目の前が白く光ったと思うと、それは白や薄灰の小さな幾何学模様をうらぶれた部屋のなかに投影し、何事もなかったかのようにすぐさま消え去った。
それはランプの赤々とした炎を直接反射させたように派手なものではなく、月夜の湖面を指先で揺らしたようにおとなしいものだったので、訝しく思った俺は考え事を中断させ、この奇妙な現象について改めて思考を巡らせはじめる。

この地下室には光源となるものが何一つ置いておらず、窓がないので外の光が入ってくることは絶対にない。唯一考えられる原因の、ここへ来るまでに持ってきたランプさえ、今は火が消えさり静まり返っている。
膝を抱えた姿勢のまま、光源を確認しようと空間へ視線を漂わせる。見上げた視線の先には、埃が積もった肖像画、うず高く積み上げられた哲学書の束、古い応接セットなど、かつてこの家で使われていた時代遅れの品々が不規則に置かれており、その中の一つ、重厚な装飾を施された姿見の中の無様な姿で縮こまる若い男は、真正面で全く同じ姿勢をする俺を怯えた瞳で見つめている。

「お可哀想なアーサーちゃん。」

銀の表面は揺らいでよくわからない。しかし鏡の中に見える影のようなものはおどけたように確かにそう言ったのだ。

あいつが来た!あいつが来た!あいつが来た!

戦慄したように両の瞳を見開き、あいつの特徴的なハットが影の頭に乗っているとことを確信した時には、異常な量の汗が額から流れ出していた。そうすることで恐怖から逃れられるかのように強く肩を抱いて真正面に意識を集中させる。
埃っぽい部屋の空気を震わせるこの声は間違いなくあいつのものだ。腕に顔を押しつけてすべてから目を背けたかった。見るな見るな見るな、そう何度も脳に命令もした。しかし鏡の中のアーサー・カークランドは、一寸も動けないという様子で反対側の硬直する俺を見ている。恐怖で目が離せない。戦場で銃口を向けられたときだってこんなことはなかったのに。

「俺に隠し事をしたって無駄なんだぜ、アーサー。」

いつの間にか涙が溢れだし、ぐちゃぐちゃになった顔を相手の足元から徐々に上げていく。
鏡の中には今ではそうお目にかかれないような黒い牛皮のブーツが見え、また顔の角度を少し上げると随分と古い形のズボンが目に入った。続いて古典小説に出てくるようなコットンの大きなリボンタイ。エメラルドの房飾りがついたジャケット。水鳥の羽が付いた帽子。その下の男の顔。

「今までなんだってやってきた俺たちじゃねぇか。」

中国をアヘン漬けにもしたし、香港を奪っても来ただろう?そう言って帽子のつばをあげた男は、見下した表情で俺を見る。
鏡の中、俺と瓜二つの顔をした海賊服の男。
海賊時代の俺。

「それがなんだ、反抗期の弟分なんかに手を焼いて、ちょっと甘やかしたら独立だなんてなあ。舐められたもんだぜ。産業革命だなんだって、そんなものは人間だけが注目してんだろ?それに手一杯なふりをして、おまえの頭の中はあの青い目の若造で一杯だったじゃねえか。」

恐ろしいその男が加虐嗜好的な視線で舐めるように俺を見る。生唾を飲み込む音が耳の中でいやに残った。
そんなに辛いんなら、もったいぶるように男は声を低め、言葉の効果を強めるように耳打ちする。

「思い知らせてやればいいじゃねぇか、」

やめろやめろやめろ!!必死で耳に両手を押しつけ、奴の忌まわしい囁きを遮ろうとした。しかし瓜二つの顔を持つ男は平然と鏡から抜け出し、横柄な仕草で俺の前に立ち止まると、意地の悪い笑みを浮かべたままそっとしゃがみんで真っ向からこちらを見つめる。
お願いだから帰ってくれ!くちびるが痛くなるほど噛みしめ、床に崩れるようにしてやっと鏡から目を背けた。こんな無様な抵抗をしたって意味がないのはわかっている。なんてったって相手は悪魔のような目利きの鋭さで俺の中から決定的な弱点を引き出し、それを一番効果的なやり方で抉り、屈服させるのが一番の特技なのだから。

ころせよ。
目の前のくちびるがそう動いた。
なに、機会なんていくらでもあるじゃないか。やめろやめろやめろ!!会議の時に油断しきったあいつの懐に短剣を突き刺すとか、飲み物の中に毒を入れるとか。やめてくれ!!時間だって俺たちには無限にあるだろう?お願いだもう聞きたくない!!何を必死になってんだよ相棒。黙ってくれ!!

