抜けて、手を握ることすらできない。
痛い。また何かを刺された。痛い。足にもだ。痛い痛い痛い。たくさんたくさん何かが体を刺して、目の中で赤色が点滅する。助けてよ。痛いよ。ああミサイルだ。火花をあげるミサイルが私を刺しているんだ。
力なく閉じられた両の瞳から生暖かい液体がとめどなく流れて、気持ちが悪いし惨めったらしい。
もういやだよ。もういらないよ。こんな世界はもういらない。私はただひっそり生きていきたいだけなのに。それが許されないのなら、こんな今すぐ世界は消えてなくなってしまえばいい。

体の中の何かが叫んでいた。肺のずっと奥で、黒く大きな生き物が静かに歯を剥いている。痛みに耐えるように。怒りを抑えるように。
右腹部に先ほどとは比べられない激痛が走る。痛い痛い痛い痛い。痛いのはいや。もういい。もういらない。こんなのいらない。肺の奥から目一杯の力で叫ぶ。

「壊して!壊してぇぇ!」

全部全部。山も街も人もすべて。
こんな世界はめちゃめちゃに破壊されてしまえばいい。私に冷たい世界はもう沢山だ。もういらない何一ついらない。誰か壊して。叩き潰して。焼き払って。
お願い、動いてよ怪獣。

「いやあああああ!!」

血の味がする喉で叫んだ。頭の中の怪獣と同じ。外して助けて私を解放して。
そうでなければ、私を殺して。

「殺してぇぇぇ!!」

「殺さないよ。」

死んじゃったらもう会えない、頭の上で別の声がした。その声は先ほどの者達よりもずっと慈悲深い、不安や恐怖を打ち消す深みを持っていて、私はなにか小さな光のようなものに触れた気がした。機械の音や低い男たちの声の中から、その音だけに意識を澄ませる。

「君が死んだら、たくさんの人が悲しむよ。たくさんたくさん人が泣く。ファンの人たちが泣く。事務所の人たちが泣く。友達が泣く。独尊丸も悲しむ。」

俺もとても悲しくて死んでしまうよ、感情の読み取れない声で誰かはそう言った。私はその声の主を知っている気がしたけれど、目を開けて、それがボロボロになった怪獣だったら、私の方こそ悲しみで死んでしまいそうだったので、頑なに目を閉じていた。

「こわし、て、いらない、こんな、いらないっ……!」

「大丈夫。怖がらないで。ルリさんは怖い夢を見たんだね。誰もルリさんをいじめないよ。」

怪獣らしいその声はなんの感情も乗せてはいないように響いていても、なだめるように繰り返される言葉達が私のギザギザになった感情を解していく。閉じた両目から涙がこぼれ、それを怪獣が優しく拭った。怪獣らしくない細く柔らかい指の感触が、感情のささくれ立った私にはあまりに優しすぎる。ほろほろこぼれる涙の合間に、やっと目を開く決意をした。

「……あれ、怪獣、ゆうへい、さん……?」

「ルリさん、怪獣の夢見てたの?いいな、怪獣。格好いいね。」

強いし、大きいし。羽島幽平は涙でぐちゃぐちゃになった私を見て、平然と、しかし抑揚のない言葉の端々に明らかな安堵をにじませながら、やんわりと笑ってみせた。
落ち着いた色の澄んだ瞳は驚いた顔をしているであろうこちらを見て、そっと私の頭をなでる。

「怖い夢、DVDつけっぱなしで寝るからだよ。」

そういえば、お気に入りの古い特撮映画を再生していた気がする。どうやらその途中で眠ってしまったらしい。急に私は人前で取り乱した自分が恥ずかしくなった。幽平さんはそんなことを咎めるような人ではないけれど、あんなに叫んだり泣きじゃくったり、大の大人がすることではない。

「……あの、ごめんなさい、取り乱して。」

「ううん。俺も小さい頃は怖い夢を見る度に兄さんを起こしてたから。独尊丸も心配してたよ、」

ねえ、と彼が言えば、独尊丸は二人の間に入り込んでにゃあとかわいらしい声を上げる。
私はひどく安心して、自分の頬を思い切り引っ張りたい気持ちになった。そうしなくてもすり寄ってくる独尊丸の柔らかな毛並みの感覚は確かに手のひらをくすぐって、幸せな現実に目を細める。つるり、暖かいものが目尻から流れて、軽く握った手の甲へ落下する。もう怖いことも悲しいこともないのに、なんどもなんども水滴は私の手を濡らした。

「……ルリさん、泣かないで。」

「……なんでも、なんでもないんです。」

顔を上げた私に幽平さんはゆったり微笑む。独尊丸も機嫌よく尻尾を揺らめかせて、まん丸な目でじっとこちらを見つめている。そんな風に優しくされるとなんだかまた泣いてしまいそうだ。情けなく漏れ出しそうになった小さな声をのどの奥で飲み込んだ。
もう優しい二人に心配をかけてはいけない。

この血が流れている限り、私は化け物なのだ。死ぬまであの男達に追われ、迫害され続けるだろう。こんなに幸せな日々がずっと手の中にあるなんて保証は欠片も存在しない。
ならば、この幸せで満たされた日々を、幽平さんや独尊丸を守るために、もう逃げてはいられない。私は戦わなければいけないのだ。
この時がずっと続くならば命さえ賭してもいい。魂に突き立てるように、強く固く重い、心臓に刻むような決意をしたことを、優しく微笑む幽平さんはきっと気がついていない。

どこか遠くで獣のような声がする。長く長くたなびいたそれは、確かに私の体の中から聞こえたのだった。



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