それは彼女も、彼女の姉のウクライナも、兄であるイヴァンだって、まだひき算ができるかできないかの年齢の頃の話だ。
みんな背なんか大人の腰ほどしかなく、大きな犬や絵本の中のおばけなんかに小さな肩を震わせていたほど心が真っ白だった。
一番年下のナターリヤなんかは特にそうで、クリスマスにはサンタクロースというおじいさんがプレゼントをくれると信じていたし、絵本で読んだ魔法のステッキを持ちさえすれば、きっとこの降り続いて止まない雪だって一瞬でからりと乾いて一面にひまわり畑が広がるのだと当たり前のことのように信じて疑わなかった。
だから自分の兄に恋愛感情をもってしまうほど純粋な彼女が、兄と結ばれて結婚できると考えたって誰にも不思議ではないし、イヴァンは殊更妹のナターリヤに優しく接していたのだから、ナターリヤが心の中の赤い糸をこじらせてしまったって誰も咎められたものではない。

美しく素直なまま(少々の問題点には目をつむって)育ったナターリヤの恋は終わりを迎えるどころかすくすくと育った。果たしてそれが正しかったのか間違いだったのかは、彼女以外の誰もわからない。それを当事者以外の者の目で判断するにはあんまりな話だろう。
少なくともこの大雪の昼に呼び出された彼女は、最近様子のおかしい兄をまだ十分に愛していたし、ほんの少しの恐怖もその裏側には潜んでいたが、そんなものには気がつかないふりを決め込んで、しっかりと兄の瞳を見つめ返していた。

「この任務は女の子じゃないとできないんだけど、」

ナターリヤはどう思う?イヴァンは口角をあげ、紫水晶の瞳でナターリヤの双眸を覗き込んだ。いたずらっぽい、どこか悪魔を思わせる瞳はナターリヤの胸をほんの一瞬締め上げたが、彼女はその窮屈さを欠片も顔には出さず、兄さんの意見に賛成、と美しく笑ってまで見せた。
暖炉の火は随分と前に消えてしまっていて、そのうえ外は轟々と叩きつけるようなひどい雪が降っている。それでも彼女の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。彼が言わんとしていることを、はっきりとした確信はないが、彼女はわかってしまったからだ。

彼女の兄はすっかり変わっていた。
彼は非常に難しく危険で厄介な任務を妹のナターリヤに課そうとしていた。それは女の身である彼女しかできないような、普通の女性からはきっと忌避されるであろう娼婦の真似事だった。

目の前の男は、紅葉のように赤くなった小さな手でナターリヤの一回り小さい紅葉をそっと握りしめてくれたあの頃の兄ではなかった。
例えるならばそれは悪魔。
自己の利益のために友人や姉弟さえも利用する彼は、紫の瞳を持った美しい悪魔だった。上辺だけの器用な優しさをいくつもいくつもポケットに入れた悪魔。
ナターリヤは近頃のそんな兄に対して、背後から迫ってくるようなざわざわとした恐怖を覚えていた。しかしそれは兄の眼の下についたクマが古いマジックでなぞったように濃いから不安になっているだけなのだと、無理やりに思い込んで大切なことだけは考えないようにした。

彼女が兄とそっくりの両の瞳で見つめ返す、ひとの良い笑顔を浮かべた男は、少女のよくする仕草のようにぴかぴかと光を反射する高価な仕事机にひじを着いて、そこからナターリヤを上目遣いで見ている。もうそれはそれは上機嫌な、鼻歌だって歌い出しそうな雰囲気で、悪魔の欠片なんて見いだせない昔の優しい兄そのもののように彼女には見えた。
あまりにも兄が幼い頃の彼のように無邪気に彼女を見つめていたので、ナターリヤは自分に不利な可能性を空気に溶かし出すくらいの速さで、少しずつ頭の中から排除していった。

きっとそうよ、そうにちがいない、ナターリヤは呪文のように乾いた口の中で繰り返す。
兄さんは悪魔なんかじゃない。兄さんは優しい方だから、私が苦しむようなことをわざとさせたりはしない、絶対ない。兄妹だもの。愛し合っているのだもの。
何度も何度もその呪文を繰り返すうちに、ナターリヤは少しずつ兄への信頼を取り戻し、幼いころのまるまると着膨れした、優しすぎるほどに優しい兄を頭に浮かべていた。

汗は自然と乾き、まともな感覚を取り戻した二の腕あたりの皮膚はうっすらと肌寒く、兄さんも寒くはないかしら、と彼女は思った。頭の中で勝手なハッピーエンドを思い浮かべる彼女は、兄の口から自分の名前がでてこないことを、幸せなキスで終演する劇の中のヒロインのように無邪気に信じ込み、ただここ最近ひどい上司に馬車馬のごとく働かされている兄の体調を心配していた。

「ナターリヤがやってくれると僕とっても助かっちゃうな。」

しかし、これは演劇でも映画でも小説でもないのだ。ここはソビエト。血液さえ凍り付く極寒の地。
背中から汗が噴き出した。
彼の後ろの窓が白や灰や薄青色に流れるように変わって、さっきまでまったくと言っていいほど聞こえていなかった、地面に羽根枕を叩きつけるような吹雪の音が耳の中で爆音のように響く。
彼女の呼吸法を忘れてしまった肺は、液体窒素を飲み込んだように真っ白に凍り、吐き出した氷の欠片に似た吐息が、目の前に移る様々なものの邪魔をした。視界に写るイヴァンさえフェードアウトするように徐々に霞んで、ただ二つの紫色をした光がこちらを伺うように、強制するような力強さで見ていることだけがどれだけパニックになろうとはっきりとわかった。

悪魔。
彼女の脳にその言葉が本能的に浮かび、その瞬間、今度は理性で黒い文字を打ち消す。
違う違う違う違う違う!

「(兄さんは悪魔なんかじゃない兄さんはそんな人じゃない兄さんは優しくておばけが恐くて大きな犬なんかに怯えて手なんか紅葉みたいに真っ赤で私だけに優しくて私を愛していて…)」

背中が何度も何度も火で炙られたかのように震えあがった。立っていられることさえ不思議なほど、極限まで歩き続けたようにももがびくびくと痙攣する。
滅多にない、眼球を後ろから押しだそうとする熱い感覚を覚えて、無意識のうちに舌を噛んで自制していた。両の瞳からこぼれおちた涙を兄に見られたら嫌われてしまう、彼女は脳にこびりついた様にそう思い込んでいたのだ。
さて、この時彼女の兄であるイヴァンは、仕事机の下で爪の色が変わってしまうほどきつくきつく自分の足を踏みつけながらさまざまなことを祈っていたが、混乱した頭で彼の双眸や窓の外に視線を向けているナターリアには一切そのことがわからなかった。
見えない心を理解する機会が一度だけ、イヴァンが「わかってくれるよね。」と今にも泣き出しそうな声で最初の一音を吐き出したときに、彼女が冷静な思考を持っていたならきっと気付くことができただろう。しかしナターリアは押し寄せる涙や悲しみや異常な鼓動に気を取られてしまっていたので、結局気付かずじまいに終わってしまった。

ええ、ええ、彼女は震え出しそうな喉を痛めつけるように力を入れて、兄の瞳にまっすぐ視線を合わせて言った。ヒリリとした舌の痛みと、鉄っぽい血の味が口の中で生き物みたいに這いまわったが、それでも彼女は涙の一筋もこぼさなかった。
ええ、きっとやり遂げてみせるわ、なんて、血の気が引いてさらに青白くなった陶器の頬で答えた彼女は、恐ろしいほど美しく笑っていたので、兄は再び心の底から祈ってしまう。

「(かみさまかみさま、どうか彼女にハッピーエンドをください。)」

ナターリヤがイヴァンに背を向けたとき、兄の紫水晶はついに耐えきれずじわりと揺れて、まるい涙が机の上ではじけた。
この二度目のチャンスにもとうとう彼女は気がつかず、鉛のついたような足取りで一層寒い廊下へと続く重いドアを開けた。それが深海に横たわった木片のような音を立てて閉じられた時、ふたりの間にできた深い溝は、ついに狭まるチャンスを永遠に、失ってしまった。

愚かな二人の兄妹は、こんな風にしてお互いを想いあうことしかできなかった。そして、誰もそのことに気がついていないので、彼らを再び近づける手だてもない。
ただ、彼らの間には崖のように深い溝が、果てのないほど遠くまで広がっているだけだった。



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