かわいらしいものなのだと思っていた。
兄さんはかわいらしいものが好きだから、彼の真ん中にあるそれだってきっとかわいらしいものに違いない、そう思っていた。いや、あんなにも強く衝撃を受けたのだから、かわいらしくなくてはいけないと決め付けていたのかもしれない。ならばそれは私の身勝手な理想の押しつけである。押しつけであるけれどああどうして。

「ナターリヤははじめてだったかな。」

兄さんの手の上、まるで大事な宝物のように乗せられたそれは、一定のリズムで痙攣していた。赤黒くベチャベチャしていて青緑の血管が所々に透けている、決して兄さんのものとは思えない醜い肉の塊。

「ねぇよくみてごらん。これが僕の心臓だ。」

両の手を差し出される。手の上のそれとは対照的なかわいらしい笑みを浮かべる兄さんに、愛想笑いさえ凍りついた私は思わず背中を後ろへ引いた。
視覚だけのものならまだしも、それからはひどい臭いがするのだ。血のにおいだけではなく、汗と土が混ざったものを腐さらせたような、のどの奥から吐き気さえこみ上げてくる臭い。
ふと、白雪姫の心臓の代わりに差し出された獣の心臓を思い出した。兄さんと獣を一緒にするなんて。すぐに自分をたしなめたが、もしかしたらドジな兄さんは間違えて獣の心臓を拾ってきたのではないか、そんな新たなアイデアが頭を占める。
それは願望に近かった。

「ねぇナターリヤ。よく見ておいて。僕がなくしたときに君がみつけて来られるよう、よくよく覚えておくんだ。」

そんな、そんなこと。喉のあたりにたまったぬるい空気を飲み込む。いくら兄さんの願いでも、この鉄のにおいを放つ肉塊を私がみつけてくるだなんて、想像しただけで怖気が背中を駆け抜ける。

「わ、わかりません、だって、だって名前もなにも書いていないんだもの。わかるはずない。」

「だから覚えるんだよ。よく見て。大きさも色も形も動きも。」

いつになく強い力のこもった手が、指先からかちかちに凍った私の手を引き、心臓に押し付ける。顔のひきつりさえ隠す余裕もない。蛆の湧く、動物の骨が浮き出た死骸に触れたように、手の皮膚が硬直した。硬くなった皮膚を湿った表面が押し上げ、一定のリズムで収縮する。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。くちびるがわなないて胃液が食道を這い上がってきた。睫の根本に涙が溜まって熱い。

「(動いている。気持ち悪い。ひどい臭いだ。)」

「(写真や映像で見たことはあるが、こんなにも気味の悪いものだったか。)」

「(いやちがう、写真のものはもっと表面が張って生き生きしていた。これは、この肉は、塊は、)」

腐っている。そう形容するのがぴたりと当てはまった。
兄さんは腐っているものを自分の心臓だと言って胸にしまっているのだ。異常である。今まで考えないようにしていた言葉がいとも簡単に浮かび上がった。押しつけられた右手が気持ち悪い。ぐにゃぐにゃびくびくびちゃびちゃしている。触れた手の表面から醜いものに浸食されていきそうな気がして、舌の裏に唾液が溜まった。なんだかとても吐き出したい。

「兄さん、私、よ、用事があるの。急がなければ、おく、遅れてしまう。」

「覚えたかな。覚えられたかなナターリヤ。」

兄さんはほくほくと微笑んで私のひきつり硬直した顔を見る。その無邪気な表情と心臓の生々しい鼓動。夢の中にいるような心地だった。だって、だってこんなのおかしい。
めまいのようなものが頭に響いて、私は手を心臓へと押しつける彼の腕を振り払い駆けだしていた。
怖くて気味が悪くて現実ではないみたいで、頭の中が始終ぐらぐら揺れていた。
屋敷を飛び出し、雪の中を一心に走る。冷えきった空気が体中を刺しても恐怖に近い何かに急かされて足を動かし続けた。涙さえ滲んで喰いしばった奥歯が痛い。それでも何も考えずに走った。何を考えたらいいのか、わからなかったのだ。
ついに息が切れ膝の感覚が無くなったころ、ふと辺りを見回すと、そこは冬の寒さで薄暗い森の中だった。
さっきまで何も感じられなかったのに、呼吸のたびに空気が喉を刺し、寒いというより痛いに近い。荒い呼吸が白い靄を生みだしたけれど、それさえすぐさま氷の粒になって雪の敷き詰められた地面へと落下していった。
手に血がべっとり付いていそうな気がして、無意識のうちに右手をスカートで拭う。敷き詰められた雪にスカートが濡れてしまうことも忘れ、木に隠れるようにして真っ白な根元に座り込んだ。何も追いかけてなんか来ないのに、何かが私を捕まえに来るのでは、という恐怖が肩の上に留まっている。

「(兄さんは、兄さんは、おかしい。)」

「(そうだおかしい。間違っている。だってあんな、あんな。)」

あんな腐った臓器を心臓だなんて言っている。
うう、低い嗚咽がのどの奥から洩れた。兄さんは死んだ獣のものに違いない心臓を自分のものだと信じて大切にしている。両手に持って微笑んでいる。
あんまりにも哀れだ。兄さんはどうしようもなく可哀想だ。きっと、変な連中に何かされて頭がへんになってしまったんだ。胸が苦しい。怒り以上に心まで凍りつかせる悲しみが襲って、うなだれるようにして顔をスカートの波にぶつけた。
ほろほろ落ちてくる涙は生ぬるく、それもくちびるに到達するまでに冷たい塩水に変わっていた。ほろほろほろほろ、とめどなく湧きだす涙はくちびるの中へ入っていき、私は時々それを嚥下した。悲しい辛い苦しい。涙腺が壊れてしまったように、ただ感情の波にまかせて泣いた。

「(兄さん、兄さん、兄さん、)」

「(あんなに温かい人なのに。あんなに優しい人なのに。あんなに純粋な人なのに。)」

兄さんの無垢な笑顔を思い出すと、獣のような嗚咽も止まらなくなった。
心が冷たくて冷たくて、目頭が痛くなるほど泣いた。時間も気温も体の感覚すら忘れ、ただただ涙と嗚咽をこぼし続けた。

辺りの景色が黒く染まり、自分の輪郭すら不確かになったころ、ようやく涙は止まった。きっと涙を出し尽くしてもう体には血液しか残っていなかったのだろう。
周りは雪と言う水分に囲まれているのに、くちびるの表面はかちかちに乾いている。凍っているというのが確かなのかもしれない。その判断も、体の感覚が凍りついた今の私には難しかった。
しかしいくら涙が出なくなろうと、ナイフで切り裂かれるような胸の痛みは確かにあった。泣きすぎた目頭も重だるく痛い。ならばいっそ、瞼を閉じてしまおう。

「(寒いのにあたたかい様な気がする。)」

「(眠ってはだめだ。目を開けないと。)」

「(はやく屋敷に戻るんだ。ほんとうに温かい、あの屋敷に。)」

頭の中に兄さんと姉さんの顔が浮かぶ。それは腕を伸ばせば抱きしめられそうなほどリアルで温かな存在感を持っていた。
さむいさむいさむいなあ。声に出したはずなのに、耳にその音は届かなかった。

「(はやくはやく、かえらないと。)」

「(さむすぎたこごえてしんでしまう・)」

「(ああでもそれにしても、)」

それにしても、あの醜い心臓は温かかったなあ。



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