世界中で確かな事実として知られているその日のことを、ついに、そう思いながらまだ十月の半ばまでしか数えていないカレンダーを破った。何度も何度も力を込め、できる限り細かく千切る。やり場のない怒りをぶつけているのかもしれない。そんなもの、とうの昔に無くしてしまったと思っていたが、やはり時間がすべてを解決してくれるわけではないらしい。できれば生涯穏やかでいたかったのだが。
白い紙片が足元に散らばり、掃除をしなければ、そう考えたが、しかしもうその必要がないことを思い出し、そのままにしておくことにした。 もういいのだ。もう。


地球が終わります、と告げるニュースキャスターの声が、ラジオ、テレビ、ネットなどで聞かなくなってから三月ほど経ち、しかしそれはNASAが地球に衝突する億万もの隕石を処理してくれたわけではなく、ただ、ラジオ局もテレビ局もインターネットサービスも出版社も機能しなくなったから不幸なニュースを耳にすることがなくなっただけであって、毎日カウントダウンのようにカレンダーに×をつける日々が明朝で終わることに変わりはなかった。

背後の男は、もったいない、きっとそんなことは欠片も思っていない調子で不満をもらす。

「……あなた、一緒に最後を迎える方は?」

「いやだよね、ほんと。うすっぺらい友情って。」

「あなたには妹さんがいらっしゃるでしょう。」

「ナターリヤ?」

「ええ、あなたにべったりだったじゃないですか。」

うふふふ。イヴァンさんははぐらかす様な笑い方をして、君は悲しくなさそうだね、卓袱台の下で猫のように仰向けになりながらそう言った。私の1.5倍はありそうな彼の体躯は、力の抜け切った風に伸びている。その証拠に彼は無遠慮なあくびをひとつした。
しぶしぶお茶の準備を始めた私は、そんな彼とは対照的に気が落ち着かない。もとより相性が悪いのだ。なのに、こんな時に限って玄関を開けるとにこにこしながら手みやげもなしに立っている。嫌いあっていると思っていたのに、よくわからない男だ。そういうところもまた、苦手である。
私は湯気を上げる湯呑みを自分の前に一つ、イヴァンさんの前にもう一つ、音がなるべく立たないように注意しながら置いた。縁側の奥にまだまだ枯れることのない植物が黒々とい生い茂っているのが見える。冬が来る前でよかった。ただでさえ人が減って寂しいのに、枯れ草ばかりだったら一層心が冷えてしまっていただろう。

「悲しくない訳がありませんよ。巨大な雹が散々降って街は滅茶苦茶になりますし、東京タワーは倒壊寸前ですし、自分が無くなっていく感覚のなんと物悲しいものか。」

「そうかな。だってこんな事でもなかったら僕たち延々と生き続けなきゃいけなかったかもよ。」

「それは悪いことではないでしょう。生きるのが辛いわけではありませんから。」

首を傾げるようにしてイヴァンさんは微笑んだ。しかし、その行動に意味を持たせるように、じっと天を向いたまま何も言葉を発しない。
聞こえなかったのか、そう思わせる位、彼は口元に僅かな笑みを持たせたまま、無言で天井からつり下げられた電球を眺めることに集中している様子だった。そんなものを眺めて楽しいはずがない。
白い光に向けられた彼の双眸はつやつやと濡れて、湖に揺れて沈んでいく魚の腹のように、時々ちらりと鋭利に輝く。その沈黙が空気を濃密なものにさせて、私は少々息苦しさを感じた。

真空のような沈黙に若干の不安を覚えはじめた頃、笑みを湛えたままの彼はくちびるを僅か振るわせる程度に、それは菊くんだからでしょ、そうつぶやいて再び黙り込んだ。
電球の光が彼の眼球に映し出されて、もしかしたら泣いているのでは、と思った。縁側から季節外れの鈴虫の鳴く声と、僅かに湯呑から上がる半透明の湯気が、私と彼の沈黙を満たし、私はなぜか自分から声をかけることも、指先をほんの少し動かすことも、してはいけないような気がして、そのままの姿勢で眼球だけを縁側へと向ける。
視線の先には青より青い深夜の空気に満たされた暗い庭がいつも通りに広がっているだけで、イヴァンさんが凝視する電球と同じかそれ以上につまらないものだった。

