リヒテンシュタインには物事の目盛りが見えていた。
たとえばそれは、水道の蛇口や、古いテレビの枠や、なまっちろい自分の腕や、緑の軍服を纏った兄の背中に、どこかの子供がいたずらをしたのかしら、と思ってしまうほどはっきりと、彼女の目にはシールのような薄い目盛りが見えていた。
目盛りは分度器に似ていた。
半円形で、一番左下、円形と直線が交わるところがゼロ、その反対側に位置するところが100で、間がちょうど50である。水道に貼られた目盛りの、髪の毛のように細い針が「60」を指せば、リヒテンシュタインは水を使い過ぎたと思い夕方浴槽に張る水を少なくする。
面白い本をついつい読みふけってしまったときにぽつりと背表紙に現れる目盛りが、それでもまだ「40」しか指していなかったら、彼女は嬉々としてつらつらと続く文字の列を目で追うのだ。
このようにして彼女は針が「50」を指すように、日々小さな努力を重ねるのだった。

「リヒテンは時々おかしなことをするな。」

広々としたテーブルには夕食というにはあまりにも質素な食事が並んでいた。丸い手のひらほどの大きさのパンが三つ。黄色いチーズ二欠片。少し痛んだ野菜少々ととれたての山羊のミルク。まるで成長期の人間二人分とは思えないその量に、洗ったばかりのフォークを握るリヒテンシュタインの心はきゅうっと痛くなった。なぜならそれは一人分の食事を無理矢理二人分にしたからで、なぜ二人分にしなくてはならなかったのか、その理由が自分にあると彼女は思っていたからだ。
兄は皿の幾枚か乗ったテーブルに肘を着きながら、そっと彼女から視線を外しカップに口を付ける。彼女もそれに倣いミルクを飲み下し、それから、なにがでしょう、とくちびるを淑やかに動かして尋ねた。

「先ほど食器を洗っていただろう。」

「ええ、フォークがひとつ足りなかったのです。」

「そのときお前は水の量をえらく気にしていた。」

「……さあ、覚えておりませんわ。」

「無くて七癖というが、」

妙な癖であるな、バッシュは小さく笑って、少々硬くなってはいたが安く手に入れることができたパンの三つの内ひとつを手に取った。
リヒテンシュタインは昼間の花の水やりで水を使いすぎたため、食器を洗うことにも目盛りを気にしていた自分を想像し、それからこころが透明になるような冷えた感覚を覚えた。彼女は信頼する兄にだって目盛りの話をしたことがなかったので、少なからず罪悪感のようなものを感じたのだ。嘘をついてきたつもりはないが、捉えようによっては兄様もそう思われるかもしれない。そんなことを思いながら握っていたフォークをテーブルクロスの上へ置く。

「わたくし、変でしょうか。」

「変だとは言っておらん。ただ少し、珍しいなと……。」

そこで彼女の兄は口をつぐみ、ばつの悪そうな顔をしてからチーズを塗り終わったパンに口を付けた。バッシュは心の中で、余計なことを言ってしまった、と彼にしては珍しく後悔したが、リヒテンシュタインを傷つけるためにそう言ったわけではないし、なにより彼はただ一人の家族のことを考えていたのだから、誰からも責められる必要はない。それでも彼はまつげを伏せて自分を責めた。

ほの明るい食卓で、二人は一斉に黙り込み、沈んだような心持ちでパンを分け、チーズを分け、野菜を分けた。三つあったパンの最後一つは遠慮がちに皿の上に乗っていたが、どちらも手を伸ばそうとはしなかった。
リヒテンシュタインは先ほどまでひとかけらのパンが乗っていた自分の皿に目をやり、目盛りを確認する。赤い針は「45」を指し、それは彼女自身が感じている少々の空腹感とほぼ同等の数字だと思えた。次に兄の皿へとそっと目を向ける。目盛りは「35」。彼女は残った一つのパンはきっと兄が食べるべきだと思った。

