客人用にケーキを二つだけ購入したら、小さな箱に入れられた。真っ白で小鳥を入れるのに丁度いい、そんな箱だ。
手のひらに乗せてじっくり四方から観察する。ケーキはとうに食べきってしまったけれど、鼻先のそれからはまだクリームがたっぷり乗ったショートケーキが入っているかのように甘い香りが漂ってきた。よし、決めた。俺はここになにか生き物を飼うことにした。


生き物はねずみだった。金色の子ねずみ。小指の半分ほどの大きさのの小さいそいつは、白一色になってしまった空間を気にすることなく繭糸のようなまつげをじっと閉じて眠り続けている。まだ子供なのだ。寝るか食べるか遊ぶか、俺はこいつがそれ以外のことをしている場面を見たことがない。
何かの拍子に小さな頭がかくんとうなだれ、重力のまま体ごと横に倒れたが、閉じられた目は震えもせずそのまま眠り続けている。
ああそうか。ベッドがないから寝辛いのだな。
持ち上げた箱をそっとテーブルへ置き、地下の物置へと急いだ。お手製のドールハウスや人形やその家具やら、とにかく細々したそんなものがそこには置いてあるのだ。
小さいねずみに、それはそれはよく似合うものがたくさん見つかるだろう。


シンプルな箱に似合わない豪奢なベッドが置かれると、ねずみは感謝の一言もなく嬉々としてそれに潜り込んだ。まったく躾のなっていない奴だ。しかしこいつはまだまだ子供、俺もついつい甘い顔になって、ケーキをひとかけら、苺をひとかけら、パンに乗ったチーズをひとかけら、白い箱に入れてしまう。
けれど俺がどんなに味を尋ねようと、ねずみはチーズをほうばるばかりでなにも答えない。
ねずみには頭上からあれやこれや与えている俺の存在がはっきりと認識できていないらしい。こいつと俺の世界は白い厚紙の壁とそれ以上の何かで完全に遮られている。

「おいねずみ。」

「ねずみはな、もっと利口ですばしこく歯が鋭い生き物だ。」

「しかしおまえといったらなんだ。それでも英国ねずみの端くれか。」

ねずみはチーズに集中するあまり、こちらの声に耳さえ動かさない。いい加減こっちも腹が立って、ついつい語調がきつくなる。

「英国ねずみの端くれならば、脱走の一つでも試みてみろ。」

おまえの仲間がこの箱の外にいるんだぞ。
通じるはずないという前提でそう言うと、じっとチーズを噛んでいた動きがぴたりと止まり、何かを考えているような間が空いてから、とうとうちいさくなったチーズがねずみの手からこぼれ落ちた。
聞こえたのか。はっとして取り繕うように箱を掴むと、こてん、小さな体は頭から床へと倒れこんだ。箱の底からはその体の大きさにふさわしい寝息がかすかにして、なんだ、寝ているのか、俺はにわかに安心する。
これを立派な英国紳士にするには骨が折れそうだ。呆れたようにため息を吐くが、独り身の俺はなんだかひどくほっとしていた。


食い意地の張ったねずみに、せめて手掴みをやめるようドールハウスのフォークナイフ皿テーブルなどを箱に入れた。言葉が届かないようなので、テーブルマナーの教本もだ。ドールハウスといっても、俺はそんなもので遊んだことなどない。そんな時期をとうに過ぎてから趣味として自分で作ったのだ。つまり、教本の内容もフォークの形も全て俺の流儀ぴったりに作られた英国製である。

これ見よがしにテーブルセットをセッティングすると、白い箱での限られた遊びに飽きたらしいねずみは、すぐさまフォークを振り回し教本を眺めた。意味が通じるのだろうか、心配しながら見守っていると、金色ねずみは教本の内容に目をやりながらきちんと椅子に座り、フォークとナイフを手にとって、乱暴に引っ張り出したベッドのシーツをナプキン代わりに襟元へと押し込んだ。
なかなか賢い奴だ。俺はいい拾いものをしたのかもしれない。うれしくなって、大きめのチーズをやる。
それにしても殺風景な部屋だ。花でも飾らなくてはならない。それか壁に絵の具で野原でも描いてやろうか。俺は絵はさっぱりだが、緑の草をさっと描くくらいなんてことない。

ああしようこうしよう、心が弾んでいつの間にか笑顔がこぼれていた。絵の具はどこにあっただろう。考えるが、ここにはないことに気がついた。また埃まみれの地下室に行かねばならない。あのじめじめした空間が嫌いだったはずなのに、ねずみのことを思うとそれほど苦ではないような気がした。
ねずみは丁寧にチーズを切り分け、口に運んでいる。立派な英国紳士ねずみになりそうだ。けれどテーブルの下で、足の指を使ってもう片方の足を掻くのだけは注意せねばならない。


街へ出かけたがどこに行っても絵の具は置いていなかった。銃や哲学書はたくさんあるのに、ここにはないものが多すぎる。ないものを欲しがっても仕方がないので、結局ずいぶん小さくなった古い色鉛筆で草原を作った。自分で言ってはなんだが、うん、なかなか悪くない。ねずみも急に自分の周りが草原になったことに気がついて、緑の草をしきりに触り鼻をヒクヒクさせている。

「すごいだろ。」

俺が言うとねずみの大きな金の耳がぐるりとこちらを向いた。

「すごいだろ。俺が作ったんだぜ。草原だ。自由の象徴だ。」

ラッパのような耳がひくひく動く。俺の言葉などわからないねずみが、犬の尻尾のように耳を動かして喜んでいるように見えた。腹の中がなんだかむずむずとして、子供のようにわくわくしながら箱の中を覗き込む。
やつが小さな手で草の絵をなでたり叩いたりする様を眺めていると、ふいにその手は壁へと入り込んで、そのまま全身するりと緑の絵の中に吸い込まれてしまった。
なるほど。思わず感嘆の声を上げた。こうやって世界は構築されるのか。白いただのケーキ箱は、ケーキ以上の物が入る新しい世界になったらしい。ねずみが背の高い草の中を進む度、壁に描かれた緑が揺れる。

