棘の話をするとなると、それに関わるあの二人についても話さねばなるまい。
彼女の柔らかな心臓に刺さった、獅子のように獰猛な棘の話である。


その棘は薄緑色をしていた。
時々光の加減で透き通って見えたりもした。透き通って見えるほど棘は小さく細く繊細で、また見る人によっては愛らしくも感じられる、そんな種類の棘だった。
しかしその実、棘は恐ろしく鋭かった。そして彼女の綿菓子のように柔らかな心臓に突き刺さっても、決して抜けない頑固さも持っていた。
だから彼女は朝夕問わず無遠慮にちくりちくりと胸を刺す棘のことが大嫌いだったし、どうすればこの棘がさっぱり抜けるだろうか、毎日そう考えてはため息をもらすばかりだった。

彼女は来る日も来る日も様々な方法で棘を抜こうと試みたが、頑固な棘はびくともしない。棘は棘で、隙をついてはもっと奥深くに潜り込もうとしたが、それを許すほど彼女は控えめでも親切でもなかった。
彼らの力はほぼ互角、ふたりは長期戦を覚悟した。

さて、話は少し変わって、棘が彼女をひどく刺す原因についてだ。それにはもちろん訳があったが、彼女は気づかない振り考えない振りをして、露に濡れた草の香りや、銀の髪の男の夢をみた深夜を、なんとかやり過ごしていた。
そう、彼女は恋をしていたのだ。
しかし彼女はそれを頑として認めなかった。

男の名前はギルベルトといった。少々自信過剰なところもあるが、目鼻立ちは整っており、腕っ節も強く、なかなか見所のある男だった。幼なじみであるエリザベータも、そんなところに恋心を感じたのかもしれない。
しかし彼女は彼に対してまったく素直ではなかった。幼なじみのギルベルトもエリザベータの前となると、途端に意志とは正反対のからかいが口を吐いてでた。なにが彼らをそうさせたのか、それを言葉で形作るなら、間違いなく幼なじみという意地や恥じらいだろう。
とにかく彼らは些細なことで衝突しては、お互いひっそりと後悔し、時には自己嫌悪の海にとっぷりと体を沈めて日々を過ごした。
エリザベータは深夜にふと、自分に向けられた彼の嫌みな表情を思い出して、涙が止まらなくなることが何度かあった。そしてその都度切り裂くように刺す棘を疎ましく思い、自分は彼が嫌いなのだと暗示をかけた。

「なによあんな男、」

何度も何度も口癖のように繰り返す彼女だったが、棘は相変わらず彼女の胸を容赦なく刺す。しかし彼女も自分の恋心を認めようとはしないので、やはり長期戦は一向に終わりを見せないまま、ずるずるといたずらに傷口を広げていくのだった。


ある日のことだ。彼女が屋敷の遣いに出ると、見たこともない上等な軍服ときらきら輝くバッジを付けたギルベルトが、庭園のアーチに寄りかかり彼女を待っていた。
彼は少し視線をあげてエリザベータを確認すると、ふたたびブーツの先を見つめて俯く。まるで「おまえなんかとは目も合わせたくない」という仕草に、彼女もつい意地を張り、一度止めた歩みを少し乱暴にして彼の前を通り過ぎようとした。
なによ。なによなによあんたなんかあんたなんか。早くここから立ち去りたいという意志に反して、木靴を履いたように重い動きをする足が、ピカピカに磨かれた男の靴の前を通過しようとする。
棘が一際激しく彼女の心臓を刺した。なんてことない、彼女は痛みを抑える呪文のように繰り返す。彼がそこに存在していないかのように少し顎を上向きに前を向いて、ともすれば緊張で絡まってしまいそうになる足を颯爽と動かした。