「お兄様、わたくしはもう食べ切れません。残ったパンはお兄様が食べてくださいまし。」

「我輩ももう食べきれん。リヒテンが食べろ。」

「できませんわ。もうおなかがいっぱいです。」

「我輩だって満腹なのだ。早く食べなさい。」

それでは半分こにしましょう、リヒテンシュタインはそう言うと残り一つのパンに手を伸ばし、半分に分けた。実際はちょうど半分ではなく、片方は少し大きめに、もう片方は少し小さめに分け、そして何食わぬ顔で小さい方を自分の皿へと置いた。

「リヒテン、」

「はい。」

「気を使うなといつも言っているであろう。」

「そんな、わたくし、本当に食べられないのです。」

「我輩だって同じだ。」

「いいえ、お兄様はきっと食べられるはずです。」
リヒテンシュタインは頑なだった。彼女の兄だって、妹思いの頑固者だった。やさしい二人の兄妹は、じっと相手の瞳を探るように見つめあって、再び沈黙した。
これは退いてはいけない、普段はおとなしいリヒテンシュタインであったが、このときばかりは意志の強さを誇示するよう瞳を逸らさない。
バッシュはというと、珍しく彼の意見に従わないリヒテンシュタインに対して驚き、このようなときにどうするべきか悩んだが、結局わからないまま目を逸らさずに沈黙を守った。 橙色の明かりに似つかわしくない、また、仲のよい兄妹、家族にふさわしくない沈黙だった。一分が一時間のように感じられ、空腹が一層惨めに感じられる無音だった。

「(このパンがもともと無ければよかったのかもしれない。)」

二人は同時にそう思い、隙間風が心臓の隅から入ってきたような悲しさを覚えた。相変わらず、半分に分けられたパンの大きいほうはバッシュの皿に、小さいほうはリヒテンシュタインの皿に乗っかって、当たり前のことだが勝手に動いてどこかに去ってくれはしなかった。
また次に、兄はパンを四つ手に入れられなかった自分を責めたし、妹はもっとスマートにパンを譲ることができなかった自分の器量の悪さを責めた。
ほんの少し、「もし妙な目盛なんかが見えなければ、優しさの押し付け合いのようなことが起こらなかったのかもしれない。」という考えも彼女の頭によぎったが、兄がこちらにそっと押してくれる優しさを、みすみす受け取ることがどうしても悲しくて出来なかった。彼女は愚直とも言えるほど心が優しすぎたのだ。

彼女がまんまるい瞳に透明な涙を溜めはじめたとき、くう、と椅子がきしんだ時に出る高い音に似た音がどこからか聞こえ、二人は同時にそちらへ目をやる。

「まあ。」

沈黙を破ったリヒテンシュタインが口元に手をやって兄の背後に視線を向けた時、それは、きゅう、とか、うう、とかいう音を出して、二人がいる部屋のドアの隙間をわずかに大きくした。
しっぽを揺らし、ぺろぺろと自分の口元を愛らしくなめる生き物。

「子犬ですわ。」

小さく彼女が笑いだすと、薄汚れて黒くなった子犬は盛大に尻尾を振りまわし、小さな歩幅で彼女のもとに近づく。お兄様!嬉しそうにパッと顔をあげた彼女にバッシュは小さく頷いて、皿の上のパンを小さくちぎって子犬にやった。リヒテンシュタインも自分のものを差し出し、子犬が懸命に口に入れようとする様を見て、自分の空腹感も忘れて微笑む。

「明日はきっとパンを四つ、いや、こいつの分も合わせて五つ買ってみせよう。」

そう言って兄が不器用でぎこちない最大限の笑顔を見せた時、彼女はふと、不思議な感覚を覚えた。
その時初めて、リヒテンシュタインはどうにも調節しようがない目盛りが、自分の心の表面に貼り付いていることにやっと気がついたのだった。


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