「おい、あんまり遠くに行くんじゃないぞ。猫やカラスに食われるからな。」

そう言った後で、箱の世界に平面的な緑の草原しか作っていないことに気がついた。


翌日、ドールハウスの中の物を箱の上にひっくり返した。ぶどうジュースはオーケー、ワインはダメ。うさぎはいいが猫はノー。そんな具合により分けた物を、箱の中に流し込む。
どうかねずみの暮らしやすい世界がこの中にできれば、そう思った。普段の俺を知る他の国からはらしくないと思われるだろうが、俺は戯れに作ったこの箱に、まだ右も左もわからない拾いものの子ねずみに、まるで自分の子供か歳の離れた弟に抱く様な並々ならぬ愛情を感じていた。
ねずみは俺によって自分の世界が作られたことを知ったらどうするだろう。頬がフニャフニャになって、気づいたときには黒い殺人の道具は壁の奥にすっかり入り込んでしまっていた。
可愛らしいドールハウスに俺はあんなものを作っただろうか。取り出そうと反射的に指で壁をつついてみるが、壁は指の進入を許してはくれない。
なに、気にすることはない。あいつは馬鹿だから銃がこの世界に入ったところで使い方などわからないだろう。自分自身を納得させるような言い方だったが、機嫌の良い今の自分にはそれが大きな不幸を引き起こすとは思えなかった。

さてさて続きをしなくては、思っていると、壁の中から金色の耳が現れて、そいつはいそいそ食い物を探し始める。
いつものようにチーズを一欠け差し出すが、しかしそいつは鼻をくすくす鳴らすばかりで、大好物のチーズを受け取ろうとしない。

「どうしたねずみ。腹でも痛いのか。」

ぞわりと不安が背中に触れて、トーンの低くなった声が箱の中に響いた。頭を低く下げて鼻先が着きそうな位置でねずみを見る。

「あ、」

金色の毛並みの脇に白い物が動いている。うさぎだ。真珠色した毛玉のようなうさぎ。ねずみはうさぎを飼っていたのだ。幼い顔を幸せそうにうっとりさせて、まだ子供らしいうさぎを優しく抱き抱えている。
うさぎの餌を探しているんだ。直感した俺は急いでキッチンまで走り、野菜の切れ端をかき集めて箱の中のうさぎに差し出した。毛玉のようなうさぎが飛ばされないよう、慎重に。

さあ食えうさぎ。キャベツもにんじんもレタスもおまえが食べたことのないほどうまいものだ。色鉛筆製の草より何倍もうまいはず。さあ食べてくれ。頼むからねずみをがっかりさせないでくれ。
俺の瞳は毛玉のような小さいそれの口の動きまでは観察できないが、どうにかそれを確認しようと精一杯目を凝らして祈った。レタスが分厚すぎるのかもしれない。にんじんが固すぎるのかもしれない。それとも。何か別の訳が。
額が心なしかべたべたと汗ばんでいるような気がした。細めたり開いたりする目が痛い。一度湯通しした方がいいのかもしれない、体を支えるテーブルに着いた片指が軋みを上げ、諦めるようにうさぎからキャベツを取り上げる。
無念と疲れが混ざったため息を吐きだしたとき、まって、確かにそんな声が聞こえた。

「まって。このこまだたべてるんだ。まって。」

高い声は箱からだった。箱のねずみがつっかえることなく言葉をしゃべり俺を引きとめたのだ。
芝居か何かを見ているようなはっきりしない不思議な感覚のまま、こちらを向いたねずみと指にはさんだキャベツを見比べる。よく見ると、キャベツの柔らかい薄緑の先端は虫がかじった様にギザギザ尖っていて、ウサギが小さな口で食んだらしいことがわかった。

「はやく。はやくして。」

おう、とか、ああ、とかそんな曖昧な音が自分の口からこぼれ、再びキャベツの切れ端を差し出す。

「ありがとー、いぎりちゅ!」

金色のねずみは後ろに倒れてしまいそうなほど顔をあげて、俺の名を呼んだ。青い瞳で俺を見て、その目に信頼という今まで誰にも抱いてもらえなかったものを浮かべて。

ああそうだ。
胸が震えて言葉が出なかった。

「(俺が作ったんだ。)」

これは俺が作った幸せな世界だ。王国だ。
箱の中に悟られないよう、後ずさってから勢いのまましゃがみこむ。
金色のねずみ。なんて素直な生き物だろう。ここはなんてすばらしい愛にあふれた世界だろう。両手で顔を押さえつけると、金色のボサボサ髪をした坊主が頭の中に浮かんできた。あの目に浮かんでいたのは何だったか。恐怖や飢えや孤独、そんなものばかりだったはずだ。

「(俺、俺の、世界は、)」

俺の住んでいるこの箱には絵の具がない。だって存在しない。兄たちが与える前に俺を見捨てたからだ。いや、もともと与える気が無かったのだろう。ドールハウスも木の兵隊もかわいい子犬もここにはなかった。哲学書や銃や高い葉巻しか、ここには置いてなかったんだ。

「(金色の賢いねずみ。そうだ、名前をつけよう。最高の名前を付けてやるんだ。かっこよくて強そうで、どこか優しいそんな響きの。)」

俺を捨てたこの箱の主人のようにはなるまい。痛いほどに顔を覆った手のひらの中で、誓いのように強く思った。











(アーサーはいい王様になれるかな)




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