耳を塞ぐ意味などなかった。あいつの声は鼓膜を震わせることなく頭の中で直接響き、すべての言葉が俺の思考とないまぜになって胃を捻られたような不快感がこみ上げた。帰ってくれ!苦しみに耐えかねて懇願するように叫ぶと、目の前の男は首を大儀そうに傾けてから、まあ犯人が分かっちまうやり方はお利口とは言えないな、と答えた。

「安心しろ。俺がとっておきの手段を考えてやるから、お前はただ実行に移すだけでいい。」

……そう睨むなよ。 抵抗するだけ抵抗したらいいさ。無駄なもんは無駄。諦めたらいいものを。馬鹿な男だぜ、あの小僧に似て。

「……アルフレッドは馬鹿じゃない、」

馬鹿も馬鹿、大馬鹿野郎だ。育ての親に銃を向けて今では何事もなかったように生活してやがる。

「でもあいつは悪い奴じゃないんだ。俺にだって悪い所はあった。殺すなんて……。」

嘘だな。お前はいつもあれが幸せに笑うとき、ひどい目つきをしている。

「……そんなことは、」

いやそうだ。お前はあいつを恨んでいる。自分を裏切ったことを。さっきだって怒りがついに抑えられずこんなしみったれたところで思い出の玩具と遊んでたじゃないか。

「違う!ただ俺は……、」

ただ?なんだよ言ってみろよ。

「昔のことを思い出して、」

それを後悔以外の言葉で表せられるのか!?
急に手加減のない力で顎を引っ張り上げられ喉から小さな嗚咽がこぼれた。
間近でかち合った見慣れた色の瞳は大きく見開かれ、その一番奥にどす黒いものが巣食っているのが見えた。呼吸をする度に無理に上へ向けられた首の筋が痛み、一層嗚咽がひどくなる。

殺される、そう思った。この男ならばそれくらい簡単にやってのけてしまうだろう。至近距離に迫る眼球は、瞳孔が見る見るうちに縮まり、それに比例して顎を掴む力も強くなる。
酸欠で視界に白い靄がよぎった。男が口を開き叫ぶ。

「俺の言うとおりにしろ!奴を殺せ!出来ねえならお前が死ね!」

わずかな酸素も入ってこない。瞼がだって半分開くのがやっとだ。しかし腹の底では血液がいやに沸騰して、苦しみなどよりも怒りが煮立った。なぜだか涙があふれてくる。頬を滑っていくそれは血液のように感じられた。

いやだ!絶対に認めない!だって俺はあいつの兄貴だぞ?こんなところで死なないし、殺させはしない!
酸素が通っていないのかしびれた指先で床を探る。何か触り慣れた質感の物が手に当たった。本だ。視界が今度は黄色くなる。アルフレッドの髪の色を思い出した。こんなことであいつを傷つけてはいけない。その一心でつかみあげた古書を力いっぱい鏡に投げつける。
スローモーションで飛んでいく赤い背表紙が、吸い込まれるように鏡へ衝突した。一瞬遅れて聴覚が鋭い音を拾い上げる。

男が顎をつかむ指の力を緩め、背後の鏡を振り返った。俺はその隙を狙って相手へ飛びかかり、両手で強く首をつかんで力の限り押し戻す。
体勢を崩し背中から姿見へと落下する男は、よくわかっていないような表情をしてこちらを振り返る。かち合った緑の瞳の黒い瞳孔がちいさくちいさく縮んでいった。

「……できるわけっ、ない、だろ……っ、あいつは俺の、弟、だっ!」

鏡はガラスと水銀の質感を感じさせない。それこそ湖面のようにあわあわと揺らぎ、ひびの入ったその中へ男が沈んでいく。
絞殺するように力を込めた両手を、波打つ鏡面から勢いよく引き抜いた。息が荒く、汗で湿った背中に寒気が駆けあがっていく。
男は内側から鏡の表面に手をついた。再び出て来るのもしれない、そう思って身構えたが、どうやら鏡の表面はもう固まったらしく、ひび割れた男はこちらをのぞき込むように見つめて不敵な笑い方をするばかりだった。
斜めに上がったそのくちびるが、意味ありげに開いて動く。

「伝えたいことがあるなら行ってこいよ。」

思わず目を見開いた。
驚いて言葉を詰まらせているうちに、それは煙のように消え去って、ひびの入った姿見には間抜けな表情の自分だけが残った。

へたり込むように埃っぽい床に座り込み、何だったのか、ぼんやりと辺りを見渡した。鏡の側に赤い表紙の古い本が落ちている。それは何度も何度もページを開かれたため、背表紙が危うくとれかけていた。飽きるほど見返したアルバムの男は、膝ほどの背丈しかない少年と並んでぎこちなく笑っている。悪魔が最後に言った言葉を思い出した。

「伝えたいことがあるんなら行ってこいよ。」

なるほど。赤いアルバムを開きながら、自嘲するように笑う。
悪魔まで素直じゃないなんて、馬鹿げたひねくれ者だな、俺は。

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