「……ねぇ、」

「なんでしょう。」

「菊くんは今日まで生きてて幸せだったと心の底から思える?」

真剣な声で、庭側へ寝返りを打ちながら彼が尋ねた。そのままぼうと空気に溶けていきそうな、寂しい背中が畳の上に横たわっている。
心の底からと言われたら、果たして、と考えてしまうが、しかし自分が歩んできた中で出会ったかけがえのない人々や彼らと経験した様々なことを思い出すと、やはり恵まれた人生だったと胸を張って言い切ることができる気がする。たくさん笑ったし、たくさん泣いた。愛したし愛された。足し算引き算じゃない、暖かい綿菓子のようなものが胸の中に広がっていく。

イヴァンさんはどうなのだろう。
彼が今までどんな思いをして生きてきたのか、そのすべてを知り尽くしていると言うのはあまりに傲慢だが、しかしそのわずかひと欠片の悲しみくらいなら理解しているつもりの私は、彼がどう答えるのか無粋な好奇心が湧き出し、尋ねてみたくなってしまった。

「私はそこそこですねえ。イヴァンさんはいかがでしたか?」

「僕?」

「ええ、あなた。」

「んふふ。」

どうやら内緒にしたいらしい。
鋭利な氷の塊を墓場まで持っていくつもりなのだろうか、そう思った。
そんな厄介なものを持っていくくらいなら、このあたりで少しでも置いていったら良いのに、老婆心からこうも思った。思ったら口に出さずにはいられないお節介な質の私は、肺いっぱいに透明で冷えた空気を吸い込むと、どうでしょう、呼吸のついでを装ってそう言う。

「どうでしょう、ここら辺りで全て吐き出していったらいかがです。」

言葉にしてみると、もしかしたらそのためにイヴァンさんはここに来たのでは、という気がした。いやきっとそうにちがいない。姉や妹や部下たちにはきっと言えないこともあるのだろう。子供のような男なのだ。
最期だというのに、この男はそんなところが憎みきれないので、私はいつもひどい仕打ちが叶わないのである。
彼は横たわったまま沈黙を決め込んだ。最初は彼という存在を疎ましく思ったが、なんだか次第に同情的な気分になってきたので、同じく黙って彼の言葉を待つ。沈黙にはもう慣れた。少し冷えた指先を温めようと湯呑に手を添えるが、もうすっかり湯気は消え去り、生ぬるくなっていた。
外は薄っすらと青白くなり始め、うるさいほどだった鈴虫の声ももうしない。風の音も、人の声も、僅かな生命の呼吸音も、もう聞こえてはこなくなっていた。

「僕、不幸だったのかな。」

僅かな衣擦れの音とともに、今にも泣き出しそうな、子供のように弱々しい声が聞こえ、それから再び透明な無音が和室を満たす。
そんなことありませんよ、こちらから見えない彼の表情を読むようにイヴァンさんの頭を見ると、彼は外を眺める姿勢のまま、嘘、そうつぶやくように言った。

「次は幸せになれるかな。」

こちらからは広い割に頼りない、大人になり損ねたような背中しか見えない。しかし、おそらく彼は瞳いっぱいに涙を溜めているに違いなかった。
きっとなれますとも、そう言って、彼の柔らかい髪をそっと梳く。自分がこんなにもあっさりと彼に触れることができたとは、我ながら驚きだった。小さく震えたように頷く彼からはさっき感じた透き通った氷の冷たさは感じず、ただ子供のような体温が私の指にまとわりついて、それは生き物のようにどうしても離れなかった。

いつまでもこうしていられる気がしていた。本当に、何年何ヶ月と心に言い聞かせていたことなのに、地球が最後だなんてどうしても信じられなくなっていた。ふと気がつくと明日があって、暖かいところで心配性の友人や、優しい姉妹や、元気な喧嘩友達と一緒に笑っているイヴァンさんが、まるで未来を見てきたかのように頭に思い浮かべることができたからだ。
しかし、それもどうやら私の妄想にすぎないらしい。
胸がざわつく。全身に鳥肌が立つ。瞼のあたりがくらくらと歪む。

東京タワーが倒壊した。
自分の体のことだからよくわかる。もうじきここにも雹が降り、雷が落ち、流れ星のような隕石が直撃する。
どうかどうかどうか、その時が来る前に。

「ゆっくりお休みなさい。」

夜が明け始めた空は一層透明のような青色に変わって、毎日同じだったはずなのに、今日はなぜだかより透き通っている気がした。
男の落ち着いた呼吸音が波のように聞こえる。ただそれだけが聞こえる。彼の妹は泣いているだろうか。世界のみんなはどうしているのだろうか。神は結局いなかったのだろうか。いたからこその仕打ちなのだろうか。
そんな詮方ないことを考えて、私はいつまでもいつまでも、横たわる可哀想な男の頭を撫で続けた。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -