ポーちゃんおはよう、そう声をかけてもポーちゃんは靴箱の前に立ち止まって反応しない。どうしたんだろう、いつも元気に挨拶を返す彼を想像しながら足を早めて下足室に入った私は、彼の見つめる先に視線をやって大きく瞳を見開いた。
靴がない。
彼の、ショッキングピンクに塗られた上靴がどこにもない。私は驚きながらも五度目になるこの現象に呆れと怒りがない交ぜになったため息をつく。一体誰がこんな、こんな卑怯なことを。
なくなってるわ、心中のふつふつした気分を押さえて冷静を装いそう言うと、彼は表情を変えずにことんと頷いた。これが私ではなく彼の親友が相手であったならば、きっとポーちゃんは無理に笑顔や余裕を取り繕っていただろう。弱い部分を見せてくれたことに気を許された気がして、お節介気質を自覚している私は固くなった心を少しだけ和らげた。

「先生にスリッパ借りてくるから、ちょっと待っててね。」

「いいし。別にいらんし。」

「どうして。ポーちゃん裸足じゃ困っちゃうじゃない。」

「エリザベータが先生に叱られるし。」

そんなの、理由をちゃんと言えば上靴を忘れたなんて思われないよ。思ったけれど口には出さず、彼の長い長いまつげの先端を眺めて黙った。ポーちゃんが気にかけてくれた発言はできるだけ否定したくないのだ。彼はとても優しい子だ。それがみんなに伝わらないのが悔しくて、時々泣きたくなることがある。
ショップバッグに入れた体育館用の靴を取り出し、ポーちゃんの足下に置いた。みんなはキティやハートを書いて可愛くデコレーションしているけれど、私のものは買ったときのままの白さを保っている。リヒテンちゃんもセーちゃんもかわいくカスタムしているのに、部活の関係で風紀を乱す行動は我慢しなければならないのだ。

「私の体育館シューズでよければ貸すわ。今日は別のクラスの子に借りるから、返すのは明日でいいよ。」

「……ありがとう。」

くにゃり。彼の女の子みたいな顔が困ったような申し訳ないような泣きそうな風に歪む。そんな顔をしないでほしい。私までなんだか泣きそうになってしまう。
彼はロッカーに手を着きながら靴を足に入れるけれど、なかなかうまく入らない。そこでやっと、自分と彼の足のサイズの違いを思い出した。ポーちゃんがあんまりにも華奢な体つきをしているから、私は時々今のように彼が男の子だという重要なことを忘れてしまうことがある。

「ポーちゃん、遠慮せずに踵踏んでいいからね。」

「ん、いけそ。よし、入った。」

そう言うけれど、彼の足がなんとか入った私の白い運動靴はぎゅうぎゅうに膨れ上がっていて、見るからに無理をして履いているのがわかった。脱がすのも一苦労しそうなほど、おしゃれなポーちゃんの靴下が一層彼の足を苦しくしている。
ふいにくすくす言う女の子の声が背後から聞こえた気がしてはっと振り返る。数人の女子生徒がかしましく笑い合いながら廊下を駆けていった。そわりと何かに触れられた背中に、始業を知らせるチャイムが落下する。聞き慣れた大きな鐘の音になぜだかびくりと肩が震えた。冷たいものに肩を叩かれたような、そんな違和感。
怖くなって一歩ポーちゃんとの距離を詰めた。なんだか嫌な胸騒ぎがする。よくわからないけれど、わからないから怖いんだけど。

「エリザベータ遅刻するし。早く行きぃよ。」

「ポーちゃん足痛そうよ。スリッパ借りに行きましょうよ。」

「いらんし。遅刻するから行きって。」

「でも、すごく辛そうだわ。大丈夫、先生に理由を言ったら怒られないしスリッパも貸してくれるよ。」

お姉さんぶって優しく諭すように言う。しかしポーちゃんはなにも聞こえなかったみたいにただ空っぽの靴箱へ睫毛を伏せて出しかけた言葉を飲み込んでしまう。黙り込む場面ではないだろうに、どうして。考えると、無言の空気がぐわんぐわんと揺れて、私の肩はまた冷たいものに叩かれる。

「(ああそうか。)」

言えなかったんだ。きっと前にもこんなことがあったのだ。人見知りする彼はきっと、靴を隠されたことを教師に言えなかったのだ。そうして彼を忘れ物の常習犯と決めつけた教師にお小言をくらったに違いない。回答がひらめくと、くだくだ言う教師の前に立つ緑のスリッパを履いたポーちゃんが頭に浮かんだ。しっとりした長いまつげを伏せて、世界中の凶悪な思念から耐えるように両手を強く握りしめている。胃が熱くなってくちびるを噛んだ。ひどい。なんてひどい。強くそう思った。
みんな彼をわかっていない。先生も彼をいじめる女の子も彼の親友の少年も、みんなみんな彼をわかっていなさすぎる。
ピンクの靴のなにが悪い。彼の優しさも感受性の強さも案外寂しがり屋な性格もなんにも知らないで、どうしてポーちゃんに意地悪するんだ。男の子がピンクを好んでなにが悪い。人見知りで自分の言葉を飲み込んでしまって、なにが悪いんだ。

