「姉さんの馬鹿。」

「うん。」

「間抜け。」

「うん。」

「死ね。」

「うん。」

うん、なんて返事しつつ、姉さんはまったく死ぬ気配を見せない。馬鹿で間抜けで阿呆みたいに、口を横に引き伸ばした、泣き顔とも笑顔ともとれる表情をして床に伸びている。頬をはたいてやろうか。思ったけれど、そこまで追い打ちをかけてやることもないと思い直し、煮えくり返ったはらわたの温度を下げるようにため息を吐き出した。
しかし、一体私は何をこんなに怒っているのだろう。

弾き飛ばされた彼女のブラウスのボタンが床に転がっている。貝殻製か、オーロラのような輝きをしていた。それがやけに目を引くから、私は頭の中で思ってる様々なことをうまく整理できない。

「言っておくけど、姉さんを助けに来た訳じゃないから。」

「うん。」

「兄さんに言われてたまたま来ただけなんだから。」

「うん。」

「姉さんが悪いんだ。ぼうっとしてて、男を誘う。」

「うん。」

「姉さんが悪いの。」

「……ナターリヤちゃん、泣かないで。」

何を言うんだ。
私は泣いてなどいないし、姉さんはこちらを見てもいないのに、突然彼女が妙な事をこぼしたので、私は怪訝な気持ちになった。姉さんはショックで頭がおかしくなったのか?しかしまだ、彼女は綺麗な体のままじゃないか。それに泣くのは私ではない。姉さんが泣くのが道理だろうに。

「泣いてない。」

「うそ。」

「泣いてなんかない。なんで姉さんの為に泣かなきゃいけないんだ。」

「うそよ。」

「うそなもんか。」

「うそよ。」

なにも、誰も泣く必要なんかないのだ。姉さんはショックのあまり、自分か私かが犯されてしまったと思っているのだろうか。
男ならとっくの昔に逃げた。私が所用で彼女の部屋を訪れた時、背の高い屈強そうな男が慌てて窓から逃げ出していくのをはっきりとこの目で見た。姉さんは白い胸元をさらけ出して天井を見ていたけれど、その瞳は何も映してはおらず、石膏像か何かのようにじっとその場に固まっていた。私は彼女の衣服がブラウスだけしか乱れていないことに安堵して、馬鹿、そうつぶやき、ドアの前に座り込んだ。それでおわり。間抜けな女が男に襲われた。しかし女の妹に気づかれて、男は逃げた。たったそれだけ。泣きも笑いもする必要がない。要素もない。

「でも泣いてるわ。」

「何回言えばわかる。泣いてない。目を開けてよく見ろ。」

「いやよ。」

珍しく姉さんがはっきりと否定の言葉を口にした。空気を鋭いナイフか何かで裂いたみたいに、目に見えない何かを攻撃するような言い方だった。
なんなの、その言い方。私は再びむやむやと腹の辺りに熱がこもり、なんだか遣りきれなくなった。だって、姉さんは被害者なのだ。私が泣く道理もなければ、むずかって彼女をさらに攻撃する道理はもっとない。そんな道理はあってはならないのに。それなのに。
感情は徐々に体積を増やし、姉さんは被害者だという事実と矛盾する姉さんの柔らかな微笑みに、胸の内側を巨大な虫が這っているような嫌悪感まで感じはじめた。

なんだろうこの、目の前の得体の知れない女は。人間は。肉は。わからない。得体の知れないのは私なのか。他人事とすべきことに執着し、怒り、嫌悪する私こそが異端なのか。なんだ。なんなんだ。一体、この女はなんなのだ。

「(なんで姉さんは笑ってられるの。なんで姉さんは怯えないの。なんで姉さんは怒らないの。)」

はらわたが焼ける。恐ろしいほどの、自分が自分じゃないほどの怒りを感じた。
異常だ。私こそ異常なのだ。いや違う。人のために怒りを感じるのが人だ。いや人を許すのも人だ。姉さんは男を許しているのだ。なら私が怒る必要はないじゃないか。なんだこれは。矛盾だらけじゃないか。私と姉、どちらがまともでどちらが異常なんだ。

むやむや、こみ上げた怒りで魂が塗り変えられていく。殺してやる。よくはわからないけれど、そんな言葉が頭を満たして、思わず歯ぎしりをした。ころしてやるころしてやるころしてやる。握った拳に爪が食い込んでいたが、痛みすら凌駕する怒りのせいでで何とも思わなかった。さらに、自身を痛めつけるよう力を込める。
泣かないで、みたび姉さんが言った。相変わらず天に向けたまぶたをさらりと閉じて、聖母の死体らしく横たわっている。お前こそちょっとは泣いたらどうなんだ。私は腹が怒りと悔しさと情けなさで満たされていることに気付き、今度は羞恥で一杯になった。彼女の予期した通り、私の頬には生温かい涙が伝っていたのだ。

「泣かないで。」

「……泣いてない。」

「……そう、それならいいんだけど。」

「姉さんが泣くべきなんだ。」

「うん。」

「姉さんが泣けば良かったのに。」

「そうね、でももう許したから。」

馬鹿じゃないの、声を張り上げたつもりだったけれど、喉が風邪を引いたみたいに痛かったので、空気を食べたような音にしかならなかった。彼女は相変わらずの聖人面で深い呼吸を繰り返し、怒りの一片、恐怖の一欠片も体にまとわりつかせてはいない。
姉さんはずるい。唐突にそう思った。なんだか余計に悲しくなって、急に爪の食い込んだ手のひらが熱をもって痛みだす。

「馬鹿。」

「うん。」

「姉さんは馬鹿よ。」

「うん。」

「姉さんは、」

姉さんは聖女を気取ってるだけよ、うつむいて、目を閉じている彼女の瞳から泣き顔を見られないよう両手で顔を隠した。

姉さんは泣けばよかったのに。怒ればよかったのに。怯えればよかったのに。そうして私を頼って、男を殺してくれだの、ずっと一緒に居てだの、そう言ってくれたらよかったのに。聖女気取りの姉さんなんか嫌いよ。大嫌い。馬鹿。死ね。
怒りで眉間に力が入ったせいか、さっきから頭がきいんとする。満身創痍、大した怪我もしていないのにそんな言葉が頭に浮かんだ。馬鹿、馬鹿、嫌い。私は怒りを鎮めるように、繰り返し心の中でそう叫び続けたけれど、そんなことはお構いなしの姉さんの大人しい呼吸が、変に私を混乱させるのだった。




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