「戦争に行くんだ。」

男がいつもと違う、肺から絞り出したような声で言ったときには、もうふたりの距離は大きく開いていた。
彼女はすくんだように足を止めて、しかし後ろを振り返ることをしない。
彼女は目の前の鉄製のアーチや蝶々や飛び出す蔦の先端を見ながら、耳を澄まして彼の言葉を待った。近頃よく聞く「戦争」の二文字が頭の中で点滅する。棘がちくちくと胸を刺して、息を吸うことさえ不自由に感じた。

俺はもっとおまえと話をすれば良かった、彼の声は裏返るのを必死で押さえたような調子で、それがまた棘の動きを活発にさせる。
意味が分からない、彼女は強がった声を出し、あくまで平静な自分を演じたが、背後から次第に近づく男の足音に喉を締められたような気になった。ふと自分のエプロンをみると、先ほど作った洋梨タルトの汁が付着し、醜い茶色の染みができていた。手のひらほどの大きさなのに、光の加減で屋敷内では気が付かなかったのだろう。彼の目に留まらないよう不自然な位置に手を置いて染みを隠す。

「意味とかそんなのはいいんだ。俺はもっとおまえの話をきちんと聞けば良かったし、おまえも聞いてくれたら良かったんだ。」

「なんなのよ、私を責めたいの?」

「なあ、なんでおまえはそんなにトゲトゲしてるんだ?最後くらい黙って俺の話を聞けよ。」

彼女の頭の中で今度は「最後』という言葉が氷のようにつんと冷え切り、それが小さな背中を一度だけ震わせた。ぎゅっと、何かを堪えるようにエプロンの染みを握りしめる。
針を飲み込んだように肋骨の間が激しく痛んだ。もしかしたら、自分が知らない間に飲み込んでいたのかもしれない、そう思うほどその痛みはリアルだった。空気を噛むように大きく吸い込む。

「……最後、って、なによ。」

「……さっき言っただろ、戦争に行くんだ。」

「だから、だからなんで、それが、最後になるっていうのよ。」

彼は黙った。黙りながら振り返らない彼女の背中が随分と小さく、薄く、弱々しいことに気が付き、それが余計に沈黙を深くさせた。
春の陽気は暖かく、非の打ち所がないほど完璧な美しさを庭園に振りまいていたが、このふたりが立ち止まる半径3メートルほどの空間は、そっくり冬に逆戻りしたように冷えきっていた。

男はふいに女の背中を抱きしめたいと思った。それが簡単にできる距離に彼女がいて、彼女の背中が堪えきれないほど震えていて、大前提として彼が彼女を愛しているのだから、しないほうがおかしいほどだった。
仕立てたばかりの軍服を纏った腕を、そっと、彼女の狭い肩へと伸ばす。彼女はその気配に気が付かず、ただエプロンの汚らしい染みが彼の目に留まることだけを恐れていた。簡単な遣いだからと、身だしなみのチェックもせずに屋敷を飛び出した自分を責め、どうかこれ以上彼に嫌われませんように、無意識のうちでそう願う。

彼が彼女の名を呼んだ。彼女はその思いがけず優しい響きに肩を硬直させる。振り向くのなんてほんのひと息でできる。できるけれど、まだ棘との闘いに決着をつけていない彼女には、それだけがどうしてもできない。
意地でもこちらを振り向こうとしない彼女に、彼は伸ばした腕を戸惑うほど華奢な彼女の肩に乗せ、振り返らせるように強引に引っ張った。エプロンの染みを見られてしまう、とっさに彼女はそう思い、肺の空気をすべて吐き出す。
背中にひやりとしたものが滑り落ちた。バレてしまう、嫌われてしまう。そう思った。棘に刺されたその時から、彼女はただそれだけをなにより恐れていた。

「やめて、離して!」

「いいから聞いてくれ!」

「いやよ、聞かない。離してってば!」

力ずくで振り向かされた先に、兎のように赤い瞳があった。それは真っ直ぐに彼女の見開かれた双眸を射抜いている。嫌だ。こわい。嫌われてしまう。恐怖が背中まで這いあがり、彼女の手のひらが高く掲げられ、ひどい音をたてて斜めに振り切った。
いつも通りの所作だった。彼にからかわれては、いつも彼女は男の頬目掛けて右手を振りおろす。何年も何十年も繰り返されてきた動作だった。しかし今日だけいつものその所作は、大きな罪を犯してしまったという強い罪悪感を彼女に植え付けた。
自分でしたことなのに、彼女はひどく驚いた。走ってもいないのに呼吸が荒くなる。涙のたまった瞳で彼女は眼前の男を見上げた。男は何が起きたのかわかっていない表情で、自分の赤くなった頬に手を当てている。その信じられない、というような動作がさらに追い打ちを掛ける。

もう見ていられなかった。彼女は提げていたバスケットを放り投げ、一心に駆け出していた。耳の横で鼓動が響く。胸が痛い。刺されたように、裂かれるように熱く痛む。まっすぐ来た道をひたすらに走った。風で涙がほろほろと後ろに流されて、流れた軌跡が爛れたように熱を上げる。一度も振り返らなかった。振り返った時の彼の表情を見てしまったら、きっと自分は立ち直れないような気がしたからだ。

やっと彼女は屋敷のドアノブをつかんだが、その手がずっとエプロンの染みを握りしめていたせいか、真鍮の冷えた感覚は全くしない。急いで屋敷に駆け込み、閉めたばかりの扉に背をもたれる。呼吸を整えようとしばらくそのままの姿勢でいたが、彼から遠ざかった今の方がかえって息が荒くなっていた。
鼓動と同じ動きで喉の奥が熱くなり、チクチクジクジク胸が痛んで、ついにわずかな声を上げて彼女は泣いた。
いろいろなことを思い出し、想像し、後悔しながら、彼女は泣いた。自分が許せなかった。彼にひどい仕打ちをする自分や、素直になれずひどい言葉を幾度も吐いた自分が憎かった。彼女はいつか飲み込んだらしい針が心臓を突き破って自分を殺してくれることさえ祈る。彼を愛したことを認めるから、一刻も早く自分を殺してくれ、涙でかすむ視界を両の手で隠しながらそう祈った。

棘はというと、ずぶりずぶりと自分が彼女の胸に沈んでいくことに気がついた。粘着質の泥に指を沈めるように、ずぶりずぶり、棘は心臓の赤い表面に浸かっていく。
彼女が抵抗しないからだと棘は思った。ひどく痛いだろうに、とも思った。思ったけれど棘は棘なのでもちろん口がなく、それを伝えることもできずに深く沈んでいった。

棘はそのままじっとしていた。ついに半透明な体が少し心臓の表面に出るほどにまでなり、しばらくして棘は完全に彼女の心臓に入り込んだ。赤く張り裂けそうに脈打つ心臓は心地がよく、やっと安心できる場所を見つけた、棘はそう思った。しかしなんだかふいに悲しくなって、長年一緒にいた彼女のことが心配になった。
こんなに深く刺さったのだ。痛くないはずがない。辛くないはずがない。ここから出よう、彼女の様子を見てみよう。棘は心地よい赤の中でもがいてみせた。その瞬間、彼女の心に組み込まれた棘は、消えるように意識を失い、ただの棘になった。

心臓の外では女が一人、恋人でも失くしたかのようにひどく泣いている。彼女はあまりに悲しみが大きかったので、棘のさいごには気がつかなかった。

永遠に抜けないただの棘は、今でも時々彼女の胸をちくりと刺す。それは彼に似た匂いをかいだときや、彼の笑顔を思い出した深夜に、決まって彼女の可愛らしい心臓を細い鋭利な切っ先で苛むように刺すのだ。彼女がすてきな男性といくら恋をしようと、必ずあの棘は赤い目のあの彼を想ったときにだけ、罰のような容赦のない痛みを彼女に与える。


生涯にわたって抜けない棘のさいごのお話はこれでおしまい。


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