「(そうよ、戦車じゃなくてポニーを買うことのなにが悪いの。)」

「(私だって戦車なんかより馬の方がずっとほしかった。)」

「(騎馬民族だもの。そんなひどい機械よりずっとずっと馬がほしかったのに。)」

そうだ。私はあんな機械欲しくなかった。もっともっともっと、うつくしくて清潔できらきらした、そんな欲しいもの両の手では全然足りないくらい沢山あったんだ。

「エリザベータ、どうしたん?」

不安そうな影に彩られた瞳がこちらをうかがっている。そこで私は頭に浮かんでいた言葉が妙なことに気づき、冷たい空気を一息に吸い込んだ。
なんだ。ポニーって。戦車って。騎馬民族って。
私はただの女子高生なのに、当たり前のようにそんな言葉が出てくるなんて。
混乱して、思わずそばにあったポーちゃんのセーターをつかむ。なんだかとても怖かった。思い出してはいけないことを思い出してしまいそうな気がして、深い深い、落ちたらきっと助からないような巨大な穴へ落下していくような気がして、すがるようにセーターを握った。

「……ポーちゃん、」

「なんか変な顔してるしー。」

ポーちゃん。私変なの。よくわからないけど変なのよ。ああ胸がざわざわする。セーターを握る感覚がツンと冷たいものになっていった。
目の前が不安で暗くなる。変な単語が頭で回る。戦争。侵略。迫害。
どこかに潜んでいた眩暈が大きくなり、目の前のポーちゃんのくちびるがゆらゆら歪んだ。しかしそれは眩暈からくる錯覚ではなく、実際彼の薄いくちびるは外国の言葉を発音するようにいくらか動いていた。私とポーちゃんは生まれた所が違うから、その滑らかな音を聞き取ることはできても意味を理解することは不可能だ。不可能なはずなのに。

「(思い出すな、だ。)」

頭の中で誰かに囁かれたようにすんなりと彼の言葉を理解していた。こちらを見るポーちゃんの表情は、なんだかすごく厳しい目つきをしていて、私は体のみならず私を取り巻くすべての世界を巨大で得体の知れない生物に握られているような気がした。

「エリザベータ、女の子がそんな顔したらだめだし。」

彼の眉の間にできた溝が黒板消しで撫でられたように消える。はい、と彼は何かを差し出して少女のように笑っていた。私の頭にはまだ眩暈が残っていて、手を離したら落下してしまう、恐ろしい世界に戻ってしまう、そんな不安にとらわれたままポーちゃんのセーターを離すことができなかった。

「これやるから元気出せ!」

空いた方の私の左手を強い力で引っ張ると、有無も言わせず手のひらに何かを押しこんだ。恐る恐る揺れる視界で手の中を確認する。

「……あ、キャンディ……、」

「エリザベータかわいいからそんな顔してたらだめだし!そうだ、この靴ピンクに塗って沢山キティ描いたる。俺、キティ描くの得意なんよ。」

キティもピンクもだめよ。叱られちゃう。思ったけれど、一体叱られたからといってなんになるのだろう。何かが決壊したようにそう思うと、私と彼しかいない下足室が急に呼吸と馴染み始めた。手の中の小さなパッケージが、先ほどよりも重みを持っている。地面を踏む足に力を込める。大丈夫。穴などない。

「かわいいものは人を幸せにするんよ。エリザベータもかわいいもの沢山持っていいし、もっと沢山好きなことしたらいいんよ。」

彼は靴が痛いのか足下をもぞもぞしながら自信満々に付け足す。心にのしかかった暗く重いものが魔法のように消え去って、頬が緩んでいくのと同時に掴んでいた彼のセーターを解放した。

「……そ、だね。そうだね。ありがとうポーちゃん!」

そうだ。好きなことをしていいんだ。私は国立世界W学園二年生の女子高生。戦争なんか知らない。迫害なんか知らない。ピンクの靴を履いたって叱られない。私は馬のように自由だった。

「あと前から思ってたけど、エリザベータはなんで俺のことポーちゃんって言うん?おかしいし。名前ならフェーちゃんかウーちゃんじゃね?」

「あ、本当だ。どうしてだろうね。ポーちゃんなんて、私ったら変なの!」

本当に、変なの。

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